続賀古と印南こぼれ話

郷土史家の飯沼博一氏の五ヶ井用水を歩くを読んだのですが、前回の話に補足が必要と判断しました。私は播磨出身の人間ではありますが、加古川市には殆ど行った事がなく、どうにも土地勘が鈍かったので有り難い情報になっています。ここのところ毎回出している播磨旧郡地図をまた出します。

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これを念頭に置いて話を進めます。


印南野台地

賀古郡と印南郡の話のもともとのテーマは枕草子にも書かれている印南野は賀古郡にある点(現在の加古郡稲美町あたり)です。印南野は印南野台地とも呼ばれる台地で、台地の宿命で水利が悪く開発が遅れ、長く「野」になっていました。そのあたりの印南野の状況を農林水産省淡河川・山田川疏水の御坂サイフォンを設計したパーマー〜我が国最初の大規模サイフォン〜から、

  • 印南野台地は瀬戸内海気候の小雨地帯に位置する台地であり、砂やレキ混じりの土質のため地下水も弱く、水に乏しい地であったため、河川から水を引くことが明治以前から試みられていた。
  • 水がないため、住民達は綿花しか頼るものがなく、綿布の販売などで生計を立てていたが、明治に入り、海外から低価格の綿が輸入されるようになると、綿布の販路は途絶してしまう。さらに、明治9年の地租改正がいっそう住民を苦しめていく。姫路藩時代は地域事情から税が軽減されていたが、地租改正により、平均で2倍半、ある村では5倍近い増税となった。税金の減額を政府に申し入れるが、聞き入れられることはなく、村が生き残っていくためには疏水を造り、稲作を行うしか方法がなかった。

疎水を作ったのは稲作に転換するためですが、同時に多くのため池も作られています。疎水を作ったらため池は不要になるんじゃないかと思ったら大間違いで、疎水が取水できるのは取水される川の流域が農閑期になった時になり、その間にため池に水を蓄えるシステムだったそうです。印南野は全国でも有数のため池密集地帯ですが、これらのため池の多くは明治から大正期に作られたとなっています。

淡河川疎水で最大の難所は取水源の池から谷を下って再び上る個所があった事です。土木学会の選奨土木遺産によると、

  1. まず57メートル落下する
  2. 次に180メートル平行移動する
  3. そこから54メートル上昇する
どんな感じなのかの画像ですが、

ちょっと見にくいですが、導水管が斜面を下り、向こう側の斜面を登っているのが見えるかと思います。いわゆるサイフォンの原理で谷を越えて水が送られる淡河川疎水が成功し、後に山田川疎水も成功して印南野を豊かな田園地帯に変貌させたのですが、それ以前の田畑の状況はどうであったかです。近畿農政局の加古川流域の農業

中世末(1590年頃) 近世中期(1737〜1852年)
水田 水田
197.7町 69.5町 309.6町 673.1町
1590年とは秀吉が天下を統一した頃で、1737年とは10代将軍家治の頃になります。水田は1590年頃で約200町、1737年頃で300町あり、それなりにありそうにも感じますが、淡河川山田川疎水が完成後には農地面積が2500haになったとされます。「1ha ≒ 1町」になりますから2500町。1737年頃の田畑の合計面積が982.7町ですから農地面積にして2.5倍、また畑の多くが稲作に転換したと考えれますから、恩恵は多大というところです。これを1590年頃と較べると農地面積だけで10倍以上です。

江戸期後半に綿花栽培が盛んになったのは言うまでもなく木綿需要の増大のためです。木綿は前にやりましたが、国内栽培が根付いたのは江戸期に入ってからで、印南野の畑面積の増大は綿花増産のためとして良さそうです。印南野は江戸期には姫路藩領であったようで、姫路藩は姫路木綿を専売品として大きな利益をあげていましたから、綿花栽培が奨励されていたであろうことは十分に想像されます。余談ですが、綿花栽培は江戸期には商品作物として価値が高く、高価なニシンの肥料をつぎ込んでも余裕で利益を産みだせる作物でした。利益があり過ぎて稲作から木綿栽培に転じようとする農家が多すぎて、これを抑制する政策まで行われた記録が残っています。姫路藩では専売にしていましたから印南野の農民の旨味は「さほど」だったかもしれませんが、明治期に国内の木綿産業が衰退するまでは印南野の農民はそれなりに豊かだったかもしれません。

木綿の話はともかく、疎水完成後の農地面積が現在の田園風景だとすれば、

  • 秀吉の時代で田畑は1/10で、9割方は野原
  • 江戸後期で田畑は4割程度で、6割方は野原
これが平安期ぐらいなら、1割未満つうか数%程度の田畑であったと考えるのが自然です。印南野で農業は弥生時代から行われていたようですが、農業的には不毛の地として見なされていた気がしています。


明石と印南

話を古代に戻しますが、明石川流域には早い時期に明石国が成立していたと見て良さそうです。明石郡の記録は風土記からも逸文を除いて失われていますが、地理的にヤマト王権の西への橋頭保的な地位にいたと推測しています。この明石郡の西隣に印南野はあるのですが、古代ではここが明石国の西の国境であったと考えます。国境が山であるのはポピュラーな境だからです。古代の開発は田畑とくに田を作り稲作を行う事ですが、おそらく明石国の人間は印南野にまったくに近いほど興味を示さなかったと想像しています。たしかに平地ではありますが、上記した様に水利が悪く不毛の地としか見えなかったと思っています。

ここでなんですが、加古川下流域にも別の開発団が住みついていたとして良さそうです。風土記を読む限り吉備系の可能性が高そうですが、この開発集団を「イナミ」と呼んでいたと想像します。少し飛躍ですが、明石国の西隣はイナミの人間が住み、印南国と言うべき独立集団がいたと明石国の人間は認識していた可能性があります。だから国境線とした印南野台地に「イナミ」と名付けたんじゃないかと思っています。もう少し大雑把に西の国境の向こうをすべて「イナミ」と呼んでいたぐらいでもエエかと思います。

明石国が最初からヤマト王権の出店的な国であったのか、いつの時期からか服属したのかは不明ですが、播磨の二大古墳の一つである五色塚古墳の推定築造年代が4世紀末-5世紀初頭となっていますから、この時期にはヤマト王権下の国であったとして良いんじゃないかと考えています。5世紀初頭には河内に大古墳が作られていますから、その頃にヤマト王権の播磨進出が本格化していたとしても時期的に矛盾しないと考えています。明石から西に向かうと印南野を越えて加古川下流に進む事になります。この時に印南と明石の両勢力が接触したと想像しますし、接触の模様が印南別嬢伝説となって風土記に残されたと私は考えています。


五ヶ井用水

加古川下流東岸は伝承では聖徳太子が築いた五ヶ井用水により潤されたとなっています。まず聖徳太子は播磨に所領を持っていた記録があります。推古紀より、

秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歳、皇太子亦講法華經於岡本宮天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

この播磨の水田100町は現在の揖保郡太子町にある法隆寺領荘園鵤荘に比定されています。しかし揖保郡は揖保川下流域の郡ですから加古川とは無関係です。加古川東岸で太子由来の遺跡と言えば鶴林寺ですが、飯沼氏は太子が創建にに直接関与していなかったとされています。

一方、鶴林寺であるが、『鶴林寺縁起』では、「聖徳太子秦河勝(はたのかわかつ)に命じて堂をたてさせ、高麗(こま)の恵便(えべん)を僧とした」とある。
しかし、寺域から飛鳥時代はもちろん、奈良時代の古瓦などが全く出土していない。
それに、建築様式などから鶴林寺平安時代初期の創建と考えられる。
そして、さまざまな研究により、鶴林寺の「太子信仰」は、法隆寺より四天王寺との関係により生まれたものらしい。
五ヶ井用水と聖徳太子のつながりは考えにくい。

ただなんですが、

五ヶ井用水の伝承はともかく歴史は古い。
加古川下流の左岸(東岸)は、右岸(西岸)と比べて、流れがゆるやかで早くから安定し、聖徳太子の伝承が引き合いにだされるほど古い。
奈良時代には、条里制が発達し開発が進んでいた。
この頃、加古川の旧流路を利用して「五ヶ井溝」が使われていたようである。

条里制が確認される地域として近畿農政局の加古川流域の農業

加古川の西岸は川からかなり引っ込んだ山側に農地があるのに対し、東岸では川に沿ってより広い農地が存在するのが確認できます。加古川は播磨で一番大きな川ですが、下流域になるほど水害の影響が強くなります。この加古川流路の変遷について国土地理院治水地形分類図に幸いな事に掲載されていたので引用します。

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地図を見ながら考えていたのですが、加古川西岸の山側の田畑は加古川ではなく法華山谷川の流域に作られ、加古川に対しては水害を起こしやすい地域を避けるようになっている様に見えます。一方の東岸は加古川に接するように広がっています。どうもなんですが、加古川の流路変更は西に振りたがる傾向があるぐらいの理解で良さそうです。少し推測を広げると、原初は印南野台地に接するように流路があったのが、堆積により西に西に流路を変えていった経緯があったんじゃなかろうかです。この東から西に流路が変わった時に、東岸に加古川の分流が残されていたんじゃないかの飯沼氏の意見に私は賛成します。この分流は現在の五ヶ井用水の取水口である日岡あたりに始まっていて、それ故に日岡は神聖視された可能性はあります。

分流を利用しての農地開発ですが、東岸の水害が減り川沿いに農地が作れるぐらい安定すると同時に新たな問題が発生したんじゃないかと想像しています。どんな問題かと言うと東岸の水利の要である分流がやせ細ってしまった可能性です。聖徳太子伝承の五ヶ井用水の掘削とは、水量が落ちた分流に人為的に水量を増やす工事を行った事を指すだろうぐらいの考え方です。もちろん工事は試行錯誤も含めて何段階か行われたと思いますが、それを太子伝説(つうより太子信仰)に被せたとの飯沼氏の意見に賛成です。近くに鶴林寺もありますからねぇ。


古墳

誰が加古川東岸を開発したかですが事実上2択で、

  1. 吉備系の印南
  2. ヤマト系列の明石
吉備かヤマトの2択としてもエエと思います。これを考えるヒントにしたいのは古墳になります。この辺の古墳群として日岡陵がある日岡山古墳群と、日岡から2kmぐらい上流でやはり川の側の丘にある西条古墳群があります。どちらもマイナーなので拾えるだけの情報を見てもらいます。
名前 形式 築造推定年代 全長(m) 円墳部丘長
日岡山古墳群 西大塚古墳 前方後円墳 4世紀頃 74 40
南大塚古墳 前方後円墳 90 57
西車塚古墳 円墳 23
勅使塚古墳 前方後円墳 54.5 32.5
日岡 前方後円墳 4世紀頃 85.5 50
西条古墳群 尼塚古墳 帆立貝型前方後円墳 5世紀中頃 51.5 44
行者塚古墳 帆立貝型前方後円墳 5世紀初頭 100 70
人塚古墳 帆立貝型前方後円墳 5世紀中頃 63
西条52号墳 円墳に突出部を持つ 3世紀前半 25
古墳の形態の基本知識として帆立貝型前方後円墳は、前方後円墳の前身型というか、帆立貝型前方後円墳が進化して前方後円墳になったと考えられています。箸墓のある大和・柳本古墳群がそんな感じです。それと西条52号墳はもっと古い形式で、円墳から前方後円墳への初期の移行期の形態と考えられています。他の古墳との年代比較が難しいと思いますから、最古の前方後円墳と考えられている箸墓古墳が3世紀半ばぐらいが通説となっており、百舌鳥や古市古墳群にある大古墳は5世紀ぐらいです。

年代推定はとくに御陵は調査もできないので微妙なところがありますが、通説としては西条古墳より日岡山古墳の方が古いと見る様です。その割には形式が西条古墳の方が古いのは不思議ですが、ここは通説に従っておきます。それより確認しといて良かったと思うのは、漠然とこの辺の古墳で最大なのは日岡陵と思っていましたがそうではなく、一番大きいのは西条古墳の行者塚古墳で、その次が日岡山古墳の南大塚古墳になります。

まずなんですが、古墳が作られるということは、古墳を作れるだけの人民を支配する首長がいたと考えて良いでしょう。平たく言えば古代豪族なんですが、古墳から見る限り遅くとも3世紀ぐらいには、この地に人が住みつき稲作を始めていたぐらいは言っても良いと思いますし、そういう人々が大古墳を作れるぐらいに勢力を蓄えたのが4世紀ぐらいからと見ても良さそうです。それと西条古墳群も日岡山古墳群も東岸に位置しています。古墳は見せる意味もあったとすれば、古墳に葬られている首長が支配する人民も東岸におり、東岸で稲作を行っていたと考えても良いと思います。

まあ、東岸と言っても川のすぐ側にあるので、西岸から渡って作った可能性も残りますが、古墳の建設は基本的に農閑期を利用して行われたと考えたいところで、農閑期中にわざわざ川を渡って移住するような手間をかけるだろうかの疑問が残るってところです。やはり素直に東岸に住み、東岸に古墳を作ったとみたいところです。それと日岡古墳群の前方部なんですが、これは加古川河口部にすべて向いています。前方部は後世の神社で言えば参道にあたる部分ですから、前方部が向いている方向に支配地があったと見る方が自然な気がします。

形式も注目したいところで、前方後円墳となるとヤマト王権との関係を考えざるを得ません。日岡陵については明治期の改修で円墳から前方後円墳に改造した説がありますが、そうでなくて前方後円墳であればヤマト王権系の古墳と見ても良い気がします。西条古墳群の帆立貝型の説明が苦しくなりますが、古墳形式の伝播に前後があったぐらいにとりあえずしておきます。まあ、ここも日岡山古墳と西条古墳が別系統の豪族であった可能性もあると指摘するぐらいに留めます。

ただこれで吉備系が否定される訳ではありません。吉備でも古くから前方後円墳が作られています。代表的なのは造山古墳で、全長350メートル(全国4位)の巨大古墳で、推定築造年代は5世紀中頃とされています。ですから吉備系であっても前方後円墳を作っても問題ない訳です。ただなんですが、池尻古墳群の存在があります。これは加古川西岸の平荘湖付近にあり、多くが水没してしまいましたが形式として円墳である上に、築造推定年代は6世紀半ばぐらいとなっています。


どうもなんですが・・・

川の下流は水害の影響を受けやすいのは加古川も例外ではありません。加古川下流部では西岸がより強く影響を受け、東岸が早くから安定していたと推測できそうです。そのために人はまず加古川東岸に住み着き、古墳を作り上げるぐらいの勢力を蓄えたぐらいの状況を想定します。つまり東岸の開発が先行したんじゃなかろうかです。西岸の開発は加古川の水害の影響のためかなり遅れ、池尻古墳群の年代から法華山谷川流域の開発は100年単位で後になった可能性があると考えています。平たく言えば5世紀ぐらいの西岸は手つかずの野原であった、もしくは豪族としては点在する小さな勢力であったぐらいの見方です。

JSJ様は播磨の開発は河川の左右に広がる単位で行われていると指摘されましたが、加古川下流域は例外であった可能性があるかもしれません。加古川は播磨随一の大河ですから、両岸を支配するような古代豪族が誕生しなかった可能性です。そう考えた時に印南別嬢伝説が矛盾しないかですが、この伝説全体をヤマト王権による加古川東岸の政治的な取り込み運動と見たらどうだろうかです。「どうも」ばかりで申し訳ないのですが、吉備とヤマトは私の知る限り友好関係で、たとえば出雲の様な対立関係であったと見にくいところがあります。つまりは先祖を辿ると同族であり、その意識が双方に濃厚にあったぐらいです。

同族ですから吸収されても抵抗は薄く、残された伝承はラブロマンスになったぐらいはいかがでしょうか。ではでは印南野が賀古郡にある謎ですが、半独立であった加古川東岸地域をヤマト王権が吸収する以前は、明石国から見て印南野台地以西をすべて「イナミ」と呼んでいた名残の気がしています。ヤマト王権側としてイナミのうちの加古川東岸部を賀古郡と名付けて取り込んだぐらいの意識です。その時に西岸部はイナミとして残ってやがて印南郡になり、印南野台地は不毛の地に近いですから、そのままイナミと呼んでいたぐらいを考えています。

ここも風土記を重視すればイナミは波に因む地名の可能性は残り、明石から西、飾磨あたりまでの海岸地帯を漠然とイナミと呼んでいたのかもしれません。語源的には無理がありますが、高砂の海岸の松原は古代も見事だった気がするからです。そういう長く続く海岸線に松原がある風景をイナミと呼んで・・・いたのかなぁ?