エルトゥールル号遭難事件

オスマン帝国の黄昏

オスマン帝国は1299年の建国神話をもちますがその最盛期は「大帝」スレイマン1世(1520年 - 1566年)の時代とされ、その最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコ、南北はイエメンからウクライナハンガリーチェコスロヴァキアに及ぶ大帝国を築き上げています。wikipediaより

オスマン帝国の位置
"ImperioOtomano1683" by viejoverde. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

さしもの大帝国も18世紀に入ると衰退傾向を示します。オスマン帝国の力の源泉であった軍事力が西欧諸国に凌駕されてしまいます。とくに北方の大国ロシア帝国が汎スラブ主義の名の下に南下を続け、衰退に拍車をかけたぐらいの見方で良いかと存じます。オスマン帝国もアブデュルメジト1世(1839年 - 1861年)時代から西欧化・近代化への改革(タンジマート)を進めますが、これもまた政争の火種になり改革派と専制派の争いが深刻化します。

アブデュルハミト2世(1876年 - 1909年)がエルトゥールル号事件当時の皇帝になりますが、即位後にミドハト憲法の発布を行ったものの1877年の露土戦争の敗北を契機に1878年憲法を停止し専制支配に回帰します。もっとも政治体制は専制にしたものの西欧技術の導入による近代化は並行して行われています。アブデュルハミト2世の時代は露土戦争の敗北によりバルカン半島の支配権を失い、これによる帝国内部の不満が高まった時期ぐらいに考えて良さそうです。動揺する国内を専制による強権で辛うじて抑え込んだぐらいでしょうか。そのため「赤い流血の皇帝」と呼ばれ、その強権による不満の蓄積が第一次大戦後のる青年トルコ人革命に結びついていったぐらいです。wikipediaよりアブデュルハミト2世の画像です。

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エルトゥールル号は1853年に沿岸防衛用としてイスタンブール造船所で進水しています。その後はwikipediaより、

1864年にロンドンに回航され、1865年まで老朽化した船体の修理と共に、蒸気機関を搭載して蒸気船に改造すると共に武装の一新が行われた。

全長76.2m、全幅15.5m、常備排水量2344トンのフリゲート艦で、15cm口径のクルップ砲を8基、150ポンドのアームストロング砲を5基、他にオチキス 3.7cm(23口径)5連装ガトリング砲2基、ノルデンフェルト 2.5cm4連装機関砲2基を搭載しているとなっています。wikipediaより

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"ErtugrulFirkateyn" by Ottoman Empire - Turkish Navy. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

オスマン帝国が当時国交のなかった日本にわざわざ軍艦を派遣したのは1887年に小松宮彰仁親王オスマン帝国を訪問し、明治天皇の親書を奉呈したことに端を発しています。つまりはこれに対する答礼というわけです。同時にオスマン皇帝はイスラム教徒のカリフであり、帝国外のイスラム教徒に威信を見せる意図もあったとされます。1889年にイスタンブールを出航していますが、基本的な疑問は近代化改装を受けてはいますが既に艦齢が36年になる老朽艦である点です。今でもトルコと日本は遠いですが、当時はもっともっと遠い国で、他にもっと適切な艦はなかったのか思うのですが、なぜか選ばれたのはエルトゥールル号です。

オスマン帝国の海軍はアブデュルアズィズ(1861年 - 1876年)時代にwikipediaより、

1867年にはパリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国の皇帝としては史上初となる西欧諸国歴訪を行った。その折に列強の持つ装甲艦に魅了された彼は、のちに海軍力の増強に力を入れ、その結果この時期のオスマン帝国海軍は軍艦の保有数だけでは世界有数となった。

エルトゥールル号建造の後に海軍の拡充が行われています。つまりエルトゥールル号より新しく大きな軍艦があっても良さそうなものです。この辺は帝国の威信のために国産艦であることが重視されたのかもしれませんが、決定の詳細については不明です。ただ選定に関与したのが海軍大臣であるフスニ・パシャであることだけは記録に残っている様です。


苦難の航海

オスマン帝国の海軍はアブデュルアズィズ(1861年 - 1876年)時代に拡充されたとしましたがwikipediaより、

力を注いだ海軍整備も、多くの艦船は外国製の中古である上に艦長もお雇い外国人であった。このため造船・操船とも技術が根付くことはなかったばかりか、艦船の購入と維持にかかる莫大な費用が国家財政を圧迫することにもなった。

そういう状態での日本遠征はかなりの無理が出たようです。1889年7月14日に金角湾を出航したものの、翌7/15にいきなりスエズ運河で浅瀬に乗り上げて座礁します。この修理だけで1ヶ月を要しています。まずスエズ座礁による修理費用で日本遠征費用のかなりすり減らしてしまったようです。さらに寄港地としてアデン、ボンベイコロンボシンガポールサイゴン、香港、福州と経るのですが、寄港するたびにイスラム教徒の大歓迎を受けたとなっています。とくにシンガポールでの歓迎は凄かったとされます。イスラム教のカリフがこれだけの大軍艦を派遣した事に感激したってところです。

そういう歓迎はエルトゥールル号日本派遣の目的の一つですから皇帝アブデュルハミト2世の意図に副うものではありますが、熱烈な歓迎行事をこなしていったため、日本到着まで実に11か月かかっています。これだけでは判りにくいと思いますから、当初の計画では6ヶ月の予定だったとされており、航海のための予算もそれぐらいしか持っていなかったって事です。その上でスエズの修理費用が発生していますから、日本に着いた頃には相当厳しい状態であったことは容易に想像されます。

具体的には航海のための石炭購入費が乏しくなり、石炭節約のために可能な限りの帆走を余儀なくされたとなっています。そのために船足が遅くなりますが、その分さらに航海日数が延びます。どうなったかですが断片的な資料から推測すると、

  1. 7/14金角湾から出航
  2. 7/15スエズ座礁、修理に1ヶ月
  3. 8月中旬にスエズから出航
  4. シンガポールで越年となっていますから、12月ぐらいに入港したと推測されます
  5. 長崎を経て横浜入港が6/5
イスタンブールからシンガポールまで修理期間を含めて約5か月、シンガポールから横浜まで約6ヶ月ぐらいになります。石炭だけではなく食糧事情もかなり逼迫していたと想像されますが、この点については不明です。とにもかくにも、6ヶ月の予定がその倍近くかかった事になります。それと長期の航海は老朽艦であるエルトゥールル号にも負担がかかります。エルトゥールル号オスマン帝国の威信もかかっていますから、神戸で塗装を行っています。相当みすぼらしくなっていたのでしょう。塗り替えた晴れ姿で横浜に入港はしたものの、資金的には厳しいを通り越えて底が尽きそうな状況になります。艤装も修理が必要な部分があったとされていますが、それより食糧購入を優先せざるを得なくなるぐらいです。

6/5に横浜に入港したエルトゥールル号ですが、7/18には今度はコレラ禍に襲われます。そのために横浜滞在もまたぞろ伸びに伸びて、9/15にようやく出航となります。明治政府も老朽艦であるエルトゥールル号への懸念があり、9月出航は台風シーズンに突入するので、それをやり過ごし、十分な修理を行ってからの出航を勧めたとされています。なぜに9/15に出航したかですが、ただでも乏しくなっている航海費用が限界を超えており、このままでは日本で立ち往生状態になり、オスマン帝国の威信にかかわるとの皇帝の判断であったとされます。

でもって当時の軍艦が6ヶ月で日本とトルコを航海できたかですが、遭難後に日本は生存トルコ船員を金剛と比叡で送っています。金剛も比叡も2250トンでサイズ的にはエルトゥールル号とドッコイドッコイで、進水が1877年ですから艦齢は13年ってところです。この時は10/18に神戸出航で、1/2にイスタンブールに入港しています。片道6ヶ月の当初計画はそんなに無茶なものでなかったぐらいは言っても良さそうな気はしています。


遭難

事件は横浜出航の2日後の9/17夜に起こります。熊野灘を航行していたエルトゥールル号は台風に巻き込まれて紀伊大島沖で座礁沈没します。沈没時には蒸気機関に海水が入り込み水蒸気爆発を起こしたと記録されています。ここで良くわからないのが乗組員の数です。秋月達郎著「海の翼」によると、

乗組員は将校が六十一名で、下士官および兵卒が五百四十八名、計六百九名を数えた。

ただこれは乗組員の数で、これに使節団が加わるようです。つうのも同じく海の翼より、

しかしながら、アリ・ベイ艦長をはじめとする二百十九名の遺体こそ収容し終えてございますが、特使オスマン・パシャ以下三百六十二名を数える行方不明者は

ここに出て来る人数を足すと犠牲者は581名で旧慰霊碑にはこの人数が記されていたそうです。これとは別に生存者が69名おり合計すると650名になってしまいます。細かい事をいうと横浜でのコレラ禍で1人は確実に死亡している様です。さらにがあってwikipediaには

この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。

横浜を出港した時には656名だった事になります。とにかく1割ほどしか生き残れなかった惨事である事だけは良くわかります。この事件の慰霊碑は最終的にトルコ共和国の初代大統領ケマル・アタチェルクが1929年に整備していますが、子どもの時に見た記憶があります。当時は「そんな海難事件があったんだ」ぐらいにしか思えず、わざわざ慰霊碑まで立てているのは何故だろうとおもったぐらいと白状しておきます。


イラン・イラク戦争

この戦争は1980年から1988年まで行われたものです。両国が戦争に至った原因は色々あるのですが、それは置いといてwikipediaより、

両国の都市爆撃の応酬が続く最中の1985年3月17日、48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃するとサッダーム・フセイン大統領が突如宣言した。

本当に突如だったらしく、イラン在住の外国人は大急ぎでイランから脱出する事になります。もちろん日本人も同様なのですが、48時間しかないので、当たり前ですが各国は自国民救助を優先とします。日本政府も手をこまねいていた訳ではなく、wikipediaより、

  • 日本は自衛隊の海外派遣不可の原則のために、航空自衛隊機による救援が出来なかった(そもそもイランに直行できる救援機を自衛隊は持っていなかった)。
  • 日本航空にチャーター便の派遣を依頼したのだが、日本航空パイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されないことを理由にいずれもこの要請を拒絶した。

最終段階での在テヘラン在住者は海の翼によると338名。このうち八方手を尽くして確保した航空券が123名分、それでも残り215名分が取り残されることになります。日本政府は自衛隊にも日航にも救出機派遣を断られてお手上げ状態になります。実はここからが私にもよくわからないのですが、万策尽きた野村豊大使が、トルコのイスメット・ビルセル大使にトルコからの救援機を要請したとなっています。野村とビルセルの関係はwikipediaでは、

土壇場で個人的な親交に一縷の望みを託した

海の翼では赴任が同期であったとなっています。とにもかくにも野村大使の要請をビルセル大使は受け入れ、それを本国政府のトゥルグト・オザル首相に伝えたのは確実です。さらにその要請をオザル首相が受け入れたのも間違いないようです。どのあたりの時刻に救援機派遣の決定がばされたかですが、海の翼よりオザル首相の言葉として、

「制限時間は、あと二十四時間足らずです。飛ばさざるを得ないでしょう」

フセインの航空機無差別攻撃宣言の内容は、海の翼より

首都テヘランを含むイラン上空を飛ぶ全ての国の航空機は、三月十九日二十時半を期して無差別に撃墜する

そうなるとオザル首相が救援機派遣の決断を下したのは3/18の21時頃であったと推測されます。最近わりと広まったお話なんですが、どんだけググっても日本政府が要請したとの話が出て来ません。舞台裏は良くわからないですが、野村大使もトルコへの救援要請と承諾の事実を外務省に報告しているでしょうし、それを受けて日本政府もトルコ政府に働きかけを行ったぐらいを想像しますが、どうも野村大使が先に動いてトルコ政府の了承を取りつけたとぐらいに理解しても良さそうな気がしています。

救出に向かったトルコ航空機は2機(1機はもともとの定期便だったそうです)。1番機は15時着陸、17時10分離陸となっています。2番機は入れ替わるように着陸し、離陸は19時30分となっています。ここでなんですが、テヘランからトルコ国境までは通常では1時間半だそうです。1番機は時間的に問題ありませんが、2番機は無差別爆撃宣言まで1時間しかありません。離陸後はそれこそ全速力で飛んだようで、ちょうど20時30分に国境を越えたと海の翼では記しています。


事実は小説よりも奇なり

海の翼では中途半端な創作・脚色部分があって、かえって本当の事実関係がわかりにくくなっているのですが、事実らしいエッセンスを拾うと、

  1. フセインの無差別撃墜宣言に対してイランの邦人救出は本国政府では対応できなかった
  2. 現地の野村大使は個人的な親交に頼ってトルコのビルセル大使に救出機派遣を要請した
  3. トルコ政府が快諾しただけでなく、トルコ航空もこの要請を快諾した
  4. 救援機がテヘランを飛び立ったのは、実に無差別撃墜宣言の1時間前であった
機長は1番機(特別救援機)がオルハン・スヨルジョ、2番機(最終定期便)はアリ・オズデミルとなっていますが、1番機でも無差別撃墜宣言を考えるとギリギリに近い離陸ですが、2番機は着陸した時点でギリギリなんてレベルじゃない事実が確認できます。海の翼を信じればイラク側からのミサイル攻撃が断続的に行われており、その影響で少しでも離陸が遅れればテヘランメヘラーバード国際空港で立ち往生になってしまいます。それでもトルコ航空機は突っ込んで来たって事になります。

それと救援を待つトルコ人は600人程度は残っており、救援機として使われたDC10は276席となっています。つまり2機にトルコ人全員が乗り込んでも溢れる勘定です。そんな状況でも日本人救出を優先させています。結果としてメヘラーバード国際空港に集まっていた日本人は全員救出(あえて残った者は除く)されています。ここもよく判らない部分があるのですが、

    1番機:198名
    2番機:17名
2番機にも日本人が分散したのは、1番機に遅れた日本人がいたのでしょうか? もう少し注目しておけば、時間的にはまだ余裕のあった1番機が日本人救出用です。修羅場に近い状況でこれだけの好意を示したトルコ人に脱帽するばかりです。そうなんです、ここまで命がけの好意を示した理由がエルトゥールル号の恩返しとされています。ちなみに残されたトルコ人は陸路でイランを脱出したそうです。


御存じの通り、トルコは遠い国です。極論すれば両国での目ぼしい出来事はエルトゥールル号の遭難ぐらいしか無い気がします。それもイラン・イラク戦争の100年も前のお話です。日本でのエルトゥールル号事件の扱いは地元の紀伊大島はともかく、それ以外の日本人にとっては知らなかったお話です。エルトゥールル号遭難当時は大々的に報道され、日本中が注目したとなってはいますが、日本人はすっかり忘れてしまっていたとしても良い気がします。でもそれでエエ気がしています。

恩は施すものであり、見返りは期待しない方が綺麗です。つうか昔に施した恩を着せて、いつまでも恩返しを請求するのは醜悪です。ですから見返りどころか、恩を施した行為さえ忘れてしまっているのも必ずしも悪いと思いません。一方で逆はいけません。施された恩は必ず返す心構えが絶対に必要です。それをしない人間を恩知らずと言います。恩を施した側の日本人がすっかり忘れてしまっていた恩を返しをしてもらったお話は、爽やかな後味が残ります。出来得るならば、次にトルコ人が窮地に陥った時に、テヘランで受けた恩を日本人はいつまでも忘れる事なく返せたら嬉しいと思っています。