水運仮説と欽明の大和遷都

昨日の続きです。

畿内王権西遷の水運仮説

何回か出していますが畿内の古墳群の盛衰は

こうなっているのが考古学的定説です。古墳群の盛りが動くと言う事はそれに伴って王権の中心も動いている事になります。これが何故に西に動いて行ったかの説明として水運仮説を立てています。広域王権とは文字通り広い範囲から税(物資)を中央(都)に集める事によって中央部が肥大化します。でもって中央の肥大化は広域の支配地からの物資の量に制限・・・されきれないと思っています。物理的にはそうなるですが、集められる物資の上限になっても肥大化しようとする勢いが出そうぐらいに考えています。

この広域からの物資の輸送ルートは水路が主役であったと考えるのが妥当です。陸路はプアな上に輸送手段も貧弱です。可能な限り水路を利用したと考えるのが水運仮説です。また水路のうちで海路はさほど活発に使われていなかったとも考えています。水路の主役は河川であったと見ています。最初期の大和・柳本時代は大和と紀の川流域ぐらいがいわゆる畿内(物資を集められる支配地)であったと考えています。図で示してみます。

次の発展段階として河内が畿内に組み込まれ始め、大和川水運経由の河内の物資が重視され始めたと考えています。

まあ大和・柳本と佐紀盾列ならどっちもどっちの気がしないでもありませんが、佐紀盾列だけでなく奈良湖を挟んで馬見とセットで考えるとより河内からの物資を効率的に運ぼうとしての移動ぐらいに見ます。この大和川水運ですが大和と河内の間に亀の瀬と言う難所があります。ここは水路では無理で陸路を取ったと考えらえていますが、この陸路もかなり険しい道です。ここでなんですがさらなる畿内(つうか近畿)の拡大があったと見ています。畿内の拡大は地形的に考えて西の播磨か北の近江になります。とくに近江からの物資輸送は重視されたのは後の歴史を見ても明らかです。

河内に都があった頃は紀の川水運も海路で加太岬を回って河内湖を目指すようになったと考えています。海路は西の播磨からの分もあったと考えていますが、畿内王権での近江からの物資の比重が大きくなっていったと見ています。この河内王朝時代は100年弱程度は続いたと推測しています。ここで力を付けた近江から継体が登場する事になります。継体は初期の記述と異なり、大和に遷都せず淀川流域の高槻辺りで都を構え崩御したと見ています。大和に遷都したのは上宮聖徳法王帝説を重視して、その次の欽明になります。


継体継承戦

継体の河内進攻の構図は最終的に

    近江+大和 vs 河内
この状況が出現した上での判定勝ちと考えています。判定でも勝ったので継体は大王に成り、河内は大王位を譲り渡したぐらいでしょうか。その継体の継承戦は
    大和 vs 近江
こうなったと考えています。そういう目で読むと書紀も相当キナ臭い記載になっています。継体期の末尾にわざわざ注釈を入れて

又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨

この続きが安閑紀になるのですが

男大迹天皇立大兄爲天皇、即日男大迹天皇

ここの読み下しは「男大迹天皇は大兄を天皇に立てる、即日男大迹天皇崩ず」ぐらいでしょうか。臨終の日に大兄を天皇にしている記述ですが、継体記末尾の記事と合わせると、もともと皇太子がおり、これが継体と共に亡くなったので、土壇場で大兄が天皇になったとも読めます。想像の翼を広げれば継体と太子を暗殺した上で大王位に就いたクーデターがあったと読む事が可能です。このクーデターに勝ったのが欽明と見ています。そしてその欽明は大和系の見方です。余談ですが男大迹は継体の事であり「をほど」と読みます。「をほど = おおよど」じゃないかと密かに感じています。

欽明が大和系であるなによりの証拠は都を大和に遷している点です。これがいかに重大な事であるかは上記した水運仮説になります。大和じゃ王権維持に必要な物資を運び込むのが難しくなっています。だから大和川を下って河内に都を遷している訳です。それをわざわざ大和川を遡って大和に戻ると言うのは相当な理由が必要になります。大和系の欽明は継体戦争で河内系に勝ち継体継承戦には勝ったものの、その結果として河内系だけではなく近江系も敵に回してしまったからではないかと見ています。推測ですが継体戦争の判定勝ちの結果の勢力図は、

  • 近江系・・・近江から淀川水系を支配して摂津ぐらいまで
  • 河内系・・・河内(含む和泉)に勢力限定
  • 大和系・・・大和と紀の川流域ぐらい
高槻(継体の都)から大和に到るルートは河内湖を経由しての大和川水運になりますが、その途中には河内系の勢力圏があります。都の高槻自体が近江系の勢力圏です。そのどちらとも敵対までいかなくとも気まずい関係が成立してしまったのなら、本拠地の大和に都を遷すしか選択肢はなさそうに思います。


欽明の物流改革

政治的な理由で大和に都を遷したものの、このままでは王権は立ち枯れになります。大和から河内に都が遷った理由がそのまま直撃します。そこで木津川ルートを開発したと考えています。図で示します。

大和への輸送ルートでネックは大和川水運の亀の瀬の難所です。そこで複数ルートの確保を考えたとまず思います。最初の目的は

    琵琶湖 → 瀬田川 → 木津川 → 佐紀丘陵 → 佐紀川
近江からの物資輸送の短縮と同じ陸路であっても遥かに容易な佐紀丘陵越の設定です。このルートは近江からだけでなく河内からの輸送ルートとしても活用されていったと考えています。つまりは、
    河内湖 → 淀川 → 木津川 → 佐紀丘陵 → 佐紀川
大和川水運の比重が下がり木津川水運の比重が増えていったぐらいの見方です。素直に河内に都を置いておけば、こんな七面倒臭い事をする必要はなかったはずですが、欽明が大和で長期政権を営んでいる内に固定してしまったぐらいを考えています。


蘇我氏がいつから台頭したかは実のところ不明です。蘇我の名前が書紀で初めて登場するのは私が読む限り宣化紀の

元年春正月、遷都于檜隈廬入野、因爲宮號也。二月壬申朔、以大伴金村大連爲大連、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。又以蘇我稻目宿禰爲大臣、阿倍大麻呂臣爲大夫。

ここの読み方が自信がないのですが安閑紀を参照に出します

廿五年春二月辛丑朔丁未、男大迹天皇立大兄爲天皇、即日男大迹天皇崩。是月、以大伴金村大連爲大連、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。

安閑紀の方が少し読みやすくて継体が崩御する日に大兄が天皇立てられ、その時に大伴金村物部麁鹿火が大連に任じられたと読めます。この2人は継体紀の時から大連であり再任されたぐらいでしょうか。宣化紀でもこの2人は大連に再任されていますが、引き続いて蘇我稲目と阿部大麻呂が出てきます。たぶん読み下しとしては、

宿祢もある種の身分・官職を現すと同時に貴人の敬称にも使われるもののようです。たとえば武内宿祢みたいな感じです。調べても古代に於てどれほどの地位であったかはっきりしないのですが、少なくとも大臣より下のようです。また宣化紀の並べ方からして宮中序列は大連2人の次ぐらいの位置づけにも読めます。これは単なる3番目と言うより4人の重臣の中の3番目ぐらいと解釈する方が正確です。ほいでもって宣化紀に登場する時の稲目は何歳だったかです。稲目の生年は506年説があるのでこれを採用すると27歳ぐらいになります。う〜ん、若い。

稲目が若くたって構わないのですが、当時はゴチゴチの氏族制時代です。当人がいくら優秀でも弱小氏族では重臣になれないはずです。重臣に並ぶと言うのは本人の資質に加えて出身氏族の大きさが重いはずです。つまり稲目一代で大伴氏や物部氏に並ぶ勢力を築き上げるには若すぎると言うところです。蘇我氏系図では稲目の先代が高麗(もしくは馬背)になるのですが、先代ぐらいから勢力を拡大していないと稲目が27歳程度の若さで重臣に並ぶのはあり得ないだろうぐらいは推測できます。

稲目より前の代の蘇我氏はそれこそ系図の中に存在するだけで事歴は完璧に不明です。まあ書紀に記載されるような有力者でもなく、各種の事変に登場するような事もなかったぐらいは最低限言えます。ここでは稲目の先代(とりあえず高麗としておきます)から蘇我氏の急成長が始まったと仮定してみます。高麗の活躍時代はいつかとなると必然的に継体時代になります。継体時代とは近江河内戦争が続いていた時代になります。戦乱期ですから弱小氏族が才能により台頭できる可能性がある時代になります。

ただなんですが高麗は武勲的な功績で勢力を築いた可能性は低そうに感じています。私の推測では近江河内戦争はかなりの長期戦になったと見なしています。長期戦になった時に重要なのは兵站路の確保です。今も昔も変わらないかもしれませんが、有力氏族は戦闘の方に従事したがり、後方からの兵站路に従事する事は喜びません。まあ戦の手柄は戦場にあるのが常識だからです。当時弱小氏族であった蘇我氏は戦場に回されず、近江からの兵站路の確保を命じられたんじゃないかと推測します。

近江河内戦争が短期で終息していれば兵站路担当は日の当たらない裏方仕事ですが、長期戦になれば様相が変わります。蘇我氏が近江から物資を運んでくれないと前線の近江軍は戦もままならない事になります。それと兵站路の確保は物流を支配する事に通じます。物が動けば利権が生じます。そうやって蘇我氏は勢力を急成長させたと私は推測します。おそらく高麗の時代に兵站路確保の功績とそれに伴う氏族としての勢力拡張により宿祢まで階級があがったと見ています。蘇我氏の出身については諸説ありますが、継体による近江河内戦争の兵站路を担当したと考えると、淀川流域に地盤を持つ中小氏族で継体の河内進攻にあたり早期に協力を申し出たぐらいを想像します。つうか蘇我氏が継体に協力したので近江から河内の道が通じたのかもしれません。


継体の継承戦は「大和 vs 近江」になり勝った大和系の欽明が大和に遷都したとするのが私の解釈です。この時に高麗の後継者である稲目は欽明に味方したと考えます。父の高麗同様に機を見るに敏であったぐらいです。まあ、蘇我氏にとっては近江も大和も歴代の恩恵を受けていた訳ではないので「勝ち馬」に乗っただけかもしれません。さて書紀では継体の後に安閑、宣化と二代挟むのですが、私の解釈は実質的に「継体 → 欽明」だったと考えています。そう稲目が大臣になったのも欽明の時代からと見ています。

では稲目がどんな功績を挙げたかですが、欽明の物流革命の実質的な担当者であったと見ます。欽明の大和遷都は当時の物流を無視した政治的なものと考えていますが、遷都すれば物資不足が必然的に起こります。この時に淀川水系の水運に通じていた稲目が木津川水運の活用を提案したと見ています。提案しただけでなく開発の担当者に任じられたと見ています。欽明に取っても政権運営の重大事案ですから、稲目に大きな権限を与える必要があり大臣に任じたと考えると筋が通ります。

想像を広げれば木津川水運の開発は大臣に任じられる代わりに蘇我氏が負担する事業になったとも考えられます。その代わりに木津川水運の支配も蘇我氏に委ねられるのが代償です。この役目を稲目は確実に果たしたと見ています。大和遷都のネックであった物流問題を解消した稲目は欽明に気に入られ重用され、以後は書紀にある系譜のような大王家との閨閥関係を形成していったと考えています。