原本は残存しない。写本は江戸時代末期まで法隆寺秘蔵物で天下の“孤本”といわれた。後に知恩院に移されて現在は国宝である。この写本の巻末に所有者だったと思える高僧(相慶・法隆寺五師の一人、12世紀後半の人物)の名が残されていることから、編者は法隆寺縁の高僧、内容から主な部分は弘仁年間(810年 - 824年)以降、延喜17年(917年以前には成立し、永承5年(1050年)までには現在の形となったとされる。
これまでほとんど世に知られていなかったが、写本の近代史学の発展に伴い、官製の『古事記』や『日本書紀』などの文献批判が行われ、本書の内容が記紀以前の古い史料が基礎になっていると思量され、記紀を補完する信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。
成立したのは先代旧事本紀が出来た頃と同じぐらいのようです。記紀編纂時には、記紀編纂のために多くの資料が集められ、記紀編纂後に失われたとなっています。帝紀や旧辞なんかが代表的です。その時の焚書騒ぎの中でも生き残った歴史資料はあったとは思っています。ただ出版すると言う時代ではなく、写本でもしないと本は増えませんし、本も手入れをしっかりしないと虫食いにやられてしまいます。そういう意味で上宮聖徳法王帝説も何か参考になる記述が掘り出せる期待があります。(つうか読んでなかった・・・)
wikipediaより、
欽明天皇の治世年数(辛卯年より卅一年(31年)前)から逆算した即位年が『日本書紀』(宣化天皇4年に即位)と相違し、学者の論争の的となっている。
これは興味を惹きます。まず原文から在位年数と没年の表を作ってみます。
天皇名 | 在位年数 | 上宮聖徳法王帝説 没年 |
||
日本書紀 | 上宮聖徳法王帝説 | 日本書紀 | 上宮聖徳法王帝説 | |
欽明天皇 | 志歸嶋天皇 | 32年 | 41年 | 辛卯4月 |
敏達天皇 | 他田天皇 | 14年 | 13年 | 乙巳8月 |
用明天皇 | 池邊天皇 | 2年 | 3年 | 丁未4月 |
崇峻天皇 | 倉橋天皇 | 5年 | 4年 | 壬子11月 |
推古天皇 | 小治田天皇 | 36年 | 36年 | 戊子3月 |
計 | 89年 | 97年 | * |
逆算による欽明天皇の即位年は531年で『日本書紀』では継体天皇25年にあたる。安閑・宣化両天皇のあとの宣化天皇4年(539年)に即位したとする『日本書紀』とは整合しない。南北朝のように安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱状態にあったという説や、単に暦法上の問題とする説などがある。
干支による年表示はいっぱい出てくるので、この際気合を入れて表を作って確認してみます。上宮聖徳法王帝説の没年と在位年数で実際に逆算したらどうなるかです。
天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | 天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | 天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | 天皇 | 在位 | 天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | 天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | |||||
小治田 | 25 | 617 | 丁 | 丑 | 小治田 | 13 | 605 | 乙 | 丑 | 小治田 | 1 | 593 | 癸 | 丑 | * | 他田 | 9 | 581 | 辛 | 丑 | 志歸嶋 | 39 | 569 | 己 | 丑 | |
26 | 618 | 戊 | 寅 | 14 | 606 | 丙 | 寅 | 2 | 594 | 甲 | 寅 | 10 | 582 | 壬 | 寅 | 40 | 570 | 庚 | 寅 | |||||||
27 | 619 | 己 | 卯 | 15 | 607 | 丁 | 卯 | 3 | 595 | 乙 | 卯 | 11 | 583 | 癸 | 卯 | 41 | 571 | 辛 | 卯 | |||||||
28 | 620 | 庚 | 辰 | 16 | 608 | 戊 | 辰 | 4 | 596 | 丙 | 辰 | 12 | 584 | 甲 | 辰 | 空白 | * | 572 | 壬 | 辰 | ||||||
29 | 621 | 辛 | 巳 | 17 | 609 | 己 | 巳 | 5 | 597 | 丁 | 巳 | 池邊 | 1 | 13 | 585 | 乙 | 巳 | 他田 | 1 | 573 | 癸 | 巳 | ||||
30 | 622 | 壬 | 午 | 18 | 610 | 庚 | 午 | 6 | 598 | 戊 | 午 | 2 | * | 586 | 丙 | 午 | 2 | 574 | 甲 | 午 | ||||||
31 | 623 | 癸 | 未 | 19 | 611 | 辛 | 未 | 7 | 599 | 己 | 未 | 3 | 587 | 丁 | 未 | 3 | 575 | 乙 | 未 | |||||||
32 | 624 | 甲 | 申 | 20 | 612 | 壬 | 申 | 8 | 598 | 庚 | 申 | 空白 | * | 588 | 戊 | 申 | 4 | 576 | 丙 | 申 | ||||||
33 | 625 | 乙 | 酉 | 21 | 613 | 癸 | 酉 | 9 | 601 | 辛 | 酉 | 倉橋 | 1 | 589 | 己 | 酉 | 5 | 577 | 丁 | 酉 | ||||||
34 | 626 | 丙 | 戌 | 22 | 614 | 甲 | 戌 | 10 | 602 | 壬 | 戌 | 2 | 590 | 庚 | 戌 | 6 | 578 | 戊 | 戌 | |||||||
35 | 627 | 丁 | 亥 | 23 | 615 | 乙 | 亥 | 11 | 603 | 癸 | 亥 | 3 | 591 | 辛 | 亥 | 7 | 579 | 己 | 亥 | |||||||
36 | 628 | 戊 | 子 | 24 | 616 | 丙 | 子 | 12 | 604 | 甲 | 子 | 4 | 592 | 壬 | 子 | 8 | 580 | 庚 | 子 |
天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | 天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | 天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | 天皇 | 在位 | 西暦 | 干支 | ||||
志歸嶋 | 27 | 557 | 丁 | 丑 | 志歸嶋 | 15 | 545 | 乙 | 丑 | 志歸嶋 | 3 | 533 | 癸 | 丑 | * | 521 | 辛 | 丑 | |
28 | 558 | 戊 | 寅 | 16 | 546 | 丙 | 寅 | 4 | 534 | 甲 | 寅 | 522 | 壬 | 寅 | |||||
29 | 559 | 己 | 卯 | 17 | 547 | 丁 | 卯 | 5 | 535 | 乙 | 卯 | 523 | 癸 | 卯 | |||||
30 | 560 | 庚 | 辰 | 18 | 548 | 戊 | 辰 | 6 | 536 | 丙 | 辰 | 524 | 甲 | 辰 | |||||
31 | 561 | 辛 | 巳 | 19 | 549 | 己 | 巳 | 7 | 537 | 丁 | 巳 | 525 | 乙 | 巳 | |||||
32 | 562 | 壬 | 午 | 20 | 550 | 庚 | 午 | 8 | 538 | 戊 | 午 | 526 | 丙 | 午 | |||||
33 | 563 | 癸 | 未 | 21 | 551 | 辛 | 未 | 9 | 539 | 己 | 未 | 527 | 丁 | 未 | |||||
34 | 564 | 甲 | 申 | 22 | 552 | 壬 | 申 | 10 | 540 | 庚 | 申 | 528 | 戊 | 申 | |||||
35 | 565 | 乙 | 酉 | 23 | 553 | 癸 | 酉 | 11 | 541 | 辛 | 酉 | 529 | 己 | 酉 | |||||
36 | 566 | 丙 | 戌 | 24 | 554 | 甲 | 戌 | 12 | 542 | 壬 | 戌 | 530 | 庚 | 戌 | |||||
37 | 567 | 丁 | 亥 | 25 | 555 | 乙 | 亥 | 13 | 543 | 癸 | 亥 | 志歸嶋 | 1 | 531 | 辛 | 亥 | |||
38 | 568 | 戊 | 子 | 26 | 556 | 丙 | 子 | 14 | 544 | 甲 | 子 | 2 | 532 | 壬 | 子 |
でもって、他田天皇の倉橋天皇の間と他田天皇と志歸嶋天皇の間は1年空きます。逆に他田天皇と池邊天皇は1年クロスします。書紀では整然と大王位の継承が行われていますが、上宮聖徳法王帝説のように継承でもめたのか、1年ぐらい空位があった方が自然と言えば自然です。現在の様に皇室典範みたいなものでガッチリ固まっていた訳でもないでしょうし。まあ、そこに何があったんじゃないかの推理が広がるから嬉しいだけかもしれませんが・・・上宮聖徳法王帝説も興味深い資料であるのがわかります。
継体天皇もいつ即位して、いつ崩御したかがはっきりしないのですがwikipediaには
『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる
まあ記紀でも分かれていますが書紀の方が興味深くて継体紀にこんな記述があります。
或本云「天皇、廿八年歳次甲寅崩。」而此云廿五年歳次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歳辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歳、當廿五年矣。後勘校者、知之也。
百済本紀(これも残っていない)からの引用となっています。ここでは2つの継体崩御年が挙げられています。
- 甲寅・・・534年
- 辛亥・・・531年
どうもなんですが継体は大和に遷都していなかったんじゃないかと考えだしています。継体陵は
-
公定・・・三嶋藍野陵(茨木)
比定・・・今城塚古墳(高槻)
廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都磐余玉穗。(一本云、七年也)
ここは継体20年と取る説が多いようですが、少なくとも崩御の5年前には大和に遷都しているわけです。大和に遷都したのに何故に茨木なり高槻にドデカイ墳墓を作ったのかを考えると不自然です。継体は近江の出身であり、大和に縁の薄い人ですから、作るのなら大和に作る方が余程自然です。墳墓は権威の象徴の意味合いもありますから、近江人の継体の権威を見せるために大和に作るのが政治かと思います。
それと現実的な問題として死亡場所と墓所は近い方が良いはずです。不慮の死なら仕方ありませんが、ある程度予期された死であるならば宮殿からそんなに離れていない場所に墓所を作るかと思います。大和で継体が崩御したら、わざわざ大和から摂津まで遺体を運ぶ必要があります。もちろん葬儀に伴うテンコモリの儀式もあるわけです。ごくごく素直に考えて継体は高槻あたりに都を置き、そこで崩御したと考えます。
ここで上宮聖徳法王帝説を信用すれば継体の後は即欽明です。欽明の代に大和に都を遷したと考えるべきじゃないかと思っています。