重箱ですが、名前の表記には、
- 伊余部馬養(続日本紀)
- 伊余部馬飼(日本書紀)
- 伊預部馬養(丹後国風土記逸文)
- 伊与部馬養(懐風藻)
wikipediaには生没年不詳となっていますが懐風藻には、
皇太子學士從五位下伊與部馬養一首 年四十五
『年四十五』っていつのことを指すかですが、享年となっています。わかる範囲で他の人を確認したらそれで良さそうです。今とは感覚が違うでしょうが、もうちょっと老人のイメージを勝手に抱いていたのですが意外でした。
没年については続日本紀の701年のところに
遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。
この年は大宝律令が公布されています。この時点では馬養は生きていると見れますが、703年のところには、
從四位下下毛野朝臣古麻呂等四人。預定律令。宜議功賞。於是。古麻呂及從五位下伊吉連博徳。並賜田十町封五十戸。贈正五位上調忌寸老人之男。田十町封百戸。從五位下伊余部連馬養之男。田六町封百戸。其封戸止身。田傳一世。
『從五位下伊余部連馬養之男』となっており、息子が馬養に変わって褒美を授けられています。そうなると馬養は702年か703年に死亡したと推測可能です。これ以上はわからないので702年とします。そうなると馬養の生まれたのは658年になります。
懐風藻に皇太子学士の肩書がありますがwikipediaより、
皇太子の学友的存在の家庭教師で儒教を教える。同様の官に親王の家司である文学(ふみはかせ)がある。定員二名で官位は従五位下相当。儒学者より任命されることが多く天皇即位後は側近として活躍する例もあった。
ここで問題は誰の皇太子学士であったかです。候補は二人で
- 草壁皇子・・・679年立太子(19歳)、馬養22歳
- 軽皇子・・・・・689年立太子(6歳)、馬養32歳
別に兼務しても良いと思いますが、文武天皇の即位は697年なのです。皇太子学士の職業柄、都に常駐してるんじゃないかと考えるのが素直そうです。そりゃ定員2名ですから、地方官とかになって留守するのは拙いだろうぐらいです。
馬養が丹波の国宰であったのは丹後国風土記逸文から、
是舊宰伊預部馬養連所記無相乖
これでわかるのですが、wikipediaより、
『日本書紀』には、大化の改新時の改新の詔において、穂積咋が東国国司に任じられるなど、国司を置いたことが記録されている。このとき、全国一律に国司が設置されたとは考えられておらず、また当初は国宰(くにのみこともち)という呼称が用いられたと言われており、国宰の上には数ヶ国を統括する大宰(おほ みこともち)が設置されたという(「大宰府」の語はその名残だと言われている)。その後7世紀末までに令制国の制度が確立し、それに伴って国司が全国的に配置されるようになったとされている。
微妙な書き方で困るのですが七世紀末とはまさに馬養の時代で、大宝律令制定前から実体として国司制度が整えられていったぐらいとみたいところです。丹波は都からも比較的近く上国ですから、律令制下での国司に近い職務で馬養は赴任した可能性はあります。遥任の可能性も考えたのですが、これまたwikipediaより、
遥任は奈良期の頃から行われていたが、ごく稀であった。奈良期はまだ、律令制による統治が有効に機能しており、律令制に基づく支配を地方まで貫徹するため、国司が任地へ赴き、現地支配を行う必要があったためである
これはそうだと思います。この国司の任期ですが706年までは6年であったともなっています。この辺は短縮は可能でしょうが、馬養の年表を作ると、どこで丹波国宰をやったかで少々悩みます。
軽皇子の皇太子学士をやっていたのなら、丹波国宰は文武天皇即位後が、立太子以前が妥当ですが、立太子以前なら馬養が20代半ばから30歳ぐらいになってしまいます。う~ん、てなところです。
ここで馬養が草壁皇子の皇太子学士であって、草壁皇子が亡くなった後に皇太子学士から撰善言司に任じられたと見るのはどうかと考えています。それなら30代の半ばぐらいに丹波国宰時代があったと出来るからです。
これがもっと厄介で大宝律令の選定のスタートは681年なのですが、馬養はどこから関わっていたかです。ここもなんですが、681年にスタートした律令の選定はとりあえず689年の飛鳥浄御原令公布で一段落したと見るのも可能です。
ここも推測ですが681年は馬養が24歳です。草壁皇子の皇太子学士と兼任しながら飛鳥浄御原令制定に従事していたはあっても良さそうなシチュエーションです。その才能に対し撰善言司に任じられ、さらに御褒美に丹波国宰になったぐらいの流れです。
馬養が最終的に大宝律令選定に関わったのは続日本紀からも明らかですが、丹波国宰の任期が終わってから再び従事したぐらいなら、そんなに無理が無くなる気がします。ここで年表を出しておきます。
馬養年齢 | 西暦 | 馬養記録 | 参考 |
22 | 679 | * | 草壁皇子立太子 |
23 | 680 | * | * |
24 | 681 | * | 大宝律令選定・日本書紀編纂始まる |
25 | 682 | * | * |
26 | 683 | * | * |
27 | 684 | * | * |
28 | 685 | * | * |
29 | 686 | * | * |
30 | 687 | * | * |
31 | 688 | * | * |
32 | 689 | 撰善言司になる | 飛鳥浄御原令出る、軽皇子立太子 |
33 | 690 | * | * |
34 | 691 | * | * |
35 | 692 | * | * |
36 | 693 | * | * |
37 | 694 | * | * |
38 | 695 | * | * |
39 | 696 | * | * |
40 | 697 | * | 文武天皇即位 |
41 | 698 | * | * |
42 | 699 | * | * |
43 | 700 | * | * |
44 | 701 | * | 大宝律令発布 |
45 | 702 | 死去 | * |
馬養の原本は失われていますが、一番正確に引用したのはやはり日本書紀の気がします。そこには浦島失踪時期を、
廿二年春正月己酉朔、以白髮皇子爲皇太子。秋七月、丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬莱山、歴覩仙衆、語在別卷
雄略天皇22年7月と妙に具体的に描写しています。雄略天皇22年は武寧王墓誌から計算すると479年になり、馬養の活躍した時代のおおよそ200年前になります。何が言いたいかですが、馬養は自分の生きている時代の200年ぐらい前が雄略天皇の時代であると知っていたのじゃないかと言う事です。
例の竜宮城での3年が実は300年であったの最古の記録は丹後国風土記逸文の、
古老等郷人答曰。先世有水江浦嶼子。独遊蒼海。復不還來。今経三百餘歳者。
ですが、これとて逸文であり馬養の原本がそうであったかどうかは不明です。ここの三百年にこだわると淳和天皇時代の浦島出現話になってしまうのですが、馬養は浦島が出現したところまで本にしています。これは万葉集の高橋虫麻呂の歌でも確認できます。
正統派の研究では前提が『作り話』ないし丹後の『民間伝承』にしていますが、浦島失踪時期と出現時期を考えると、馬養は帰って来た浦島に実際に会った、ないしは浦島が死んでいたにしても、非常に近い時代であったと思えてなりません。
まず一介の漁民であったとは考えられません。一介の漁民が漁に出て行方不明になったぐらいじゃ、すぐに忘れられます。ましてや200年なり300年後に、
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「帰って来ました」
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「あんた誰?」
-
失踪時に伝承として残るほどインパクトがあった
えらく現実的な話になりますが、丹後出身の豪族の息子なりが都で出世して海外使節の随員に選ばれたものの、遭難して行方不明にまずなった。死んでいると思っていたらヒョッコリ帰って来た。そのプロットから馬養が話をパンパンに膨らませたか、浦島が大ぼらを吹きまくったかぐらいはありそうな気がします。
歴史ムック的には馬養と浦島が実際に会ったとするのは楽しいのですが、もうちょっと現実的に考えてみます。浦島伝説の骨格は、
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行方不明になり死んだと思われていた男が、何十年ぶりかにヒョッコリ帰って来た
馬養は丹波国宰ですが、同時に撰善言司としてこのネタを膨らませて浦島話を作り上げたんじゃないかと考えています。であれば相当な創作力があったと言えます。個人的には浦島が実在して馬養と会ったとする方がロマンがありますが、現実はこの辺の気がします。