古代の年代への模索・継体扁

記紀は優れた歴史書ですが、難点は年代にあるのは周知のとおりで考古学的証拠との照合が一筋縄にいかないのにいつも苦労させられます。卑弥呼が誰なのか、邪馬台国がどこなのかも記紀では暗中模索になってしまいます。邪馬台国は何度か触れていますが、たとえば邪馬台国ヤマト王権の関係が継続しているのか、別物なのかも確認できないってなところです。記紀の年代を検証するには記紀以外の記録と照らし合わせるのが一番手っ取り早いのですが、これがまた非常に資料が乏しいと言うのがあります。

記紀製作時にたくさんの資料を集めたとされていますが、記紀以外の他の資料の殆どが「どうも」処分されてしまったとされています。それぐらい他の資料に乏しい苦しさがあるのですが、資料が乏しい分だけ想像の翼を広げられる楽しみが出ると取りかかったのですが、さすがに手強すぎて悪戦苦闘になっています。そんな思案の後です。


上宮聖徳法王帝説と百済本記逸文

前にも取り上げましたwikipediaより、

原本は残存しない。写本は江戸時代末期まで法隆寺秘蔵物で天下の“孤本”といわれた。後に知恩院に移されて現在は国宝である。この写本の巻末に所有者だったと思える高僧(相慶・法隆寺五師の一人、12世紀後半の人物)の名が残されていることから、編者は法隆寺縁の高僧、内容から主な部分は弘仁年間(810年 - 824年)以降、延喜17年(917年以前には成立し、永承5年(1050年)までには現在の形となったとされる。

これまでほとんど世に知られていなかったが、写本の近代史学の発展に伴い、官製の『古事記』や『日本書紀』などの文献批判が行われ、本書の内容が記紀以前の古い史料が基礎になっていると思量され、記紀を補完する信用度の高い古典として脚光を浴びてきた。

日本書紀の完成が720年ですから早くて100年後ぐらいに書かれたと推定されていますが、研究では記紀以外の古資料に典拠している可能性が高いとなっています。ここに欽明から推古までの大王の在位年数と崩御年が記されています。記紀との相違は、

天皇 在位年数 上宮聖徳法王帝説
没年
日本書紀 上宮聖徳法王帝説 日本書紀 上宮聖徳法王帝説
欽明天皇 志歸嶋天皇 32年 41年 辛卯4月
敏達天皇 他田天皇 14年 13年 乙巳8月
用明天皇 池邊天皇 2年 3年 丁未4月
崇峻天皇 倉橋天皇 5年 4年 壬子11月
推古天皇 小治田天皇 36年 36年 戊子3月
89年 97年
そんなに差はないのですが、欽明の即位年を計算すると531年(辛亥年)になります。書紀と上宮聖徳法王帝説のどっちが正しいかなんて判定しようがありませんが、継体天皇崩御年を記紀から拾うと

  • 古事記・・・丁未年四月九日崩也(527年)
  • 日本書紀


    • 或本曰・・・廿八年歳次甲寅崩(534年)
    • 百済本記・・・廿五年歳次辛亥崩(531年)

百済本記説と上宮聖徳法王帝説を取ると欽明の即位年と継体の崩御年は一致します。その代わり安閑・宣化は存在しようがなくなります。でも取るなら継体崩御・欽明即位が531年としたい誘惑にかられます。


継体43歳崩御

継体の享年ですが、

継体の事歴も実質的に記紀しか存在しないので
  1. 在位は25年とする
  2. 大和に遷都したのは在位19年目とする
  3. 崩御百済本記逸文を取って531年とする
これに隅田鏡金石文を入れた簡単な年表を作ってみます。
西暦 年齢(数え) 事柄
古事記 日本書紀
450 1 生年
489 1 40
503 15 54 隅田鏡
506 18 57 即位
525 37 76 大和遷都
531 43 82 崩御
こうやって較べると判りやすいのですが、書紀年齢では老けすぎで、古事記年齢では若すぎることがわかります。それでもどちらを取るかと言われたら古事記年齢を取りたいとところです。ただ古事記年齢で18歳即位は「いくらなんでも」の感触があります。ここで上述した上宮聖徳法王帝説の在位年数と百済本記逸文の継体崩御年齢を取ると安閑・宣化が存在する余地がなくなります。まあ存在しなくてもエエようなものですが、安閑・宣化はヒョットして継体の前じゃなかろうかと考え始めています。

書紀では安閑が在位5年、宣化が3年となっています。仮に安閑・宣化が継体より先であれば継体即位は26歳以降に少しずらせます。大王即位年齢は目安として30歳以降なんて説がどこかにありましたが、混乱期ですから18歳は無理があっても26歳なら「まだしも」ぐらいってところです。また書紀に書いてあるより安閑・宣化先行時代が長かったら「そんなもの」になります。ほいじゃわざわざ前後逆にしたかの理由が必要になりますが、万世一系の原則に反する人物であったぐらいを考えています。そこで継体の息子にして処理してしまったぐらいでしょうか。

安閑・宣化問題はさておき、継体でとりあえず特定しても良さそうな年代は、

  1. 503年には忍坂宮に居た
  2. 506年に即位(もしくは安閑・宣化が先行)
  3. 525年大和遷都(ここが本当の即位かもしれません)
  4. 531年崩御
こんなところと考えています。


イマイチ

あれこれ考察はしていますがトドの詰り

    上宮聖徳法王帝説の欽明即位年と書紀にある百済本記逸文の継体崩御年が同じになる
これ以上の情報は得るべくもなかったぐらいです。それでも継体が活躍したのは6世紀初頭ぐらいは言えそうですから、収穫は収穫ってところでしょうか。ありきたりの説を穿っただけの御意見もあるでしょうが、ここで参考までに畿内の四大古墳群のうちで巨大(とりあえず墳丘長が150mのもの)をリストアップしてます。
古墳群 名称 墳丘長 推定築造年代
纏向古墳群 箸墓古墳 278m 3世紀中頃
大和柳本古墳群 西殿塚古墳 234m 3世紀後半〜4世紀初め
東殿塚古墳 175m 4世紀初頭
行燈山古墳 242m 4世紀前半
渋谷向山古墳 310m 4世紀後半
佐紀盾列古墳群 五社神古墳 275m 4世紀後半〜5世紀初頭
佐紀石塚山古墳 220m 4世紀末
佐紀陵山古墳 207m 4世紀末
市庭古墳 253m 5世紀前半
コナベ古墳 204m 5世紀前半
宝来山古墳 227m 5世紀前半
ウワナベ古墳 205.4m 5世紀中頃
ヒシアゲ古墳 219m 5世紀中葉〜後半
古市古墳群 津堂城山古墳 208m 4世紀後半
誉田御廟山古墳 425m 5世紀初頭
仲津山古墳 290m 5世紀前半
墓山古墳 225m 5世紀前半
中宮山古墳 154m 5世紀前半
岡ミサンザイ古墳 242m 5世紀後半
市野山古墳 227m 5世紀後半
軽里大塚古墳 190m 5世紀後半
百舌鳥古墳群 乳岡古墳 150m 4世紀末
上石津ミサンザイ古墳 365m 5世紀初頭
御廟山古墳 203m 5世紀前半
大仙陵古墳 486m 5世紀前期・中期
土師ニサンザイ古墳 290m 5世紀後半
前にも考察していますが5世紀前半に巨大古墳のピークがあり、5世紀後半まで続くものの6世紀にはパタッとなくなります。これは5世紀の末ぐらいに巨大古墳を作っている余裕が失われたぐらいの理由を誰でも考えるのですが、継体の登場と微妙にずれる気がしないでもありません。継体の登場の前から巨大古墳の築造熱が低下していたぐらいを思ってます。ただこれ以上はどうしようもないので、次のポイントである雄略を次回は考えてみたいと思います。