賀古と印南のこぼれ話

殆ど郷土史家になっていますが、まあ故郷を贔屓にしたって誰も文句を言わないでしょうから良いとします。


素朴な疑問

前に出した播磨の旧郡の地図を再掲します。

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これは応神天皇の播磨巡行にあった地図に夢前川・美嚢川志染川を書き加えたものです。ここで個人的にどうしても違和感があるのが印南郡の位置です。加古川西岸にあったのは事実でしょうが枕草子に書かれている

野は、嵯峨野さらなり。印南野。交野。飛火野。しめ野。春日野。そうけ野こそ、すずろにおかしけれ

この印南野は現在の加古郡稲美町あたりになり、場所的には加古川明石川に囲まれた台地で、明石郡の西隣になります。古代の郡では賀古郡になります。地形図で示すと、

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印南野は台地であるが故に水利に恵まれず、現在でも5000以上のため池が点在します。最初のため池は伝承では古代秦氏が入植して作ったとされ大中遺跡のような弥生中期から古墳時代中期の集落遺跡が存在しますが、多くの部分は近世に入るまで原野のままで、枕草子に書かれているような「野」の風景が広がっていました。おそらくですが播磨風土記にある

望覧四方云此土原野甚広大。而見此丘如鹿児。故名曰賀古郡

これは原野の中にため池を中心に農地が点在している様子を描写したものではないかと想像しています。ただ不思議なのは何故に印南郡ではなく賀古郡なのかです。つうのも現在でさえカコ台地とは誰も呼ばないからです。問題がさらにややこしいのは、印南郡加古川の西岸に存在している事です。


カコの由来

印南郡の謂れは風土記より、

一家云所以号印南故者 穴門豊浦宮御宇天皇興皇后倶欲平筑紫久麻曽国下行之時 御舟宿於印南浦 此時滄海其平風波和静 故名曰入浪郡

神功皇后熊襲征伐に向った時に印南浦に入港し、その時に波も風も穏やかだったから「いなみ」と名付けたとなっています。印南浦はおそらく現在の高砂あたりの加古川河口部と推測しています。ここも注意しておかないといけないのは印南浦に入港してから「此時滄海其平風波和静」になって入浪郡と名付けた訳ですから、神功皇后が立ち寄る前は印南浦とは呼んでいなかったことになります。てか、そんな馬鹿正直に解釈するのではなく、もともとイナミと呼ばれていたところに神功皇后の伝承を被せたと取る方が妥当とも思われます。ここでカコに関する面白いと言うか興味深い伝承が日本書紀にあります。

一云、日向諸縣君牛、仕于朝庭、年既耆耈之不能仕、仍致仕退於本土、則貢上己女髮長媛。始至播磨、時天皇幸淡路嶋而遊獵之。於是天皇西望之、數十麋鹿、浮海來之、便入于播磨鹿子水門。天皇謂左右曰「其何麋鹿也、泛巨海多來。」爰左右共視而奇、則遣使令察、使者至見、皆人也、唯以著角鹿皮爲衣服耳。問曰「誰人也。」對曰「諸縣君牛、是年耆之、雖致仕、不得忘朝。故以己女髮長媛而貢上矣。」天皇絓之、即喚令從御船。是以、時人號其著岸之處曰鹿子水門也。凡水手曰鹿子、蓋始起于是時也。

これまあユーモラスなお話で、応神天皇が播磨に来た時に数十匹の鹿が播磨鹿子水門に泳いで渡って来るのを見て不思議がります。ところがこれは鹿でなく鹿の扮装をした人で、なおかつかつて朝廷に仕えていた日向諸縣君牛であったというお話です。ポイントは末尾の部分で、

    是以、時人號其著岸之處曰鹿子水門也。凡水手曰鹿子、蓋始起于是時也
鹿に扮した人が集まって来たので「鹿子水門」と呼ぶようになり、水手を「鹿子 = カコ」と呼ぶようになったのはこの時からとしています。水夫をカコと呼ぶのは江戸期にも延々と続いています。この水夫をカコと呼びだしたのが応神天皇のエピソードに由来し、
    鹿子 = カコ = 水夫
と書紀はしているわけです。地理的に完全に一致するかどうかの疑問は残りますが神功皇后が立ち寄った印南浦応神天皇が立ち寄った鹿子水門は同じで良い気がします。また印南浦と同様にカコの地名も応神天皇以前からあったと解釈したいところです。そんな風に解釈すると古代にイナミとカコの二つの地名があったんじゃないかの推測が出て来ます。


川からの連想

鬼門の字源ですが、古代日本語で川は流れる音の「がはがは」からとされる説が有力だそうです。現在の日本では川は大小に関わらず「カワ」ですが、大陸では大きな川を「河」、小さな川を「川」と区別していたようです。和名類聚抄にも

河(か)は川のことで加波(かは)という

もう少し言うと古代百済語でも川は「カワ」と呼んでいたとの研究もあるそうです。播磨も渡来人が多く住んだ地域ですから、加古川を大河に喩えて(大陸サイズから無理がありますが・・・)、「か」とも呼んでいた想像をしています。ちいと飛躍なのですが、加古川沿岸の郡名には

    賀古 → かこ
    賀毛 → かも
    託賀 → たか
「か」の付く地名が並んでいます。川の流域の地名に川の名前由来の地名があってもおかしくはないのですが、加古川の「かこ」の「か」は地名ではなく川の呼び名そのものではなかろうかと思いだしています。よくあるパターンですが、
    質問者:「この川をなんと呼ぶ?」
    回答者:「これはカ(ワ)である」
応神天皇のエピソードを再考してみると、加古川の河口部で水夫を集めたエピソードに基づいたものの可能性はありそうで、集められた水夫に「どこの誰だ?」と聞いた時に「川子(かわこ、かこ)」と答えたぐらいの想像です。これがカコと聞こえたところから、
    カコ → 鹿子
こういう連想が生まれ、日本書紀の鹿の扮装をした人が集まる話に発展したんじゃなかろうかぐらいです。


で、なんですが・・・

どうにも話がまとまらないのですが、大元はイナミだった気がしています。賀古郡も印南郡も古代はイナミであり、後に賀古郡が独立したってところでしょうか。つうのも賀古郡と言っても印南野台地は不毛の地であり、古代の開発の中心は加古川東岸流域になります。これも「どうも」なんですが、印南郡にあたる加古川西岸にくらべて開発が遅れた感じがあり、加古川東岸も水利に不便していた「らしい」のです。加古川東岸部の開発も伝説めいていて、五ヶ井用水が開発の大きな礎になったとなっていますが、伝承では聖徳太子がこれを作ったとなっています。

本当に聖徳太子が工事指揮を行ったかどうかは確認しようがないのですが、聖徳太子時代のお話であれば古代レベルで「最近」になり、西岸の印南郡から見れば新興開発地ってところでしょうか。もう少し言えば加古川東岸の賀古郡を開拓した集団は西岸の印南郡とは別系列であったとも想像され、それこそ明石郡(= 明石国)つうかヤマト王権系の開拓団です。そのために印南地方のうちの加古川東岸部は賀古郡として独立し、なおかつ明石国に含まれる経過になったぐらいです。だから賀古郡の中に印南野が入っているんじゃなかろうかです。

傍証として風土記印南郡の謂れに登場するのは神功皇后ですが、日本書紀でカコの地名に関連するのは応神天皇です。これだけで断定はできませんが、カコの地名の成立の方が新しい可能性ぐらいは言えなくもありません。もう一つの傍証として景行天皇と印南別嬢の話もあります。印南別嬢は名前からして印南に関係する女性です。景行天皇の后になり死後は日岡陵に葬られたとなっていますが、この墓は日岡古墳であるととして伝承されています。この日岡陵は加古川東岸の賀古郡内にあります。つまりは加古川東岸もイナミであったんじゃなかろうかです。

もう一つですが印南別嬢の出自について風土記は、

志我高穴穂宮御宇天皇御世遣丸部臣等始祖比古汝弟令定国堺 爾時吉備比古吉備比売二人参迎 於是比古汝弟娶吉備比売生児印南別嬢

志我高穴穂宮御宇天皇とは成務天皇(景行の息子)であり、書紀では印南別嬢は播磨稲日大郎姫であり、さらに最初の皇后(後は八坂入媛命)であり、さらに成務は八坂入媛命の息子であるので時系列がグチャグチャになるのですが、とりあえず今日は置いておきます。ポイントにしたいのは印南別嬢は吉備比売の娘としている事です。これは加古川流域まで吉備勢力が伸びていたと解釈できない事もありません。結婚話云々の解釈として、明石国を橋頭保に加古川東岸まで勢力を伸ばしていたヤマト王権と吉備勢力との「令定国堺」の象徴じゃなかろうかぐらいです。

ヤマト王権が明石国から西に勢力圏を拡張した時に、加古川まで勢力を伸ばしていた吉備勢力と接触し、両勢力の境界を定め、友誼を深めるための政略結婚みたいな見方です。日岡陵が本当に印南別嬢の墓かどうかも微妙すぎるお話ですが、加古川東岸に位置する日岡陵はヤマトと吉備の勢力圏を決めた時に、吉備が東岸を譲った象徴みたいな気はしています。日岡には先日行ってきましたが、丘の上に立つと加古川西岸を一望できる位置にあります。そんな丘の上に作られた古墳の意味はありそうな気はしています。

ちょっと注釈

日岡陵の形状について2つの説があるようです。一つは円墳、もう一つは前方後円墳です。説なんですが明治期に御陵として整備した時に円墳を前方後円墳としたらしいてな話があります。一方で陪塚は前方後円墳であるために改修はされていない説もあるようで、どちらが真相かははっきりしないそうです。でもって築造年代は古く4世紀頃となっています。箸墓古墳が3世紀半ばから末ぐらいの推定がありますから、前方後円墳であれば相当古いものであるのだけはわかります。