記紀の原資料の確認

長い間、あくまでも日曜閑話の膨らませ部分としてタイトルを付けていましたが、枝番が増えすぎて煩雑になるのでやめます。自分で後から読み直すのも不便なものでハイ。今日は記紀の原資料はどんなものだったかを確認してみます。


天皇記と国記

wikipedia

乙巳の変中大兄皇子天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ「国記」は難を逃れ中大兄皇子天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。

ここに出てくる天皇記と国記がいつ書かれたかですが推古紀の推古28年(620年)に記載されています。

是歳、皇太子・嶋大臣共議之、録天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

内容は失われているので確認しようがないのですが、名前からし

  • 天皇記・・・歴代天皇の事績を書いたもの
  • 国記・・・国々の様子を書いたもの
こうじゃないかの説があります。乙巳の変で難を逃れたとされる国記も全部がそろってなく焼失した部分もあるとはされますが、そもそも写本すら残っていないので、これらが書紀にどれだけ反映されているかは不明です。書紀でしばしば出てくる「或本曰」として引用されているかもしれませんが確かめようがないと言うところです。


こっちは天皇記や国記よりも曖昧模糊としています。とりあえずwikipediaより、

681年(天武天皇10年)より天智天皇2子の川島皇子忍壁皇子が勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。『旧辞』と共に天武天皇稗田阿礼に暗誦させたといい、のちに記紀の基本史料となったという。

ここら辺の解釈が百花撩乱状態なのですが、帝紀旧辞の基になる資料があり、それを編纂したのが天智の時代ぐらいに解釈して良さそうです。その基になる資料も文献であったのか、語り部による伝承も含むのかは今となっては不明です。これもwikipediaからですが、
また『帝紀』は一般に、

などと同じものであると考えられている。

これを読んだ時に正倉院帝紀が現存しているのか喜んだのですが、調べてみると正倉院文書に存在している記録があったに過ぎないようです。つまりは現物はないと言う事です。ただなんですが正倉院文書の日本帝紀の枚数は出ていて19枚となっています。量としてはさほど多くはないとの見方があります。もっともこれとて全部かどうかは藪の中です。ただ、もしこれから見つかったとしても、その程度の分量しか出て来ないと思われます。


お手軽にwikipediaより、

7世紀頃に成立したと推定される日本の歴史書。『日本書紀』や『古事記』よりも成立が古い。鎌倉時代後期まで伝存していたが、その後は散逸し、『釈日本紀』・『聖徳太子平氏伝雑勘文』に逸文を残すのみである

う〜ん、鎌倉期まで残っていたとは少々惜しいお話です。どっかからポコッと出て来ないかと思ったりします。この上宮記ですが名前の通り厩戸皇子を始祖とする上宮王家に由来する歴史書で良いと思います。残されている逸文にも聖徳太子関連の記述が多くなっています。この上宮記記紀の参考資料に使われたかどうかは微妙と思っています。記紀編纂の時に使われた資料は上記した天皇記、国記、帝紀旧辞以外にも上宮記の様な氏族で保持されていた家伝みたいなものも蒐集されたと考えられています。そうやって記紀編纂のために集められた参考資料は悉く散逸と言うより処分されれています。その中で鎌倉期まで残っていたのなら「使われなかった」可能性があるぐらいの見方です。

ではいつ書かれたかですが、これが考えると結構微妙です。上宮王家の滅亡は皇極2年(643年)です。この時は斑鳩宮で一族自害となっていますが、斑鳩宮も炎上しています。斑鳩宮の炎上は法隆寺再建論争としてありましたが、若草伽藍の発見によりほぼ決着していると私は解釈しています。上宮記と言っても何部もあったと考えるのは無理があり、下手したら1部です。上宮王家滅亡前に完成していたら、山背大兄皇子が自害した時に一緒に燃えた可能性が高くなります。

オリジナルは燃えたとしても写本が残っていた可能性はどうかです。たとえば厩戸・馬子が天皇記・国記を編纂した時に厩戸なり山背大兄皇子が上宮記も書いていたとします。その時に大王の書庫なり、親族でもある蘇我宗家に献じられていた可能性です。四天王寺あたりも候補になります。それでも大王書庫と蘇我宗家の書庫は皇極3年(644年)の乙巳の変で燃え尽きています。それとこの場合は上宮記の成立は舒明即位前になります。舒明即位の時に山背大兄皇子は蝦夷と対立関係になっているからです。上宮王家側の蘇我氏境部摩理勢だからです。蝦夷に献上するとは考えにくいところです。

個人的には上宮王家滅亡前に遡るのではなく、逆に下る可能性の方が高い気がしています。捻って考えれば書紀編纂に先だって聖徳太子伝説を作るために編纂された可能性ですが、状況証拠は蘇我大王ロマンしかないのが苦しいところです。ただ上宮王家滅亡の前か後かで、資料的価値はかなり変わります。滅亡前なら天皇記や国記も参考資料にする事は可能です。滅亡後ならそれは無理になります。まあ価値をここで云々したところで上宮記自体が失われてしまっているのですから詮無いところです。


感想

古代は貴族制ですし、婚姻政策による氏族間の合従連衡も盛んであったのは間違いないでしょう。貴族とは出自と血が重視されますから、自分が誰であるかの伝承は行われていたと思っています。これを文字として記録したものもあったはずです。後漢書倭国伝にある57年と107年の倭からの使節も国書を書いていたのは確実と思っています。いわゆる大王家にも同様と思っています。でもってこれをもっと整理した物にしようと考えたのが厩戸皇子と馬子だったと見て良さそうな気がします。天皇記と国記です。

天皇記が本当に燃え尽きたのか、国記が実は生き残っていたのかは今となっては不明ですが、蘇我氏の作った日本史を訂正しようとしたのが天智であった気がします。考えれば自然な発想で、自分がクーデターで倒した相手の日本史は政治的にも都合が宜しくないぐらいでしょうか。ただ天智の事業も中途半端に終わった感触があります。天武がこれを引き継いだ様にも書いてありますが、天武にしてもクーデター政権ですから、天智の路線のままでの編纂は修正されたはずです。この辺が帝紀とか旧辞の性質のような気がしています。

馬子がまず完成し、天智や天武が手を加えた日本史をもっと完成度の高いものにしようとしたのが記紀の編纂事業であったと見て良さそうです。個人的に残っていて欲しかったのは天皇記と国記です。だって推古紀の

臣連伴造國造百八十部幷公民等本記

これをどう読み下すか苦慮しているのですが「臣、連、伴、造、国造が百八十部、並に公民等本記あり」ぐらいでしょうか。結構なボリュームがあった感触があるからです。蘇我氏の邸宅跡から木簡でもゴソっと出土しないか密かに期待しています。ただなんですが、これも漠然たる感想ですが今日上げた種々の資料にしてもさほどのボリュームはなかった気がしています。後世の家系図の簡易版みたいな程度で、生没年と簡単な事歴が書いてある程度のものです。これを壮大な物語に紡ぎあげたのが古事記で、歴史書として読むに耐えうるものにしたのが書紀の気がします。