イラン・イラク戦争・テヘラン脱出の再検証

 参考資料にしたのは秋月達郎著「海の翼」なんですが、この本はピュアなノンフィクションと言うよりも歴史小説的な手法で書かれ、そのためにどこが事実であり、どこが創作部分か判りにくくなっています。とは言うもののこの事件で時刻関係をここまで書いてくれている資料が他にないので「信じる」と言う前提で検証してみます。とりあえず空の翼から掘り出した時刻関係です。

日付 時刻 事柄
イラン イラク 日本
48 20:30 20:00 04:00 無制限撃墜宣言
11:00 10:30 18:30 日航断念
28 16:30 16:00 00:00 野村、ビスメルの下に
21:00 20:30 04:30 オザル首相快諾
10:00 09:30 17:30 トルコ機離陸
10 10:30 10:00 18:00 *
11:00 10:30 18:30 *
9 11:30 11:00 19:00 *
12:00 11:30 19:30 *
8 12:30 12:00 20:00 *
13:00 12:30 20:30 *
7 13:30 13:00 21:00 *
14:00 13:30 21:30 *
6 14:30 14:00 22:00 *
15:00 14:30 22:30 トルコ特別機着陸
5 15:30 15:00 23:00 *
16:00 15:30 23:30 *
4 16:30 16:00 00:00 *
17:00 16:30 00:30. トルコ特別機離陸(17:10)
3 17:30 17:00 01:00 トルコ最終便着陸
18:00 17:30 01:30 *
2 18:30 18:00 02:00 *
19:00 18:30 02:30 *
1 19:30 19:00 03:00 トルコ最終便離陸
20:00 19:30 03:30 *
0 20:30 20:00 04:00 トルコ最終便国境を越える
48 → 33時間

 フセインの無制限撃墜宣言は3/18の20時30分以降に実施されるとなっています。えらい中途半端な時刻と思っていたのですが、理由は単純でイラクとイランの間に時差が30分ありました。つまりフセインが宣言したのはイラク時間の20時であり、イラン時刻に換算すると20時30分になると言う訳です。ちなみにフセインが撃墜宣言を行った時刻は日本では4時になります。当時の首相は中曽根康弘なんですが、第2次(第1次)改造内閣となっており、官房長官は後藤田正晴、外務大臣は安倍晋太郎、防衛庁長官は加藤紘一となっています。当然対策会議が開かれたはずですが、これが何時から始まったかは不明です。

 対策会議の内容的には自衛隊機、民間機の派遣が検討されたものの、自衛隊機は自衛隊法での整合性で頓座し、救援機派遣を依頼した日航にも断られたとなっています。おそらくこれらは午前中の事だと推測されます。なんとなく自衛隊機の派遣に関して最後まで議論が行われた感触をもっていますが、結論的には「無理」となっているのは事実です。この辺は当時の自衛隊機ではテヘランまで飛行し、さらに在留邦人を救出するには能力不足であったの指摘もあります。ミリオタではないので怪しい知識ですが、輸送機となれば当時ならC-1(今もかなぁ?)になるんじゃないかと思いますが、とりあえず1機のあたりの輸送人員は兵員ベースで60名となっており、さらに致命的なのはwikipediaより、

C-1は内部燃料タンクのみの場合、その航続距離は岐阜を中心として北海道・九州までであり、当時の技術力でも、C-1の航続距離は他国の輸送機よりも極端に短く、沖縄県や訓練区域の硫黄島へ飛行する場合は増槽を必要とする。

 テヘランにたどり着くために給油が何回給油が必要になるかってお話です。当時はまだ政府専用機もなかったわけで、自衛隊と日航に断られたら日本政府を以てしてもお手上げ状態になったようです。ところが「どうも」午後になって日航の状況が変わったようです。この辺は政治的圧力もあったのかもしれませんが、日航が救援機を出す話が浮上したようです。ところが組合側が危険性を盾に反対(そりゃそうだろ)しスッタモンダの末にこれも頓挫したとなっています。最終的に頓挫した時刻が日本時刻で18:30、イラン時刻で11:00頃と見て良さそうです。撃墜宣言まで33時間ってところです。ここで事実上、本国政府は完全にお手上げになってしまったぐらいです。


33 → 24時間

 野村大使が日本からの救援機が無理である事を確認したのはイラン時刻で3/19の昼頃として良い気がします。撃墜宣言から以降は在留邦人の人数及び居場所確認に奔走していたと考えられますが、日本からの救援機の可能性がなくなり落胆はしただろうと思っています。どうもそこからは、他国の大使館や航空会社に邦人を乗せてくれるように懇願に飛び回ったとして良いと思います。そりゃ、他に有効な手段がある訳ではないからです。この努力はまったくの無駄ではなく、最終的は123名分の搭乗券を確保したとなっています。

 それでも215名が残るのですが、運命のイスメット・ビルセル大使を訪れたのはイラン時刻の16:30(日本時刻では00:00)ぐらいと推測されます。海の翼を信じればですが、野村大使はトルコの避難事情もある程度把握していたようで、トルコ航空が使っていたDC10は275席であり、最終便を残す段階で在留トルコ人がまた600人以上いるって話です。昼頃に日本からの救援機の望みがなくなり。ビルセル大使を訪れたのが、16:30になったのは「トルコは無理」の判断があったんじゃないかと私は考えています。

 ただトルコはたとえばイタリアなどと較べると少し事情が違うところがあります。要するにイランに近い(つうかお隣)って点です。トルコ大使館を訪れる前に邦人救出の目途がついていたら、トルコ大使館自体を訪れなかった気もしますが、この日の午後の他国に要請に行った感触から、野村大使は無謀なチャレンジをせざるを得なくなったと推測します。厚かましすぎるお願いですが、日本人救出のために特別機を送ってくれないかの要請です。これもお願いするだけで無茶な要請で、トルコ人自体が最終便の航空機で運びきれないほど残っており、そんな状態で日本人向けの特別機の派遣は「虫が良すぎる」と一言の下に却下されても何も言い返せない状況です。

 野村大使とビルセル大使の間に個人的な親交があったとはなっています。これがどれほどのものであったかは実際のところ不明です。まあ、戦時下の外交団ですから平時に較べて「生きるため」の情報交換も緊密であったろうと推測されますし、その中で「馬が合う」ぐらいの関係があったとしても不思議とは言えません。そういう関係があったから「あえて」要請できたとは言えますが、非常に言い出しにくい要請であったろう事は容易に想像されます。


 これに連動してもう一つの動きがあったようです。これも海の翼に書かれてはいたのですが「ホンマかいな」と思っていたのですが、文字化資料 NHK『プロジェクトX〜挑戦者たち』より「撃墜予告 テヘラン発最終フライトに急げ」に、

 野村は、ビルセルに言った。「日本人を救う手はないか?」。友の苦悩を知ったビルセル。うなずくと、本国にとんでもない電報を打った。『日本人のためにトルコ航空の特別便を飛ばせないか?』。その要請は、一人の男の元に届いた。トルコの首相トルグト・オザルだった。オザルは思った。日本人を救うために、トルコ人を危険に曝せるのか。そのとき、1本の電話が入った。「飛行機を出してください」。声の主は、森永尭(もりなが・たかし)。伊藤忠商事のトルコ駐在員だった。同僚とその家族、34人がテヘランに取り残されていた。森永がトルコに赴任したのは10年前。経済は破綻していた。中東の国ながら、石油は出ず、工業技術もなかった。そのころ、経済官僚出身のオザルに出会い、相談された。「トルコを中東に日本にできないか?」。森永は、トラクターの生産を提案。日本の農業機械メーカーから技術協力を取り付けた。メイド・イン・トルコのトラクター。輸出にも成功した。オザルに電話する森永は思った。自分は一ビジネスマン。しかし、仲間のためにやるしかない。

    あの、本当に無鉄砲なことですよね。ええ、それでもやり遂げなきゃいけない。もう、オザル首相に頼むしかないわけです。
 オザルは、考えた。森永の電話、そして、ビルセルからの要請。時間切れまで、あと25時間半。大使の野村に知らせが入った。相手は、ビルセル。「明日、トルコ航空が日本人のために特別便を飛ばすぞ」。オザル首相の決断だった。

 海の翼では24時間を切った頃としていますが、プロジェクトXでは25時間半、つまりイラン時刻で19:00頃のお話なります。でもこれどっちも正しい気がします。トゥルグル・オザル首相が決断したのが19:00としても、独裁国家ではありませんから首相の意思決定を公式のものにするのに手続きが必要です。つうか日本でも日航が断ったようにトルコ航空が断る可能性もあるわけです。おそらくこのあたりの時刻関係は、

日付 時刻 事柄
イラン イラク 日本
28 16:30 16:00 00:00 野村、ビスメルの下に
17:00 16:30 00:30.
27 17:30 17:00 01:00 ビスメル本国に打電
18:00 17:30 01:30
26 18:30 18:00 02:00 オザル首相に伊藤忠の森永から電話
19:00 18:30 02:30 オザル首相決断
25 19:30 19:00 03:00
20:00 19:30 03:30
24 20:30 20:00 04:00
21:00 20:30 04:30 トルコ航空が救援特別機派遣を決定
 これぐらいじゃないかと考えます。それにしても迅速な意思決定で、19:00に救援機を派遣するとオザル首相が決断し、その要請を受けたトルコ航空が応じるまで2時間ほどであった事になります。もっともこの時のトルコ航空の決定は総裁ユルマズ・オラルの独断であったのかもしれません。つうか時刻関係を考えると、決断したオザル首相はそのままトルコ航空のオラル総裁に電話し、オラル総裁が救援機派遣の受諾の返事を行ったのが21:00だった気がします。でもってこの決定はトルコ外務省経由でビルセル大使の下にもたらされ、そこから野村大使に連絡が行われ、さらに野村大使からイラン在留邦人に連絡が行われたと見たいところです。

 日本時刻を見てもわかるとは思いますが、この頃の政府は万策尽きて寝ていたんだろうとしか言いようがありません。前回の時に政府も動いたんじゃないかと思いましたが、野村 − ビルセル・ラインからトルコが動いてくれた事実を把握し、安倍外相や中曽根首相に伝わったのはかなり遅かった気がしています。


24時間 → ゼロ

 おそらく3/18の午前中はトルコ航空は救援機の整備と、乗組員の人選が行われていたぐらいで良いと思われ、また幸いな事に日航の時の様に労組の反対は起こらなかったようです。ここでなんですが、海の翼ではイスタンブールを離陸間際になり、イラクからの攻撃が激しくなり、イランの運航許可が下りなくなるエピソードが描かれています。これはプロジェクトXにもあり、

  • タイムリミットまで12時間。隣国トルコではイランに向けた特別便が飛び立とうとしていた。離陸体勢に入ったそのとき、アリ機長に連絡が入った。
  • 1時間半後、イラン政府の運行許可を取った。

 これも実話のようです。時刻で言うとタイムリミットまで12時間が8:30、その1時間半後が10:00になります。ただプロジェクトXと海の翼では救援機の事実関係が少し異なります。プロジェクトXでは特別機はアリ・オズデミルとなっており、具体的には

 午後3時。特別便が現れた。機長のアリ。搭乗を促した。

 家族と乗り込んだ縣。高熱で座席に倒れ込んだ。機長のアリ。時計を見た。残り4時間でイラン領空から出ねばならない。そのとき、凄まじい攻撃音が耳をつんざいた。イランの対空砲火だった。イラク機が迫っている証だった。

 日本人乗客全員が搭乗した。給油完了。大きく深呼吸したアリ。エンジン全開。午後5時10分、テヘランを離陸。野村は特別便が西へ消えるのを見送った。撃墜開始まであと3時間。早く、イラン領空を出てくれ。撃墜の不安。乗客たちは祈っていた。2時間を切ったそのとき、アリ機長のアナウンスが流れた。"Welcome to Turkey."ようこそ、トルコへ。歓声が上がった。

 海の翼と較べると、

項目 プロジェクトX 海の翼
機長 アリ・オズデミル オルハン・スヨルジョ
イスタンブール離陸 10:00 10:00
テヘラン着陸 15:00 15:00
テヘラン離陸 15:10 15:10
日本人乗客 215名 198名
 離着陸時刻から同じトルコ航空機を示しているのは確実ですが、数字の細かさ(他の証拠は後述します)から海の翼の方が事実と思われます。プロジェクトXでは撃墜宣言から2時間を切ったギリギリの時間にイランからの脱出に成功したとなっていますが、事実はさらにドラマであったとして良い気がします。プロジェクトXでもイラン在留邦人への連絡、さらにはメヘラーバード国際空港への集合に難儀した様子が描かれていますが、プロジェクトXの様に特別機に日本人全員が搭乗出来たわけではなく、15:10の時点でさらに乗り遅れた日本人がいたと見て良さそうです。

 上記の対照表で特別機の機長はオルハン・スヨルジョとしましたが、アリ・オズデミルはトルコ航空の最終定期便に乗り込んでいます。この最終定期便はどうなったかですが、

項目 最終定期便 補足
機長 アリ・オズデミル
イスタンブール離陸 10:10〜10:30 10:00の特別機に引き続いて
テヘラン着陸 15:20〜15:30 特別機の離陸後に着陸
テヘラン離陸 17:30 撃墜宣言の1時間前
日本人乗客 19名
 実は最終定期便のイスタンブール離陸時刻は判然としません。つうのも引き続いて飛び立ったと思いたいところですが、テヘラン着陸時刻が特別機の後と海の翼ではなっているからです。でもこれではチト遅すぎる気がします。と言うのも特別機はイスタンブールからテヘランまで5時間かかっています。同じぐらいかかったとすれば、12:30ぐらいにイスタンブールを離陸した事になりますが、ただいくらなんでも、これだけ緊迫している時にそこまで出発を遅らせるのは不自然です。最終定期便のテヘラン着陸が遅れたのはプロジェクトXより、
    機長のアリ。時計を見た。残り4時間でイラン領空から出ねばならない。そのとき、凄まじい攻撃音が耳をつんざいた。イランの対空砲火だった。イラク機が迫っている証だった。
 海の翼でも似たような描写があるのですが、どうも特別機が着陸後にイラク軍の攻撃があり、最終定期便になかなか着陸許可が下りなかったとして良い気がしています。つまり最終定期便はテヘラン上空でイラク軍の攻撃がおさまり、着陸許可が出るまでずっと待っていたと考えて良い気がしています。その結果、撃墜宣言の1時間前のテヘラン離陸となり、さらにトルコへのルートも変更したと考えられます。イスタンブールからテヘランまでは、一旦北へ大きく迂回しカスピ海を南下するコースを取っています。さらにこれにジグザグ飛行を命じられています。そのためイスタンブールからテヘランは通常では3時間ほどとなっていますが、この時は5時間かかっています。

 特別機は帰路も同様のコースを取った可能性があります。つうのも撃墜宣言まで4時間は切っていましたが、まだそのコースを取ってイラン領内から脱出できる可能性があったからです。一方の最終定期便は1時間しか残されていません。そのために海の翼では一直線にアララト山を目指し、なおかつ通常では1時間半かかるところを1時間で飛んでいます。


叙勲

 オルハン・スヨルジョとアリ・オズデミルは2003年に日本政府からともに叙勲されています。海の翼より、

旭小、日本・トルコ国間の友好親善及び在留邦人救出に貢献、元トルコ航空パイロット、アリ・オズデミル(75歳)トルコ国イスタンブール県イスタンブール市

旭小、日本・トルコ国間の友好親善及び在留邦人救出に貢献、元トルコ航空パイロット、オルハン・スヨルジョ(80歳)トルコ国イスタンブール県イスタンブール市

 もし特別機に在留邦人全員が搭乗できていたのなら、最終定期便のパイロットは申し訳ありませんが、叙勲の対象にならなかったと思います。トルコ人にとっては英雄行為ですが、日本人にとっては無関係になってしまうからです。ですので特別機のパイロットはオルハン・スヨルジョであり、最終定期便のパイロットはアリ・オズデミル。さらに両方の旅客機に日本人は搭乗していたと見て良いと考えます。