再考と言うより勉強不足だった事を白状しておきます。つうより部分的に播磨風土記を読んで知ったかぶりをするのではなく、全部まず読んでから考察をすべきだと云う所です(相変わらず読めてない・・・漢文は手強い)。「カモ」と「カコ」の二つの地名表記があると前回は喜んでいたのですが、なんのことはない賀古郡とは別に賀毛郡がちゃんと播磨風土記に掲載されていました。賀毛の由来は、
所以号賀毛品太天皇之世 於鴨村双鴨作栖生卵故曰賀毛郡
判じ物の様な由来ですが、品太天皇(応神天皇)の時代に鴨村に二羽の鴨が巣をつくり卵を産んだから賀毛(かも)郡になったとしています。どうも本当の由来は上鴨里の由来にあるようで、原文を起こすのが手間なので要約すると、応神天皇巡幸の時に鴨が飛び立ち、これを勅命で一矢で二羽とも射たって話になっています。そんでもって
- 射られた鴨は矢を負いながら山を越えたのでその坂を鴨坂
- 鴨が落ちて死んだところを鴨谷
- 鴨を羹にしたところを煮坂
右号起勢者巨勢部等居於此村仍為里名臭江 右号臭江者品太天皇乃世播磨乃国田村在百八十村君 而己村別相闘之時 天皇勅追衆於此村悉皆斬死故曰臭江 其血黒流故号黒川
どうも応神天皇は反抗勢力を騙しておびき寄せ、これを皆殺しにしたぐらいに確かに読めます。そうなると上鴨里の二羽の鴨が射られるお話も類似のお話であり、ひいては応神天皇の巡幸は播磨侵略の足跡ではないかの解釈です。そうなってくると「賀毛 = 鴨 = 賀茂 = カモ氏」の関連性がまたぞろ浮上してきます。風土記にある巨勢部は巨勢氏になるのですが、巨勢氏自体は通説では継体天皇時代に台頭してきた新興豪族とされ、風土記編纂の時代と併せて考えると継体時代に臭江を与えられたの解釈も成立するかもしれません。
応神天皇の播磨巡行には当時の播磨国の郡の領域も示されており非常にありがたがったので引用させて頂きます。先に断っておきますが、原図に夢前川、美嚢川、志染川、明石川を追加で記入させて頂いています。
この地図が有り難いのは主要河川の名も記入してしているところで播磨の地域分布として
これを播磨旧三国でいうとこういう感じでしょうか。針間国が大きいのですがおおよそ加古川で播磨は東西に分かれていたぐらいにやはり見えます。応神天皇の播磨巡行では播磨(つうか針間国)はもともと吉備の勢力圏であったとし、応神天皇の播磨巡幸は吉備勢力の切り崩しであったとしています。吉備も古代の先進地域ですから、備前から播磨に吉備勢力が広がってもおかしくありません。これに対するヤマト王権は明石国が橋頭保であったのかもしれません。明石郡の記事は風土記に遺されておませんが、摂津から西に勢力を広げるとなると地理的にまず明石になり、明石からは西へは賀古郡、北へは美嚢郡に展開するのは自然です。針間鴨国に該当する賀毛郡は「針間」のを冠しているところから、やはり西播の針間国(吉備)の系統であったのかもしれません。応神天皇播磨巡幸の成果は把握しようがありませんが、播磨旧三国が成立していたのなら、
これぐらいを想像します。ただなんですが応神天皇の播磨巡行でも指摘されている様にヤマト王権と吉備は敵対関係と言うよりも友好関係として書かれている事が多いのは確かです。友好関係と言っても一時的に敵対関係になった時期があってもおかしくはないのですが、ふと思い出したのは風土記に書かれている-
石和大神 vs 天日槍命
- 天日槍命派は針間から撤退を余儀なくされ但馬に引っ込んだ(もともと但馬が天日槍命の根拠地だったかも?)
- ヤマト王権軍は針間のうち賀毛郡(印南郡も?)を褒賞として受け取り(ないしは占領したまま居座った)、針間国から分離した針間鴨国を作った
ごく簡単には記紀の時系列を無視している点です。賀古郡の印南別嬢伝承の時に登場するのは景行天皇で、記紀の系譜上は景行の孫(大和武尊の息子)が仲哀になり、仲哀と神功皇后の息子が応神になります。印南別嬢伝承では恋が実った景行と印南別嬢は印南郡に愛の巣を作ったとなっており、応神の曽祖父の時代には印南郡はヤマト王権の勢力圏であったと読めるからです。また印南郡の名の謂れは神功皇后も出て来ます。それと先代旧事を信じれば景行の息子の成務の時代に針間・針間鴨・明石国に国造を派遣したともなっています。つまり応神の叔父さんの時代に針間鴨国は存在している事になります。この辺の系図をwikipediaより、
記紀に重点を置けば今日の仮説は時代が合わないになってしまいますが、この時代の記紀の記述の信用性の問題も有名なところで応神と仁徳が同一人説もあるぐらいです。つまり応神・仁徳に匹敵する大王が存在したであろう(その頃と推定される大古墳が存在する)とは考えますが、記紀の記述通りの大王が順番に本当に存在したかどうかは不明であり、景行とか成務あたりの天皇の実在が疑われている説明の必要もないと思っています。では記紀の記述がすべて創作かと言えばそうとも言えないところはあります。
記紀とくに書紀の問題は神武建国の年代をかなり(600年ぐらい)遡らせているとするのが通説であり、遡らした分だけ創作や間延びが必要になる訳です。かなり力業でねじ伏せていますが、播磨風土記にある幾つかのエピソードが真実と仮定した時に、記紀の天皇の年代ほど時代は離れていない可能性は
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あってもエエだろう!
ヤマト王権を考える時に北九州との関係は常に問題になります。それこそ卑弥呼の邪馬台国の所在場所と、神武東征の関連性。さらには大和武尊の熊襲征伐のお話、その前の神武皇后の三韓征伐との関連性はどうなんだになってきます。どれも解決しようがない歴史問題なのですが、とにかく河内に王権があったのは巨大古墳が証明しています。河内の大古墳は大和・柳本古墳からの前方後円墳形式が基本的に踏襲されています。その辺から畿内のヤマト王権の勢力範囲は大和・河内・和泉・摂津ぐらいじゃなかったろうかと想像しています。
北九州や三韓への遠征は置いといても、あれだけの大古墳を作れる勢力があった訳ですから、河内王朝は古墳築造だけに熱中していたわけでなく、周辺への膨張運動も行っていたであろうとするのは自然です。大和・河内を中心と考えると、北は近江、南は紀伊、東は伊賀から伊勢になり、西は播磨になります。そういう膨張運動の痕跡として、播磨に応神天皇巡幸伝承とか、景行天皇の印南別嬢伝承とか、億計王・弘計王伝説から根日女伝承があるんじゃないかと思っています。とくに嫁取り伝承は見方によっては、被征服者から征服者への美女献上と解釈する事も可能だからです。
最後に播磨の地名の由来なんですが、旧三国のうち針間が頭抜けて広大です。広大なんですが、広大である分だけ一国として成立していなかった可能性はあるとも思っています。ある時期の針間の情勢として、
- 北部に天日槍派の勢力
- 西部に吉備系の勢力
- 真ん中の市川流域あたりに先住勢力(たとえば石和大神派)