日曜閑話79-5

今日のテーマは「困った」です。ある目論見で古代史ムックをやっていたのですが、完全に行き詰まったぐらいです。

    「もうちょっと、先見て書かんかい!」
この批判は甘受します。


基本プロット

チイと煩雑なんですが、文明の発達段階の類型として

  1. 人が住みムラが出来る
  2. ムラが大きくなりクニ(都市国家)になる
  3. クニは隣接のクニと角遂を余儀なくされる
  4. クニを幾つか合わせた大国ができ、やがて都市国家から領域国家に発展する
  5. 大国同士のサイバイバル戦の末、統一国家が生まれる
モデルにしているのは古代ギリシャと大陸の春秋戦国時代です。この経過の途中で一時的な覇者は現れます、春秋時代なら斉の桓公、晋の文公、楚の荘王てなところでしょうか。古代ギリシャならアテネであり、スパルタであり、テーバイであり、マケドニアってところです。もちろんこういう経過を辿らない地域もあるでしょうが、北九州はこういう経過、とくに古代ギリシャタイプになっていたと考えています。有力都市国家はあっても北九州統一王権みたいなものはついに現れなかったの考え方です。卑弥呼も覇者の一人に過ぎないぐらいです。

畿内の方が遅れている訳ですが、畿内もまた北九州的な発展を遂げつつあったと見ています。高地性集落の存在です。しかし畿内は北九州の様に延々たる抗争状態にならず統一王権が誕生してしまった訳です。畿内王権の原型は古墳時代に出来上がっていたと見ています。畿内王権がもたらした平和により古墳築造に血道を挙げていた時代の考え方です。では北九州と畿内が何故に違う道を歩んだかですが、仮説として誰かが畿内を平和にさせるキッカケを作ったんじゃなかろうかです。

畿内王権の原型が古墳時代に出来たの仮説の延長線上でヒントになりそうなものは神武東征伝説です。とにかく神武は西から来てヤマト政権を作った伝説があります。あるだけでなく古墳時代畿内政権から記紀編纂の時代まで伝承されていた点を重視した訳です。この神武が来た時期ですが、なにか大きな変化が畿内に起こる必要があります。そこで目についたのが銅鐸。銅鐸自体は畿内周辺に多いのは確かですが、畿内政権のオリジナルではなく、半島にも大陸にもあります。ただ2世紀初めぐらいから急に巨大化する現象を起こしています。

これを神武と関連して考えてもおかしいとは言えないと見たわけです。日本の青銅器は北九州に銅剣・銅矛が多いのは知られています。象徴するものとしては素直に武力を考えます。一方の銅鐸はもっと平和なイメージを抱きます。平和と言うか呪術的、宗教的な象徴ぐらいと見た方が良い気がします。神武の畿内王権は武力一辺倒の覇者によるものではなく、宗教的なエッセンスの統一・統合を行った傍証ではないかと考えたわけです。また宗教的な統一であったが故に古墳築造に情熱を注ぎ込んだんじゃなかろうかです。


苦慮中のハードル

ところがこの隆盛を極めたであろう銅鐸教は古墳時代の幕開けと共に終わります。終わっただけならトレンドの変化ぐらいで良いのですが、奈良大学文学部 酒井龍一教授の平成9年度吹田市歴史講演会と銅鐸の謎に、

  • 現在では銅鐸の用途については、ムラを挙げての農業祭祀に用いられたものという考えがほぼ一般的であるが、それにしてもなぜ集落内で発見されないのかという疑問は残る。祭祀なら通常集落内で行われるのが常識であろうし、拝んでおく置物なら当然集落内のどこかに配置しておくのが自然だろう。これまで出土した銅鐸のほとんどは、集落の外、それもムラの祭祀や守り神的な場所とは関係ない場所から、偶然発見されている。これがその用途についての考察を一層困難にしているようである。
  • 出土地は、ムラや墓地とは離れた丘陵の斜面などが多い。ほとんどの場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される。

銅鐸の発見場所の特異さは私も聞いた事があったのを恥ずかしながら思い出した次第です。まるで祟り神を封じる様な扱いを受けている事が多いと言う事です。吉野ヶ里でも銅鐸は見つかったようなのですが、見つかり方が少々異様で、

平成10年11月、吉野ヶ里遺跡、大曲一の坪地区の発掘調査現場から小さな穴に逆さに埋められた銅鐸が発見された。

これも貴重品の扱いとしては異様な印象を受けます。これをどう考えたら良いのだろうかです。出てくる疑問としては、、

畿内の銅鐸は、2,3世紀の弥生文化の隆盛時にもっとも盛大となり、そして古墳時代の幕開けと同時に、突然その習慣を絶っているのである。 また、我が国の最古の史書である記紀には、銅鐸についての記事は全く登場しない。弥生時代近畿地方であれほど隆盛を極めるのであるから、もし銅鐸を信奉していた人々がそのまま古墳時代を通じても近畿に居続け、やがて大和朝廷へ繋がるのだとすれば、記紀に全く記載がないのは奇異である。古伝承もない。これは一体何を意味しているのであろうか?

このために出てくる説が、銅鐸教を終わらせたのは神武であるとの説も当然出てくるわけです。そう言われると妙に説得力があり、神武は銅鐸教が真っ盛りの畿内に入り、これを強制的に廃止する事で古墳時代の幕を開いた事になります。神武が畿内に来た時期としては、そうですねぇ、3世紀の前半ぐらいでしょうか。畿内に上陸した神武は銅鐸教徒を駆逐しながら畿内王権を確立した覇者ってなイメージになります。ただこの説で疑問におもうのは、そんな事で古墳時代の平和が訪れんだろうかです。それこそ信長と秀吉と家康をミックスさせたクラスの英雄が必要な気がします。そりゃ、出現しても構わないのですが、どうもシックリいかないぐらいです。

どこかにヒントがないか考え中です。