伊和大神

伊和大神はwikipediaより、

  • 風土記』では伊和大神は出雲から来たという。「伊和」の語源について『風土記』では神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」と呟いたためとする
  • 播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。

遺憾ながら風土記で伊和大神が出雲から来たと書いてある個所は見つけられませんでしたが、「大己貴神大国主命」的な見方が出来る上に「葦原志許乎命 = 葦原醜男」の補強もなされていますから、ここは出雲系の神とみなして良いかと思います。でもって播磨風土記にある伊和大神の記述を拾ってみると、

郡名 里名 風土記記述
飾磨郡 英賀里 英賀者,伊和大神之子-阿賀比古・阿賀比賣二神,在比處.故因神名以為里名
伊和里 伊和君等族,到來居於此.故號-伊和部
揖保郡 林田里 伊和大神占國之時,御志植於此處,遂生楡樹
宍禾郡 郡名 伊和大神,國作堅了以後,堺山川谷尾巡行之時,大鹿出己舌,遇於矢田村.爾敕云:「矢彼舌在者.」故號-宍禾郡,村名號-矢田村
安師里 因安師川為名.其川者,因安師比賣神為名.伊和大神,將娶誂之.爾時,此神固辭不聽.於是,大神大瞋,以石塞川源,流下於三形之方.故此川少水
石作里 本名-伊和.
雲箇里 大神之妻-許乃波奈佐久夜比賣命
神前郡 郡名 神前者,伊和大神之子-建石敷命,山使村在神前山.乃,因神在為名
託賀郡 嫣田里 昔,宗形大神-奧津島比賣命,任伊和大神之子,到來此山云
これ以外にも村名や川名の因んだものもあるのですが、足跡は村名や川名も含めて
    飾磨郡、穴禾郡、揖保郡、神前郡、託賀郡
こうなっています。もう少し細かく言うと神前郡・託賀郡・飾磨郡は伊和大神の息子の足跡になり、伊和大神の本国は揖保川流域の穴禾郡・揖保郡ぐらいを推測します。考えやすいように播磨の郡域地図を再掲しておきます。

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時系列は調べようがないのですが、穴禾郡・揖保郡を固めた後に息子を飾磨郡・神前郡・託賀郡に派遣したぐらいの展開を想像します。


伊和大神の本拠地は?

そんな伊和大神の本拠地ですが、これは素直に現在の播磨一ノ宮である伊和神社と考えます。他だったかもしれませんが、他の候補地なんて思いも浮かばないぐらいです。ただ「そうかもしれない」ぐらいの位置にありそうな気はしています。地形図を見て欲しいのですが、

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伊和神社は揖保川のかなり上流地域にあります。つうか漸く揖保川流域にそれなりの平地が出来たぐらいのところです。でもってこの揖保川沿いに国道29号線が走っています。国道29号線は別名因幡街道または若桜街道とも呼ばれ、要は因幡に通じていますから、伊和大神が出雲系ならば因幡からこの街道を通って穴禾郡に至った可能性はあってもおかしくないですし、ここを最初に開発(占領)して根拠地としても不自然ではないだろうぐらいです。その播磨一ノ宮から少し南下すれば山崎に至ります。山崎は一ノ宮よりもう少し平地が広がっているのと、地形図を見てもらえればわかるように東西にも交通が比較的可能な位置(現在の中国縦貫道路)になります。神前郡や託賀郡への進出は山崎から西に勢力を広げた結果とも見れそうに思います。

この地形図で「伊和大神 vs 天日槍命」を考えてみます。書紀での天日槍命新羅人王子となっており、穴禾郡に居住地を与えられ、そこに住み着いたとなっています。こんなもの想像するしかないのですが、揖保川を北上して山崎方面に天日槍命は進出してきたぐらいを考えます。この北上する天日槍命を伊和大神が迎え撃ったぐらいでしょうか。撃退された天日槍命風土記では但馬へ、書紀では近江に去って行ったぐらいのところです。撃退に成功した伊和大神は揖保川流域を南下し、飾磨郡方面にも勢力を拡張したぐらいを想像します。

この地形図を見ながら思ったのですが、針間国とは伊和大神の国だったんだろうと思い始めています。その本拠地と推測している伊和神社付近も山崎あたりも平地があるとはいえ狭隘な地形で、そんなところに本拠がある国を表現して針間国と呼ばれたのかもしれません。


吉備との関係

播磨風土記を隅から隅まで読んだとはお世辞にも言いにくいのですが、どうも伊和大神と吉備との交流については記述がないように思います。ただ吉備と揖保郡の間にある赤穂郡の記録は失われており、ここでの交流・もしくは対立があった可能性はあります。播磨で吉備勢力が確実に存在していたのは印南郡で、前に出した印南別嬢伝説です。ここももう一度整理しておくと、

  1. ヤマトから国境を定めるために比古汝茅を派遣する
  2. これを出迎えたのは吉備比古・吉備比売
  3. 比古汝茅と吉備比売は結婚して印南別嬢を産む
  4. 印南別嬢は景行天皇の后となり日本武尊を産む
シンプルには印南郡は吉備の勢力圏であった事になります。印南郡の西隣は飾磨郡ですから無関係ってことはないとは思いますが、どうなってたんだろうってところです。飾磨郡のことはとりあえず置いといて、赤穂郡を少し考えてみます。播磨風土記の欠落部は明石郡と赤穂郡で、ついでに言えば備前国風土記も失われています。これを踏まえた説として、吉備の勢力が赤穂郡に進出していたんじゃないかってのがあり、古代の赤穂郡吉備国に属していたんじゃないかってお話です。

説と言うより異説に近いのですが、印南郡にも吉備勢力がいますから赤穂郡にもいても不思議はありませんし、もう少し想像を広げれば瀬戸内沿岸部の揖保郡や飾磨郡にいたって不思議ない訳です。伊和大神が出雲から揖保郡にまで進出した時期と、吉備勢力が播磨に進出した時期のどちらが先かは確認しようがありませんが、可能性としては先住の吉備勢力を伊和大神勢力が駆逐した可能性もゼロとは言えません。穿って考えれば「伊和大神 vs 天日槍命」の対決はヤマト王権が吉備の要請を受けて伊和大神勢力征伐に遣わした遠征軍の可能性さえあるわけです。

ただ風土記で読む限り伊和大神が勝ったと受け取って良い気がします。天日槍命には確実に勝っていますし、仮に赤穂郡に吉備勢力が居たとしても伊和大神が勝ったから赤穂郡は播磨に属しているぐらいと解釈するのも可能ぐらいのところです。。


壇場山古墳

JSJ様が幾度も指摘していますが、播磨の古墳で西の壇場山古墳と東の五色塚古墳は飛び抜けた大きさを持っています。それだけの大勢力が存在した傍証になるのですが、東の五色塚古墳ヤマト王権のデモンストレーションと想定すると、西の壇場山古墳は誰のデモンストレーションと想定できるかです。とりあえず候補に上がるのは吉備か伊和大神ぐらいになります。吉備の可能性も十分あるのですが、吉備であれば吉備と播磨の国境はもう少し東に変わっていたんじゃなかろうかです。ほいじゃ伊和大神かといえば前方後円墳ですから違うんじゃなかろうかです。

ではでは、どういう勢力が作ったかですが、個人的に応神天皇の播磨巡幸に注目します。伊和大神の足跡と応神天皇の足跡を表にすると

郡名 伊和大神足跡 応神天皇足跡
穴禾郡
揖保郡
飾磨郡
神前郡
託賀郡
賀毛郡
応神天皇の播磨巡幸と伊和大神の勢力圏は殆ど重なります。色んな見方は出来るでしょうが、私は応神天皇の播磨巡幸は伊和大神征伐だったと見ています。滅ぼされはしなかったと思いますが、勢力圏を穴禾郡に縮小されてしまったんじゃないかと考えています。その代わりに播磨一ノ宮で神として祀り上げられたパターンで、なんとなく本家の出雲の大国主命に似ている処遇です。結論的に壇場山古墳はヤマト王権が伊和大神勢力に勝利したモニュメントだったとしたいところです。