日曜閑話82-5

今日の古代史知識整理は「畿内」です。漠然と畿内王権と言っていますが、古代人が指していた畿内はどれぐらいの範囲であったのだろうです。一般的には

この5か国を指すはずです。畿内とは都の周辺の地域を指します。畿内に似た言葉として近畿がありますが、これは文字通り畿内に近い(隣接)ところを指すものであり、現在の感覚にあえて置き換えれば、
    畿内・・・東京
    近畿・・・首都圏
こういう感じになります。畿内と言う定義は律令制に伴って定義されていますが、定義されたから畿内になったのではなく
    そこら辺までがホームグラウンド
こういう感覚があったとして良いかと思います。律令制孝徳天皇大化の改新から始まるとして良いのですが、それまでの古墳時代ヤマト王権からの直接支配領域を反映していると見て良いかと考えます。畿内の初出とされるのは大化の改新を宣言した改新の詔とされます。書紀の孝徳紀より、

畿内、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、兄、此云制西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿内

東西南北で畿内の境界を示しているのですが、

  • 東・・・名張の横河
  • 西・・・明石の櫛淵
  • 南・・・紀伊の兄山
  • 北・・・近江の逢坂山
紀伊の兄山がどこか判りにくかったのですが、調べると現在のかつらぎ町にある山とされています。地理的にみると案外興味深くて、東の名張の横河は現在の桜井(古代なら磯城)あたりから宇陀(兎田)を越えて到ります。これを伸ばせば伊勢まで続くのですが、畿内名張までとしています。南の紀伊の兄山は感覚的に吉野から紀の川を下る流域を指しているかと思いますが、現在の和歌山市は含んでるのかな? 北は佐紀丘陵を越えはしますが、近江の手前で北限のようです。地図で示します。

水運から考える畿内

改新の詔にある畿内を定義した感覚を考えています。ホームグラウンド感覚とは「手軽に行きやすい」も同時にあったと思っています。実際に自分で行かなくとも「行ける」と言う地理的実感です。当時の陸路はプアですから、水路を中心に考えてみると案外見えて来そうな感じはします。河内と大和はシンプルで大和川水運で密接に結ばれています。畿内王権の初期はそれこそ河内と大和が畿内だったと思っています。南も判りやすくて吉野はそれこそ神武以来の関係があります。吉野から紀の川流域は裏庭って感覚でしょうか。

東は調べて判ったのですが、名張川水運が活発だった様です。名張川名張から月ヶ瀬を通り木津川と合流します。この水運は東大寺造営の時にも資材運搬に活用されたとなっています。その名張川の起点と言うか拠点が名張であったぐらいに推測します。地図で確認してもなかなか雄大の水路です。

北は水運で考えると逢坂山は大津を見下ろす場所に位置し、瀬田川の源流を抑える位置にあります。淀川水運も畿内政権が重視していますからここまで抑える意味はありそうな気がします。西が少々意外なところです。シンプルには瀬戸内海運を抑える目的と見ますが、何故に明石なんだってところです。


畿内王権

畿内王権は広域王権が成立していたと見ていますが、広域王権は王権の中心部(王都)に支配地から物資を集める事で栄えます。律令制で言えば租庸調みたいなものです。これが効率的に集まる事によって王都が栄える訳です。その栄え方を端的に示しているのが大古墳と考えています。畿内王権の主要な物資供給地帯は地理的に素直に考えて近江と播磨はあると見ます。どちらも広い平野を抱え、古くから開拓が進んでいるところです。そのうえ、播磨からなら瀬戸内水運が使えますし、近江からなら琵琶湖から淀川水運が使えます。

畿内の北限とされた逢坂山ですが、どうせ北限とするなら南近江を含んでも良さそうな気がします。播磨も同様で加古川水運が有効に利用できる河口部の高砂あたりまで含んでも良さそうな気がしてなりません。でも含んでいません。なんとなくこの辺りに畿内王権の勢力図の境界がある様な気がしています。畿内はホームグラウンド的な地域と推測しましたが、近江や播磨は7世紀になってもビジター的な感覚の残るところだったのかもしれません。古墳時代の広域王権と言っても律令制ほどの中央集権制はなかったと考えるのが妥当です。

広域王権と言っても実態は畿内に強力な連合体があり、これが巨大であるがために周辺の豪族(氏族)が単独では抵抗しがたいために服属している感じでしょうか。畿内王権が確立したのは中央部の結束が強く、内紛があってもコップの中の嵐に留められたからではないかと考えています。大王位の継承をめぐる争いがあっても、あくまでも中央部の争いに留まり周辺部に波及しなかったぐらいの見方です。もう少し言えば内部では争っても外部に対しては団結するみたいな状況です。そうやっているうちに中心部が段々に拡大していったぐらいの考え方です。そうやって拡大した中心部ですが、7世紀でもこれぐらいであったとは見れない事はありません。近江や播磨には畿内を広げられなかったんじゃなかろうかです。


これに関連してですが畿内の5大古墳群の盛衰は

こう推移したと言うのが考古学的見解のようです。これは先日、神戸市埋蔵文化物センターに見学に行った時に仕入れた知識です。シンプルには西に西に移動しているのですが、西に移動すると言う事は西からの物資供給が豊富だったと見る事も可能かと考えます。直接には河内の生産力とも考えられますが、それよりも近江の生産力をアテにしたんじゃないかの可能性も考えています。近江の物資は琵琶湖から淀川水運を使って河内に運ばれると見て良いと考えます。大和柳本古墳群から佐紀盾並古墳群に中心が移動したのは、
  1. 近江 → 琵琶湖 → 瀬田川 → 木津川 → 佐紀丘陵 → 佐紀盾列
  2. 近江 → 琵琶湖 → 瀬田川 → 淀川 → 河内湖 → 大和川 → 佐紀盾列
1.のルートのネックは木津川を遡る点と佐紀丘陵の陸路です。それならばとそれならばと古市古墳群に拠点を変え、
    近江 → 琵琶湖 → 瀬田川 → 淀川 → 河内湖 → 古市
こうしたんじゃないだろうかです。継体によるクーデター戦もこう理解すると説明がしやすくなります。巨大な物資供給地を背景に近江から当時の畿内王権の中心地である百舌鳥に進攻です。近江から河内へは淀川水運を使えば続々と物資と援軍を補給できます。逆に河内側は物資供給源が断たれてしまった状態になり、消耗戦状態に陥らざるを得なかったぐらいの見方です。ほいでは何故に継体は大和に都を置いたかですが、追撃戦と見る方が自然な気がします。河内側が逃げるとしたら大和川を遡って大和しかないからです。

まあ、そんな事を考えていました。