大歳神社からの連想 その2

大歳神社と古代明石国

福原会下山人氏の山田村郷土史より

丹生山に大国主命を祀りしは国堅の大神の子爾保都比売神云々と風土記に見ゆ、此の国堅の大神とは大国主命のことにて丹生山の西一里計にある明石郡雄岡雌岡の附近は大国主の神が八十神を生み給ひし霊地にて神出と云う地なり。早くより出雲族の蔓衍せる地にて赤石の国造は此の神裔の綿々として相紹げるものなり、されば・・・(中略)・・・猶一の証とすべきは下村に鎮座ある大歳神社は、山田庄十五ヶ村の氏神なりと伝ふ、こては日吉権現及び八幡宮より以前に祭祀ありし神にして、大歳の神は、神出村を中心に四方七八里が間の村は何れも大歳の神を氏神とせることは、此神の農業神たるの外、出雲民族との関係上、古代の民族分布の状況をも知るべき唯一の資料とすべきなり。

会下山人氏が指摘する大歳神社がどれぐらいあるか、現存しているものだけでプロットしてみました。

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気力の関係で神戸市西区・神戸市北区・三木市明石市分だけですが、結構な数があります。もっとも大歳神社は全国で万を超えるんじゃないかの推測もあるので、これだけで一概に多いと出来ないかもしれませんが、神戸市西区では約4割が大歳(大年)神社でした。これはやはり多い気がします。もちろんこれらの大歳神社がすべて大国主命が雄岡山・雌岡山で産んだ末裔かどうかは確認するのに無理がありますが、仮に関連しているものが多いとすると少し面白い見方が出来ます。

これは

こう仮定したらのお話ですが、明石川の中上流域に分布しているのは判りやすいところで、伊川流域も同様です。櫨谷川中流域はあまりに狭隘で開拓地と適さなかったんだろうです。また明石川下流域は水害が大きすぎてこれもまた開発は遅れたと見ても良さそうです。ちょっと不思議なのは印南野台地に結構な数の大歳神社が分布している事です。印南野台地は水に困るところで、明治期に東播用水が引かれて稲作地帯に変貌していますが、それまでは開拓しにくい地帯です。まあ古代規模の集落なら、小さな池が潤す農地で十分だったのかもしれません。

それと当たり前すぎることに気が付いたのですが、現在の明石市の中心街は明石川下流域にありますが、古代の明石国は明石川の中上流域に中心があったと考えられそうです。会下山人氏は明石国造は大国主命の末裔としていますが、それなら古代明石国の中心は雌岡山であった可能性があります。明石国の中心が雌岡山まで北上すれば美嚢郡も影響は避けられないでしょう。

つうか常識的に考えて古代出雲族は出雲から南下してきたと考えるのが自然です。古代出雲族が南下してきた時に美嚢郡や明石郡に先住民がいたかどうかも確かめようがありませんが、神話の雌岡山の大国主命が八十神を産んだというのは、領域宣言かもしれませんし、先住民がもしおれば征服宣言かもしれません。その時に通路である美嚢郡をわざわざパスするのは不自然ですから、明石より先に古代出雲族の入植地があったと考える方が自然そうな気がします。


神功皇后への神託

播磨風土記逸文より

息長帯日女命 欲平新羅国下座之時 祈於衆神爾時国堅大神之子 爾保都比売命 着国造石坂比売命教曰 好治奉我前者 我爾出善験而 比比良木八尋桙根 底不附国 越売眉引国 玉匣賀賀益 苦尻有宝 白衾新羅国矣 以丹浪而将平賜伏 如此教賜 於此出賜赤土 以其土塗天之逆桙 建神舟之艪舳 又染御舟裳及御軍之着衣 又攪濁海水 渡賜之時 底潜魚 及高飛鳥等 不往来不遮前 如是而平伏新羅 已訖還上 及鎮奉其神於紀伊国管川藤内之峰

登場人物をごく簡単に紹介しておきますと、

  • 国堅大神とは大国主命
  • 爾保都比売命とは丹生都比売であり、これも大国主命(会下山人氏の山田村での解釈)
  • 明石国造は大国主命の末裔(会下山人氏の解釈)
  • 石坂比売は明石国造の娘
  • 蛇足ですが息長帯日女命は神功皇后
会下山人氏は山田村の爾保都比売命が赤土(丹土)を神功皇后に贈る事で機嫌を取り結びたいと考え、石坂比売に憑依して神託を行わせたぐらいの解釈をされています。これはこれで面白いのですが、もう少し飛躍できる可能性があると思います。地元伝承をつなぎ合わせた神功皇后の進路です。

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あくまでも見ようですが明石国の勢力範囲を迂回しているように受け取れます。もちろん神託の赤土の採取のためにこのルートを取ったで説明は可能ですが、もう少し深読みしても面白いんじゃなかろうかです。神功皇后が軍勢を東に進める目的は三韓征伐と記紀ではなっていますが、大和から北九州に向かうためにはその間の勢力を通らなけければなりません。海路を取るにしても、当時の航海術では陸上の安全の確保は欠かせません。神功皇后が本当に三韓征伐を行ったかどうかなんて、神功皇后の存在からして怪しい訳であり確認しようがありませんが、ここは大和王権の大規模な西進運動が行われたぐらいに見ます。

神功時代と言うか、応神・仁徳時代の大和の西の勢力圏はおおよそ摂津までだったと考えています。そこから西に伸びようとすれば、海側なら明石、六甲山の北側の陸路を進めば美嚢郡になります。当時の明石国の立場は大和王権の西進の最前線の立場で、大きな脅威を受けていたぐらいはありえます。ここで明石国が合戦に進まなかったのは記紀風土記を信じたいのですが、合戦に至らないように政治的折衝を行ったはありそうな気がします。具体的には領土の割譲で、山田村方面から美嚢郡大和王権に手渡したぐらいです。

交渉はそこを譲り渡すだけでは大和王権が渋ったのを、山田村には勝利を約束する赤土があるとの神託を石坂比売にさせ納得させたぐらいは如何でしょうか。その辺は古代ですから、神託となればそれに従い、神功皇后は新領土の視察を兼ねながら伝承ルートを通り加古の水門への陸路を取ったぐらいのストーリーです。まあ、憶測の上に憶測を重ねるだけですが、領土の割譲はスムーズに行われただけではなく、大和王権側もいわゆる善政を敷いたんじゃないかと思っています。神功皇后もさらに西に進むのが目的ですから新領土で苛政を行って不安定にするより、むしろ手なづける政策を行い後方の安定を策したと考えています。