浦島夜想曲:浦島伝説

 香坂さんから連絡がありクレイエール・ビル三十階に。集まったのはエレギオンの五女神ってやつ。

    「シオリちゃん、浦島太郎って知ってる」
    「助けた亀に乗せられて竜宮城に行く話よね」
    「そうやねんけど・・・」

 コトリちゃんが言うには浦島太郎の話はかなり変遷があると言うのよ。

    「今の奴は助けられた亀が浦島太郎を竜宮城に連れて行くやんか」
    「そうよ」
    「でも元々はそうやなかってん」

 コトリちゃんの話は浦島伝説のオリジナルのムックに。とりあえず文字として残されているのは日本書紀が一番古いみたい、

    「浦島伝説が載ってるのは雄略天皇のところなんだけど・・・」

 原文を見せてくれたんだけど

    『廿二年春正月己酉朔、以白髮皇子爲皇太子。秋七月、丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬莱山、歴覩仙衆』
    「なんて書いてあるの」
    「コトリも完全には読み下し出来へんけど、
    『二十二年春正月は己酉が朔日であった。白髪皇子を皇太子とした、秋七月、丹波の国餘社郡管川の人に瑞江浦嶋子というものがいた。舟に乗って釣りに出ると大亀を得た。これが女となり、ここにおいて、浦島子は婦と為すと感じ、相次いで海に入り蓬莱山に着き仙衆を観る』
    これぐらいかな」
    「似てるけどだいぶ違うし、玉手箱の話がないじゃないの」
    「そうやねん。日本書紀は続けてこうも書いてあるねんよ、
    『語在別卷』
    つまり浦島伝説には別の本に詳しく書いてあるとなってるねん」

 カズ君も日本書紀はあれこれ研究してたから少しは知ってるけど、日本書紀が編集される時にそれまでの歴史書や記録がたくさん参考にされたみたいで、浦島伝説もまたそうだったで良さそう。

    「日本書紀っていつ書かれたの」
    「完成は続日本紀に書かれている養老四年(七二〇年)でエエと思うけど、スタートしたのは不明で諸説あるけど、書紀の天武天皇十年(六八一年)三月のところに、
    『令記定帝紀及上古諸事』
    こうなってるから、この辺からスタートでエエと思う」
    「じゃあ、浦島伝説の別巻の成立はそれ以前ってこと?」
    「それはそうとも言い切れん。日本書紀の編纂が本格化したのはもっと遅いの説もあるし、参考資料だって六八一年に全部そろっていたわけやあらへんやん」

 そうよね、四十年もかかってるし、政治的な歴史書だってカズ君も言ってたから、途中で編集方針が変わったりとかあるものね。六八一年は資料集めが始まった年ぐらいで、本文が書かれ始めたのはもっと遅いはずだわ。

    「その浦島伝説本は残ってないよね」
    「残ってへんけど、作者はわかってる」
    「誰なの?」
    「伊預部馬養」

 伊預部馬養連は実在の人物で、持統三年(六八九年)に撰善言司になって、大宝律令の選定の功績を認められて大宝元年(七〇一年)に禄を与えられ記録が残ってるそうなの。学者であり詩人って感じかな。

    「その伊預部馬養が浦島本を書いてた証拠は?」
    「丹後国風土記逸文」

 丹後国風土記も残って無いそうだけど、他の書物で引用されているものがあるのよ。そういうのを逸文って言うんだけど、

    「とりあえず冒頭から行くな、
    『丹後國風土記曰。
    与謝郡。
    日置里。
    此里有筒川村。此人夫、日下部首等先祖、名云筒川嶼子』
    とりあえず『餘社 = 与謝』で『管川 = 筒川』でエエと思うねん」

 筒川嶼子が浦島太郎なの? 瑞江浦嶋子はどうなったの?

    「逸文の次のところが注目やねんけど、
    『斯所謂水江浦嶼子者也。是舊宰伊預部馬養連所記無相乖』
    アラアラの意味やけど、まず筒川嶼子は水江浦島子と同じで、その理由は旧宰であった伊預部馬養が書いたものと同じぐらいの意味や」
    「旧宰ってなによ」

 律令制では中央から国司が任じられるんだけど、それ以前は国造とかの地元の有力者が支配していたらしい。これが大化の改新以後に置き換わっていくのだけど、国造に代わって中央から派遣され臨時に政治を取り仕切ったのが国宰らしい。初めて聞いたわ。

    「ここだけでも色々わかるやんか」
    「えっ、どういうこと?」
    「日本書紀では浦島の出身地を丹波にしてるやん。これは丹後が出来たんが七一三年やからやねん。雄略天皇の頃には丹波も丹後も一緒やってんよ」
    「なるほど」
    「丹後国風土記は国が出来てから編集がスタートしてるはずやから、浦島本は七一三年時点で成立しとったことになる」

 当然そうよね、

    「なおかつ伊預部馬養は旧宰やったとなってる。馬養の生没年は不詳やけど、大宝三年(七〇三年)に律令選定の功労により、馬養の子が功田六町と封戸百戸を与えられたの記録が残ってる。これは七〇三年には馬養は死んどったと見てエエんちゃうかな」

 少なくとも隠居状態だったぐらいだろうね。

    「ほいでな馬養は六八九年に撰善言司に選ばれてるんやけど、この仕事って皇族や貴族の修養に役立つ、教訓的な説話集を作るのが目的やってんよ。持統の孫の文武の教育ためやったとも言われてる」
    「出来たの」
    「草稿はあったらしいけど出来へんかった。人手的に無理があったぐらいかな。その頃に大宝律令作っとってんけど、この律令の作成は六八一年から始まって六八九年にまず飛鳥浄御原令が出てるんやけど、これは令だけで律がないんよね」
    「あれ? 馬養が撰善言司になったのも六八九年で、馬養は大宝律令作成の実務部隊のはず」
    「当時の中央政府いうても小さいし、使える人材が限られてるから、持統の説話集まで手が回らんようになったんやろ」

 それはなんとなくわかる。

    「コトリは馬養が撰善言司になった時に丹波国宰時代に聞いた浦島話を本にしたと見てるんよ。持統の説話集全体は完成せえへんかったけど、出来た部分は皇族や貴族の教養書として使われてたと考えてる」
    「だから書紀に『語在別卷』ってあったのね」

 とにかく古い話なんだけど、万葉集にも浦島伝説は収載されてるらしいのね。高橋虫麻呂の歌だけど、馬養の浦島本をベースに作られてあると見れるそうなの。虫麻呂も生没年不詳だけど、七一九年に常陸守であった宇合の部下になった記録があるらしいから、虫麻呂の時代には馬養の浦島本はポピュラーな存在になっていたと見て良さそう。

    「たぶんだけど馬養の浦島本は当時の貴族の教養の常識やったでエエと思うねん。それも上級貴族だけやなく下級貴族までな。当時のベスト・セラーと見ても良さそうねん」

 だから様々に変形しながら現在まで語り継がれてるってことかも。

    「でもやけど、オリジナルの馬養のものは残って無いのよね。まあ、平家物語でもそうやからしょうがあらへんけど」
 その馬養のオリジナルに一番近いのが丹後国風土記逸文ってことか。それにしてもコトリちゃんはさすがは歴女。知識もそうなんだけど、歴史にそれほど興味がない人でもおもしろく聞かせてくれる。まるでカズ君みたい。カズ君の歴史話はおもしろかったもの。

 でもカズ君もわたし相手じゃつまらなかったろうな。やっぱりさ、近いレベルの歴史知識があった方がおもしろいだろうし、知識は不十分でも興味がある相手に話す方が楽しいに決まってるじゃない。ちょっと悔しいな。