日曜閑話:浦島伝説

 小説のネタ漁りをしていた時に見つけた話でしたが、興味深かったので歴史ムックとして上げてみます。

 浦島太郎と言えば、亀を助けて竜宮城に招待され、乙姫様と結婚し、それでも故郷に帰りたいと頑張り、帰って見たら故郷は歳月が遥かに流れ過ぎ、開けてはならない玉手箱を開けて老人になってしまったお話として覚えています。誰でも知っている有名な話ですが、時代とともにかなりの変遷があります。

 浦島話が記され残っている最古の記録はなんと日本書紀です。雄略天皇のところにあるのですが、

廿二年春正月己酉朔、以白髮皇子爲皇太子。秋七月、丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬莱山、歴覩仙衆、語在別卷

 無理やり読み下すと、

二十二年春正月は己酉が朔日であった。白髪皇子を皇太子とした、秋七月、丹波の国餘社郡管川の人に瑞江浦嶋子というものがいた。舟に乗って釣りに出ると大亀を得た。これが女となり、ここにおいて、浦島子は婦と為すと感じ、相次いで海に入り蓬莱山に着き仙衆を観る。別巻にて語るところ在り

 相変わらず読み下しが怪しい部分があるのに目を瞑ってもらいたいのですが、浦島太郎の名前は瑞江浦嶋子であり、亀は釣りをしていて得たものであり、女は亀が変身したもので、竜宮城でなく蓬莱山に行ったとなっています。現在の浦島話を想起はさせますが、かなり内容が異なるのがわかります。一番注目したいのは、

    語在別卷
 浦島のエピソードは他に本があり、そこから引用しているとしている点です。日本書紀は養老4年(720年)完成ですから720年時点で浦島本のオリジナルがあったことになります。では日本書紀の編集が始まったのがいつかになりますが、これは諸説ありますが、日本書紀の天武天皇10年(681年)3月のところに、

令記定帝紀及上古諸事

 大元のスタートはこことする説が有力です。では、681年時点でオリジナルの浦島本が既に成立していたかは微妙そうです。


伊預部馬養

 これも浦島本をムックしていて驚いたのですが、浦島本の原作者がほぼ特定されているのです。それは伊預部馬養です。その根拠が丹後国風土記逸文です。丹後国風土記逸文には、浦島が故郷に帰り着くまでのストーリーが記されており、おそらく残されている浦島話の最古のものだと見て良いはずですが、そこの冒頭部分ですが、

丹後國風土記曰。
与謝郡。
日置里。
此里有筒川村。此人夫、日下部首等先祖、名云筒川嶼子
斯所謂水江浦嶼子者也。是舊宰伊預部馬養連所記無相乖

 筒川嶼子が水江浦嶋子と同一人物としたうえで、

    是舊宰伊預部馬養連所記無相乖
 ここも強引に読み下すと、

是は旧宰である伊預部馬養連が記したものと相乖れたるところ無し

 まず言葉の解釈ですが、旧宰とは元国宰になります。ほんじゃ、国宰とはなにかですが、律令制が整備される以前は、律令制で国司にあたるものは国造とかの地方豪族でした。それでも中央から国司相当の地方官が臨時に派遣されることがあり、それが国宰になります。

 それと馬養が国宰をしていたのは丹後でなく丹波です。というのも、丹後が丹波から別れたのが和銅6年(713年)になるからです。丹波の規模も古代は大きくて、但馬・丹後も含むものでしたが、七世紀に但馬が分かれ、713年に丹後が別れています。 馬養が丹波国宰をした頃は丹波・丹後を合わせた丹波であったはずです。

 ここで注目したいのは、丹後国風土記の成立は713年以降になる点です。あくまでも読みようですが、風土記編纂にあたって浦島伝説を取り上げたのは間違いありませんが、馬養の本の全面引用とは思えないところがあります。改めて調べてみたら、馬養の水江浦嶋子と筒川嶼子が同一人物と見なされると読めるからです。


馬養の浦島本

 馬養は持統天皇3年(689年)に撰善言司に選ばれています。聞き慣れない役職ですが、ここはシンプルにwikipediaより、

上古日本の先人の善言・教訓を集積した書を撰上するために設けられた官司

 文武天皇の教育のためであったともされているようですが、要は説話集を作ろうとする企画と見て良さそうです。これがどうなったかですが、wikipediaより、

しかし、結局、書物は完成せず、撰善言司は解散となり、草稿は『日本書紀』編纂の際に活用されたとも言われる。

 完成しなかったのですが草稿はあったとなっています。ここは仮説ですが馬養は、この時に丹波国宰時代に聞いた浦島話をまとめた可能性が高いと考えています。それだけでなく、馬養の浦島本は独立して成立し、皇族や貴族の教育・教養に広く使われたと考えています。

 浦島伝説に関連する古い記録に万葉集があり、高橋虫麻呂の歌が収載されています。高橋虫麻呂は日本史広辞典に、

719年(養老3)前後の藤原宇合の常陸守時代にその下僚となり、以後宇合の庇護を受けたとされる

 こうあり、時代的に馬養の少し後の人です。読まれた歌の内容の分析は長くなるので控えますが、虫麻呂は浦島本を踏まえて詠んだものと見なして良いかと思います。つまり虫麻呂クラスの下級貴族でも馬養浦島本は教養として知っている程広く広まっていたと見れるのでないかと考えます。
 
 これはそうである必要がると見ています。上級貴族の一部にのみ伝わるものでは、これほど後世に広まって残るとは考えにくく、下級貴族まで広まっていたからこそ、様々な内容の変遷があるとしても現在も残っていると見たいところです。


300年

 馬養本の内容も面白いのですが、個人的に妙に関心を引いたのが、浦島が三年と思っていた時間が三百年であった下りです。

古老等郷人答曰。先世有水江浦嶼子。独遊蒼海。復不還來。今経三百餘歳者。

 丹波国風土記逸文が馬養本に近いと仮定してですが、浦島が旅立ったのは雄略時代としています。

長谷朝倉宮御宇天皇御世

 馬養の浦島本を直接引用したと考えられる日本書紀は雄略22年7月としています。この雄略22年が西暦でいつごろですが、wikipediaより、

武寧王陵から発掘された墓誌から武寧王は462年に生まれたことがわかった(詳しくは武寧王参照)が、これは日本書紀の雄略天皇5年に武寧王が生まれたという記事と対応している。これをもとにすると、雄略天皇元年は西暦458年と考えられる。

 これを基準とすると479年になりますが、300年後は779年になり馬養は既に死亡している事になります。ただ300年の年数合わせを重箱するのはあまり意味がないと考えています。
 
 馬養の原作をかなり正確に引用しているのはやはり日本書紀だと考えています。そこに雄略天皇22年7月とかなり具体的な年月がありますが、これも馬養の原作がそうだったと見るのが妥当です。

 そこから300年の表現ですが、馬養の年代知識では雄略時代は「それぐらい前だったはず」があったと見ています。まだ古事記すら完成していない時代だからです。では浦島の再出現時期がいつだったかですが、馬養の時代であったと見ています。つまり馬養と浦島は実際に会っていたんじゃないかです。

 日本書紀の記述も良く読むと浦島失踪事件は書かれていますが、帰還については触れていません。そうしたのは、雄略天皇22年の事実としては浦島失踪事件が起こっただけだからと見ることも出来ます。

 では馬養がいつ浦島に会ったかですが、これは丹波国宰時代で良いと考えますが、いつ馬養が国宰であったかは不明です。ここで考えたいのは馬養がどうして浦島に会ったかです。国宰は現代であえて喩えれば県知事みたいなものですから、余程の理由が必要です。

 ここは想像の翼を広げますが、浦島の出現は当時的にはホット・ニュースであったと考えています。都でも噂でもちきりみたいな感じです。その真否と話を記録するために、提善言司の馬養が国宰として派遣された可能性があると見ています。馬養本も大評判となり、書紀編集時にも欠かせないエピソード、いや紛れもない事実として挿入されたぐらいです。

 久しぶりに歴史ムックが楽しめました。