百済記、百済新撰、百済本記を指しますが現存していません。さらに逸文が残っているのも日本書紀の中のみでwikipediaより、
『日本書紀』で三書が明示的に引用されている個所は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。
百済は660年に新羅と唐の連合軍にによって滅んでいます。百済三書の成立時期も不明ですが、日本に伝わった可能性として百済滅亡時に多くの難民が日本に来たのはほぼ確実なので、その時に伝わったぐらいはありえるところです。つうかなんですが、官修の歴史書だと考えられるので、そんなにたくさんあったとは思いにくいので、ヒョットしたら日本に伝えられた物のみしか残らなかった可能性もあるかもしれません。
現存している物で百済本紀というものがあります。これは高麗時代の1145年完成の三国史記の中の百済本紀(つまりは紀伝体)です。これが半島最古の現存歴史書なんですが依拠史料としてwikipediaより、
朝鮮側の資料として『古記』・『海東古記』・『三韓古記』・『本国古記』・『新羅古記』・金大問『高僧伝』・『花郎世記』などを第一次史料として引用したことが見られるが、いずれも現存していないため、その記述の内容には史料批判が必要である。
とりあえず百済三書は含まれていない様です。もちろん失われた依拠史料に逸文として残されていた可能性はありますが、三国史記の依拠資料も残されていないため記紀同様に鵜呑みに出来ない点に注意が必要です。
武寧王はその墓が未盗掘で発見されている上に墓誌まで発見され、
寧東大将軍百済斯麻王 年六十二歳 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到 乙巳年八月癸酉朔十二日 甲申 安登冠大墓 立志如左
崩御の癸卯年とは523年になりますから461年生れになります。この武寧王のことが雄略紀の雄略5年にあります。
六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、即以一船送嶋君於國、是爲武寧王
加須利君とは蓋鹵王の注釈が書紀にはあります。それと別伝として、
百濟新撰云「辛丑年、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好也。」
辛丑年とは451年になります。ここで武寧王、蓋鹵王、昆支君と登場しますがその関係はwikipediaより、
親子関係に諸説あるのですが、昆支君は蓋鹵王の子であり、東城王は昆支君の子、武寧王は東城王の子と考えて良さそうです。この頃の百済は高句麗の圧迫を受けて南遷を余儀なくされた時代の様でwikipediaより、
高句麗の出陣を聞いて、蓋鹵王は王子の文周(後の文周王)を諭して南方へ逃れさせた(あるいは新羅に救援を求めに行かせたとも言われる)。高句麗軍は漢城を攻め、蓋鹵王は城を逃れたが捕らえられ、阿且城(ソウル特別市城東区康壮洞)で処刑された。在位21年。この後、子の文周王は逃亡先で即位し、熊津(忠清南道公州市)に遷都することとなったが、475年をもっていったんは百済は滅んだものと考えられている。
ここは百済本紀にある武寧王の年代が確定されたぐらいで良いかと思います。ここをもう少し広げて前後の百済王の記録も信用できるとすると雄略5年は461年に特定できます。さらに書紀には
廿三年夏四月、百濟文斤王、薨
文斤王は479年没となっています。つまり雄略23年は479年に特定できる可能性があります。もう一つですが
百濟記云「蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來、攻大城七日七夜、王城降陷、遂失尉禮、國王及大后、王子等、皆沒敵手。」
これは蓋鹵王が首都である漢城を高句麗に攻め滅ぼされたことを指すで良いと思います。これは475年となっていますが、475年になっているのは百済本紀がそうなっているからと考えられます。でもって百済記にある乙卯年は475年に当たります。百済記逸文があるのが雄略20年になります。百済本紀は記紀成立時に存在していない訳ですから、475年も特定年代にできそうです。これを年表に落として見ると、
西暦 | 干支 | 雄略年 | 百済三書逸文 | 西暦 | 干支 | 雄略年 | 百済三書逸文 | 西暦 | 干支 | 雄略年 | 百済三書逸文 | |||
473 | 癸 | 丑 | 17 | * | 461 | 辛 | 丑 | 5 | 武寧王誕生 | 449 | 己 | 丑 | * | * |
474 | 甲 | 寅 | 18 | * | 462 | 壬 | 寅 | 6 | * | 450 | 庚 | 寅 | * | * |
475 | 乙 | 卯 | 19 | 蓋鹵王没 | 463 | 癸 | 卯 | 7 | * | 451 | 辛 | 卯 | * | * |
476 | 丙 | 辰 | 20 | * | 464 | 甲 | 辰 | 8 | * | 452 | 壬 | 辰 | * | * |
477 | 丁 | 巳 | 21 | * | 465 | 乙 | 巳 | 9 | * | 453 | 癸 | 巳 | * | * |
478 | 戊 | 午 | 22 | * | 466 | 丙 | 午 | 10 | * | 454 | 甲 | 午 | * | * |
479 | 己 | 未 | 23 | 三斤王没 | 467 | 丁 | 未 | 11 | * | 455 | 乙 | 未 | * | * |
480 | 庚 | 申 | * | * | 468 | 戊 | 申 | 12 | * | 456 | 丙 | 申 | * | * |
481 | 辛 | 酉 | * | * | 469 | 己 | 酉 | 13 | * | 457 | 丁 | 酉 | 1 | * |
482 | 壬 | 戌 | * | * | 470 | 庚 | 戌 | 14 | * | 458 | 戊 | 戌 | 2 | * |
483 | 癸 | 亥 | * | * | 471 | 辛 | 亥 | 15 | * | 459 | 己 | 亥 | 3 | * |
484 | 甲 | 子 | * | * | 472 | 壬 | 子 | 16 | * | 460 | 庚 | 子 | 4 | * |
大陸では王朝交代が起こると前王朝の記録を歴史書として編纂するのが慣例となっていますが、百済本紀はそれに近い状況で書かれています。一方の記紀は王朝交代が起こっていない建前で書かれています。記紀では神武起源を遡らせる作業を行ったために年代特定が混沌としていますが、百済本紀は前王朝(つうか前々王朝)の記録ですから、描写はともかく年代は比較的正しい可能性があります。百済三書の成立時期は不明ですが、書いたのは
この2つの可能性があります。百済と高句麗を滅ぼして半島を統一したのは新羅ですから、大陸の慣行に従って歴史書を編纂しても不思議はないってところです。高麗が三国史記を編纂する時も新羅が編纂した歴史書を依拠資料として用いたのはまず確実です。一方で記紀編纂時に日本にあったのは確実そうですが、半島には痕跡もないのは引っかかるところです。その点から日本に亡命した百済人が書いた可能性もあるかもしれないぐらいに思っています。問題は年代の信頼性です。百済の年代は百済本紀の記録に基づいている部分が多いと考えています。その百済本紀の武寧王の年代は発掘された墓誌で裏書きされています。そう少なくとも武寧王の年代は正しいと言う事になります。もう一つ注目したいのは百済記の蓋鹵王の没年です。雄略紀の百済三書逸文で年代がはっきり書かれているのは「たぶん」蓋鹵王の没年だけです。これも百済本紀と一致している様ですから、高麗の前時代から引き継がれた百済史の年代は比較的正確に反映されている可能性が出て来ます。
チイと力業の部分が多いのですが、百済三書の年代は百済本紀にほぼ一致している仮定を立てたいと思います。その仮定なら雄略紀の時代は上記した通りになります。次はこの仮定の上で応神紀を解釈するって手順になるわけです。もっとも百済三書の信用性についてはwikipediaより、
逸文に見る引用には、「天皇」や「日本」など、後世の7世紀からようやく用いられるようになった言葉が現れていたり、日本のことを「貴国」と表現しているなど、およそ三書からの引用とは思えない箇所があることが津田左右吉によって指摘されており、『日本書紀』編者による潤色・改竄が行われていることは確実とされる。
しかし、継体天皇の崩年(崩御の年、527年?)については逆に、『百済本記』の記録を採用しているがために『日本書紀』の体裁がおかしくなっており、三書全部が『日本書紀』編者によって都合よく作り出されたものでもない。井上はこういったことを考慮して、三書は「その編成目的に日本関係を主眼とするなどの偏向があったとしても、それぞれ編纂者を異にした百済の史書とすべきであろう」としている。
百済三書の引用部分の表現に問題があるのは書かれている通りかもしれませんが、継体の崩御年は書紀と別にわざわざ書かれているのは前回解説した通りです。実は雄略もそうで古事記では
己巳年八月九日崩也
己巳年とは489年になり、文斤王(三斤王)の没年とちょうど10年ずれます。もっとも文斤王の記録は百済三書の逸文ではなく書紀の本文ですが、書紀が百済三書から文斤王の没年のエピソードを書き加えた可能性が高いからです。どっちが正しいかはわかりませんが、言ったら悪いですが記紀編纂時でも雄略の時代は遠い昔なので記録や記憶の混乱があったぐらいに見ています。つまり伝承として2通りあり、
この辺は継体も似たような部分があり、両論併記的にせざるを得なかったぐらいに考えています。