古代の年代への模索・応神神功扁

ここは煩雑と言うか、神功皇后のところがすごく興味深いところで、いわゆる干支三運をやっているところです。話には聞いていたのですが、実際に確認するのは初めてでワクワクしています。


応神紀の時代に出て来る百済王はどの辺になるかというと、

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武寧王の8代前の阿莘王(書紀では阿花王)の時代が中心になります。応神紀8年より

百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」

王子の直支というのが百済王18代腆支王に当たるとなっています。2人の百済王の在位期間は

    花王(392〜405年)
    腆支王(405〜420年)
こうなっています。腆支王は応神8年に登場した後、応神16年に

是歳、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」仍且賜東韓之地而遣之。

さらに応神25年に

廿五年、百濟直支王薨、即子久爾辛立爲王

書紀では阿花王が没した時に腆支王は日本におり、阿花王の死後に混乱があった後に帰国して百済王になったとしています。ですから即位年はとりあえず置いといて、

    花王没:405年(= 応神16年)
    腆支王没:420年(= 応神25年)
こういう年代特定が出て来るわけです。あえてここでは応神は軽くしておきますが、これまでのムックに依り、
  • 継体紀は6世紀前半を指す
  • 雄略紀は4世紀中頃から後半を指す
  • 応神紀は4世紀末から5世紀前半を指す
応神 − 雄略 − 継体の間にそれなりの代数の大王が記紀には存在し、そんなに無理な推測ではないと考えています。


応神紀の特異な点

神功紀にも関連するのですが順番ですから応神紀からやります。ここで個人的に特異と思うのは、

  • 天皇、以皇后討新羅之年、歳次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田(書紀)
  • 元年春正月丁亥朔、皇太子即位。是年也、太歳庚寅(書紀)

書紀に応神の生年・即位年が年干支で書かれていることで、これは結構珍しい事です。百済の阿花王・腆支王の記事からして常識的に考えれば

西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢
413 * 34 401 * 22 389 * 10 377 * *
414 * 35 402 * 23 390 即位 11 378 * *
415 * 36 403 * 24 391 * 12 379 * *
416 * 37 404 * 25 392 * 13 380 誕生 1
417 * 38 405 花王 26 393 * 14 381 * 2
418 * 39 406 * 27 394 * 15 382 * 3
419 * 40 407 * 28 395 * 16 383 * 4
420 腆支王没 41 408 * 29 396 * 17 384 * 5
421 * 42 409 * 30 397 * 18 385 * 6
422 * 43 410 * 31 398 * 19 386 * 7
423 * 44 411 * 32 399 * 20 387 * 8
424 * 45 412 * 33 400 * 21 388 * 9
こういう年表が出来上がります。出来上がると言っても、これでは応神が即位したのが11歳の時になってしまうだけではなく、神功皇后三韓征伐も380年に特定される事になります。まあこの辺は神功の後継者である応神が幼少であったからこそ摂政時代があったの説明にすれば良いぐらいに思わないでもありませんが、応神紀には

太后攝政之三年、立爲皇太子。(時年三)

神功3年の時に3歳で皇太子となったとしています。でもって

攝政六十九年夏四月、皇太后崩。(時年百歳。)

元年春正月丁亥朔、皇太子即位。是年也、太歳庚寅。

つまり応神は3歳で皇太子にはなっていますが、即位したのは69歳になってからとしています。つまり母の下で66年間も皇太子時代を送った事になりますが、これはあまりにも長過ぎると思います。何が起こったかを考えないといけないのですが、神功時代の始まりを干支一運遡らせたと考えています。そうすれば年干支は調整できます。では在位期間はどれだけであったかのヒントは神功紀にあります。神功紀は神功13年の次の記載は39年で、少々不自然な飛び方をしています。理由は後で考察しますが、実際の在位期間は13年間であった可能性がまずあります。

しかしそれでも長い気がします。つうのも応神の誕生年は庚辰年と明記されているからです。さらにこの年は三韓征伐の年とも明記され、応神の即位年も庚寅年と明記されています。庚辰年から庚寅年までは10年間で、なおかつ三韓征伐の年は仲哀9年で、神功元年は翌年からになるからです。ここからすると神功の在位期間は9年間とするのが妥当になります。この前提で計算すると神功は40歳で亡くなった事になり、31歳の時に応神を産んだ事になります。旦那の仲哀は書紀によると31歳で立太子、44歳で即位、53歳で崩御です。そうなると仲哀と神功の歳の差は22歳になります。立太子時に神功は9歳でまだ后はさすがに無理ですから、皇太子時代に娶られ后となった考えるのが妥当とか思われます。

そう考えると、かご坂王(古事記では香坂王)、忍熊王を神功元年に討ち取った理由もハッキリします。この2人も皇子になりますが、神功ではなく妃の大中姫命の息子になります。仲哀崩御後の大王位継承レースの様相として、

  • 后である神功皇后に長い間、子どもが生まれていなかった
  • そうであれば妃の子である2人が最有力候補者であった
  • ギリギリの段階で応神が生まれた
  • 嬰児の応神と年長の2人の皇子の間に対立関係が生まれる
  • 神功は我が子の応神を絶対に大王にするつもりであった
構図は単純で、幼子を大王にするために邪魔者の2人の皇子を追い落とし、さらに応神が成長するために自らが大王位に就いたぐらいで良い気がします。まるで持統が文武を皇位に就けるために即位したのと類似しています。


でもって神功紀

これも感心したのですが、応神の即位年は庚寅年(390年)なんですが神功紀より

六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚櫻宮。時年一百歲。冬十月戊午朔壬申、葬狹城盾列陵。是日、追尊皇太后、曰氣長足姫尊。是年也、太歳己丑。

神功崩御の己丑年は379年になります。書紀も歴史書ですから合致して当然ですが、そうはならない事が多いのが記紀ですからちょっとビックリした次第です。神功紀の特徴は何かと言えば

この解釈で書かれています。

卅九年、是年也太歳己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守蠟夏、遣吏將送詣京都也。」

四十年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」

四十三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

魏志魏志倭人伝」なのは解説の必要もないと思いますが、ここにも年干支が明記されています。神功39年は景初3年となっていますが西暦では239年になります。でもって己未年も239年です。書紀の編纂者が魏志倭人伝の記述を相当重視していると思われます(つうか持ってたんだ!)。年表にすると、


書紀 魏志 西暦 年干支
神功39年 景初3年 239 己未
神功40年 正始元年 240 庚申
神功43年 正始4年 243 癸亥
年数感覚もピッタリあっています。ただしこれを応神紀につなげるためには干支三連ぐらいしないといけません。己未年は419年、359年、299年、そして239年だからです。それと不思議なのは魏志倭人伝の年代をこれほど忠実に反映している一方でもう一つの記述を何故か無視しています。

其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告諭之。

卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告喻壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

「其八年」とは正始8年で247年(丁卯年)になり神功47年になりますが、神功紀には

四十七年夏四月、百濟王、使久氏・彌州流・莫古、令朝貢。時、新羅國調使、與久氏共詣。於是、皇太后・太子譽田別尊、大歡喜之曰「先王所望國人、今來朝之。痛哉、不逮于天皇矣。」群臣皆莫不流涕。仍檢校二國之貢物、於是、新羅貢物者珍異甚多、百濟貢物者少賤不良。便問久氏等曰「百濟貢物不及新羅、奈之何。」對曰「臣等、失道至沙比新羅、則新羅人捕臣等禁囹圄、經三月而欲殺。時久氏等、向天而呪詛之、新羅人怖其呪詛而不殺、則奪我貢物因以爲己國之貢物、以新羅賤物相易爲臣國之貢物。謂臣等曰『若誤此辭者、及于還日當殺汝等。』故、久氏等恐怖從耳。是以、僅得達于天朝。」

神功崩御は神功67年の己丑年ですから、当然のように元気に活動されています。もう一つなんですが継体紀・雄略紀・応神紀の年代特定に使った百済王の記録ですが、

  • 五十五年、百濟肖古王薨
  • 五十六年、百濟王子貴須、立爲王

百済肖古王は214年没となっています。百済王の記録が正しければ、魏志の年代と逆転している事になります。もっとも肖古王は百済5代の王で、百済史でも建国神話に入る時代の王ですから、百済本紀と百済三書で在位年の相違があってもおかしくないかもしれません。


ちょっと推理

応神・神功紀では幾つかの変えられない前提があった気がしています。具体的には

  1. 応神の誕生年は庚辰年である
  2. 神功の崩御年は己丑年である
  3. 応神の即位年は庚寅年である
それ以前の大前提として応神は神功の子であるがあります。この神功皇后から応神への継承も書紀編纂時には大きな問題となった気がしています。上記した通り、年齢的に神功は仲哀の皇太子時代に嫁いだと考えられます。ところが子どもはなかなか出来なかったようです。仲哀も実在自体を疑われている大王ですし、その崩御時の様子も奇々怪々のところがあります。とにもかくにも神功は仲哀の死後も権力の座を欲したぐらいにまずは解釈します。それだけ有能であったぐらいに思う事にします。

神功の権力基盤はとにもかくにも仲哀の后である事ですが、仲哀が崩御すれば新たな自分の子でない大王が即位します。そうなれば神功は単なる前大王の后の地位に甘んじざるを得なくなります。そう、神功が仲哀の子を宿したのは仲哀が崩御するギリギリの時期です。つうか仲哀崩御時にはまだ応神は生れていないのです。さらなるエッセンスがあって、神功の妊娠期間は15ヶ月となっています。古代の伝承・神話の領域に近いですから、2年でも、3年でもOKと言えばOKなんですが、現実的に考えると、

  • 仲哀の崩御時にまだ妊娠もしていなかった
  • そこで仲哀の崩御時に「妊娠している」と表明
  • そこから大車輪で子作りに励み、応神と言う皇子を得た
こんな状況で大王位的な地位を保持するのは難しいと思うのですが、強いて言えばそれだけ神功の出身氏族の勢力が大きく、またそれを支持する勢力が大きかったぐらいに解釈するしかありません。ポイントは2つで、
  1. 神功は大王家の血を受けていない
  2. 応神は神功の子ではあるが完全に女系である
そう記紀の大原則である万世一系の法則に反します。神功の扱いはwikipediaより、

明治時代以前は、神功皇后天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝と数えられていた。

しかし書紀では法則違反によりあくまでも摂政として扱っています。まあ摂政と言うのも無理な表現で、本来は君主が幼少とかで政務が取れない時に立つ者で、君主がいないのに69年間も摂政であったはかなり強引な記載だと思ってしまいます。そこはともかく、それなら神功を飯豊皇女の様に曖昧に扱うのもアリに感じます。でもそれが出来なかった事情が記紀編纂者にあったと考えたいところです。記紀編纂者を悩ませたのは2つの理由だと考えています。

  1. 神功の三韓征伐伝説は当時であっても著名な伝承で外すわけにはいかなかった
  2. 魏志倭人伝の女王卑弥呼の存在との対照が重要視された
1.については力業です。力業の結果として応神の誕生年、即位年を明記して「仲哀の子どもである」を無闇に強調したと考えています。そうでなけりゃ万世一系は崩壊します。2.は1.の作業の後に浮上した可能性を考えています。女王卑弥呼を無視するかどうかです。なにせ中国の正史に載ってますから、書紀にも関連を作っておかないと「拙い」の結論が出たぐらいを想像します。ただそんだけの女王が神功以外に存在していないので結び付けようとしたんじゃなかろうかです。


干支三運を考える

現代の歴史での年代の物差しは西暦です。これは便利なもので過去から現在まで綺麗に時系列で物事を並べられます。一方の東洋でも優れた歴史書が出ていますが、基本的に西暦の様な政権・王朝を越えた時間軸が編み出されなかったとして良いかと思っています。大陸の古代の歴史書と言えば春秋とか史記になりますが、そこに書かれている年代を西暦で編集するのは大変な作業だと聞いた事があります。そりゃ、あちこちで矛盾が次々に噴出するそうです。だから司馬遷紀伝体って方式にしたんじゃないかと思っているぐらいです。編年体にするには古代の記録があまりにも複雑ってところです。

今日のテーマは神功と卑弥呼ですが、卑弥呼三国時代の人物です。でもって記紀が編纂されたのは唐の時代になります。この三国時代から唐までの大陸の歴史は分断の時代でになります。wikipediaから引用しますが、

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唐から隋の年数計算はまだ良いとして、魏晋南北朝時代を正確に数えるには結構な歴史知識が必要です。編年体資治通鑑の完成が1084年とされていますから、記紀編纂時にはお手軽に参考にしたくともありません。年代を遡るにはそれぞれの王朝の正史なりを集め、そこに書かれている年代を積算するぐらいか手がなかったと想像しています。その作業が難航したと言うより、ラクした気がしています。応神は4世紀末ぐらいまで積算で遡ってますので、卑弥呼関連の年代は、

大陸年号 年干支 正解 他の候補年
景初3年 己未 239 299、359
正始元年 庚申 240 300、360
正始8年 癸亥 243 303、363
正始8年 丁卯 247 307、367
泰初2年 丙戌 266 326、386
60周年周期の年干支のどれを取るかで悩んだ書紀編集者は、応神の年干支に近いものを卑弥呼と神功の同一性の観点から採用したと考えています。書紀の完成が720年なので応神の時代でさえ300年以上前のお話で、卑弥呼の時代がさらに120年も遡るとは思わなかったぐらいです。参考までに私の仮説での書紀年表です。
西暦 干支 事柄 西暦 干支 事柄 西暦 干支 事柄 西暦 干支 事柄
389 神功崩御 377 * 365 * 353 *
390 応神即位 378 * 366 * 354 *
391 * 379 * 367 正始8年 355 *
392 * 380 * 368 * 356 *
393 * 381 * 369 * 357 *
394 * 382 * 370 * 358 *
395 * 383 * 371 * 359 景初3年
396 * 384 * 372 * 360 正始元年
397 * 385 * 373 * 361 *
398 * 386 泰初2年 374 * 362 *
399 * 387 * 375 * 363 正始4年
400 * 388 * 376 * 364 *
この仮説も難点はありまして、
  1. 無闇に応神の皇太子時代が長くなってしまい、同時に神功の摂政時代が長大なものになってしまった
  2. 卑弥呼の後継の壱与を入れると該当人物が消滅する上に、今度こそ本当の女系になるので無視した
ただこうでも考えないと応神から神功まで120年間の空白が生じます。いきなり遡ってしまうからです。ここで書紀の作為があったなら、今度は神功から応神までの120年間を創作する必要が出て来ます。しかしそんな形跡は見られず、神功から応神は力業でも継続性を保っています。歴史は作成時の近年に近づくほど操作しにくくなりますから、積み上げた在位年数による操作は難しくなるだろうぐらいのところです。もちろん異論・反論はテンコモリあるでしょうが、神功紀に関しては
    神功の在位年数を干支一運だけ操作しただけ
こう考えています。そうそう「神功皇后卑弥呼」説はwikipediaより、

日本書紀』において、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」として、晋書の倭の女王についての記述が引用されている。このため、江戸時代までは、卑弥呼神功皇后であると考えられていた。しかし、この年は西暦266年であり、卑弥呼は既に死去しており、この倭の女王は台与の可能性が高いとされている(ヤマト王権の項など参照)。

しっかし几帳面だなぁ。泰初2年はキッチリ神功66年です。