上宮聖徳法王帝説より

どんなものか

wikipediaから

原本は残存しない。写本は江戸時代末期まで法隆寺秘蔵物で天下の“孤本”といわれた。後に知恩院に移されて現在は国宝である。この写本の巻末に所有者だったと思える高僧(相慶・法隆寺五師の一人、12世紀後半の人物)の名が残されていることから、編者は法隆寺縁の高僧、内容から主な部分は弘仁年間(810年 - 824年)以降、延喜17年(917年以前には成立し、永承5年(1050年)までには現在の形となったとされる。

これまでほとんど世に知られていなかったが、写本の近代史学の発展に伴い、官製の『古事記』や『日本書紀』などの文献批判が行われ、本書の内容が記紀以前の古い史料が基礎になっていると思量され、記紀を補完する信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。

成立したのは先代旧事本紀が出来た頃と同じぐらいのようです。記紀編纂時には、記紀編纂のために多くの資料が集められ、記紀編纂後に失われたとなっています。帝紀旧辞なんかが代表的です。その時の焚書騒ぎの中でも生き残った歴史資料はあったとは思っています。ただ出版すると言う時代ではなく、写本でもしないと本は増えませんし、本も手入れをしっかりしないと虫食いにやられてしまいます。そういう意味で上宮聖徳法王帝説も何か参考になる記述が掘り出せる期待があります。(つうか読んでなかった・・・)


個人的な注目点

wikipediaより、

欽明天皇の治世年数(辛卯年より卅一年(31年)前)から逆算した即位年が『日本書紀』(宣化天皇4年に即位)と相違し、学者の論争の的となっている。

これは興味を惹きます。まず原文から在位年数と没年の表を作ってみます。

天皇 在位年数 上宮聖徳法王帝説
没年
日本書紀 上宮聖徳法王帝説 日本書紀 上宮聖徳法王帝説
欽明天皇 志歸嶋天皇 32年 41年 辛卯4月
敏達天皇 他田天皇 14年 13年 乙巳8月
用明天皇 池邊天皇 2年 3年 丁未4月
崇峻天皇 倉橋天皇 5年 4年 壬子11月
推古天皇 小治田天皇 36年 36年 戊子3月
89年 97年
言うほどの差ではないと思うのですがwikipediaには、

逆算による欽明天皇の即位年は531年で『日本書紀』では継体天皇25年にあたる。安閑・宣化両天皇のあとの宣化天皇4年(539年)に即位したとする『日本書紀』とは整合しない。南北朝のように安閑・宣化朝と欽明朝が並立し内乱状態にあったという説や、単に暦法上の問題とする説などがある。

干支による年表示はいっぱい出てくるので、この際気合を入れて表を作って確認してみます。上宮聖徳法王帝説の没年と在位年数で実際に逆算したらどうなるかです。

天皇 在位 西暦 干支 天皇 在位 西暦 干支 天皇 在位 西暦 干支 天皇 在位 天皇 在位 西暦 干支 天皇 在位 西暦 干支
小治田 25 617 小治田 13 605 小治田 1 593 * 他田 9 581 志歸嶋 39 569
26 618 14 606 2 594 10 582 40 570
27 619 15 607 3 595 11 583 41 571
28 620 16 608 4 596 12 584 空白 * 572
29 621 17 609 5 597 池邊 1 13 585 他田 1 573
30 622 18 610 6 598 2 * 586 2 574
31 623 19 611 7 599 3 587 3 575
32 624 20 612 8 598 空白 * 588 4 576
33 625 21 613 9 601 倉橋 1 589 5 577
34 626 22 614 10 602 2 590 6 578
35 627 23 615 11 603 3 591 7 579
36 628 24 616 12 604 4 592 8 580
天皇 在位 西暦 干支 天皇 在位 西暦 干支 天皇 在位 西暦 干支 天皇 在位 西暦 干支
志歸嶋 27 557 志歸嶋 15 545 志歸嶋 3 533 * 521
28 558 16 546 4 534 522
29 559 17 547 5 535 523
30 560 18 548 6 536 524
31 561 19 549 7 537 525
32 562 20 550 8 538 526
33 563 21 551 9 539 527
34 564 22 552 10 540 528
35 565 23 553 11 541 529
36 566 24 554 12 542 530
37 567 25 555 13 543 志歸嶋 1 531
38 568 26 556 14 544 2 532
西暦換算はあくまでも目安です。旧暦と新暦の誤差がある訳でこれを修正しないといけないのですが、どうやったら良いかが結局わからず推古15年に第2回の遣隋使(隋書倭国伝に607年の記録がある)が行われた点を重視して数えています。

でもって、他田天皇の倉橋天皇の間と他田天皇と志歸嶋天皇の間は1年空きます。逆に他田天皇と池邊天皇は1年クロスします。書紀では整然と大王位の継承が行われていますが、上宮聖徳法王帝説のように継承でもめたのか、1年ぐらい空位があった方が自然と言えば自然です。現在の様に皇室典範みたいなものでガッチリ固まっていた訳でもないでしょうし。まあ、そこに何があったんじゃないかの推理が広がるから嬉しいだけかもしれませんが・・・上宮聖徳法王帝説も興味深い資料であるのがわかります。 


肝心の継体天皇との絡み

継体天皇もいつ即位して、いつ崩御したかがはっきりしないのですがwikipediaには

古事記』には丁未4月9日(527年5月26日?)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月10日?)または甲寅(534年?)とされる

まあ記紀でも分かれていますが書紀の方が興味深くて継体紀にこんな記述があります。

或本云「天皇、廿八年歳次甲寅崩。」而此云廿五年歳次辛亥崩者、取百濟本記、爲文。其文云「太歳辛亥三月、軍進至于安羅、營乞乇城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」由此而言、辛亥之歳、當廿五年矣。後勘校者、知之也。

百済本紀(これも残っていない)からの引用となっています。ここでは2つの継体崩御年が挙げられています。

  • 甲寅・・・534年
  • 辛亥・・・531年
書紀では継体の後に安閑2年、宣化4年を挟んで欽明が539年即位で540年から欽明元年になるとなっています。534年説なら1年ほど足りませんがなんとか近いものになります。ただ書紀の継体は継体25年に崩御で或本云の継体28年とは3年の差が出ます。どんなものかと言うところです。もう一つの531年説はもっと興味深くて上宮聖徳法王帝説の志歸嶋1年にピッタリ符合します。


どうもなんですが継体は大和に遷都していなかったんじゃないかと考えだしています。継体陵は

    公定・・・三嶋藍野陵(茨木)
    比定・・・今城塚古墳(高槻)
どちらにしても淀川流域です。一方で継体紀には、

廿年秋九月丁酉朔己酉、遷都磐余玉穗。(一本云、七年也)

ここは継体20年と取る説が多いようですが、少なくとも崩御の5年前には大和に遷都しているわけです。大和に遷都したのに何故に茨木なり高槻にドデカイ墳墓を作ったのかを考えると不自然です。継体は近江の出身であり、大和に縁の薄い人ですから、作るのなら大和に作る方が余程自然です。墳墓は権威の象徴の意味合いもありますから、近江人の継体の権威を見せるために大和に作るのが政治かと思います。

それと現実的な問題として死亡場所と墓所は近い方が良いはずです。不慮の死なら仕方ありませんが、ある程度予期された死であるならば宮殿からそんなに離れていない場所に墓所を作るかと思います。大和で継体が崩御したら、わざわざ大和から摂津まで遺体を運ぶ必要があります。もちろん葬儀に伴うテンコモリの儀式もあるわけです。ごくごく素直に考えて継体は高槻あたりに都を置き、そこで崩御したと考えます。

ここで上宮聖徳法王帝説を信用すれば継体の後は即欽明です。欽明の代に大和に都を遷したと考えるべきじゃないかと思っています。