日曜閑話78

私の古代史の知識整理は典型的な泥縄式なのは御容赦下さい。目的は蘇我大王ロマンを追っているのに肝腎の蘇我氏のムックが不十分でした。今日はそれに取り組んでみます。


とりあえずwikipediaにあった蘇我氏系図を引用します。

稲目の父となっている馬背ですが通説では高麗です。ただこれを馬背とする説もあるようです。そう言えば入鹿の別名は鞍作ですし馬子もいますから、なにか馬に拘る氏族なのかもしれません。この高麗(馬背)も記紀には一切記述がない人物で系図にのみ載っている人物です。そのために稲目に兄弟がいたかどうかも不明です。稲目の子も問題でwikipediaには

蘇我馬子ら4男3女の父。娘3人を天皇に嫁がせた

3女のうち2人は有名で欽明天皇に嫁いだ堅塩媛と小姉君で良いはずです。もう1人は誰かになります。これがなかなかわからなかったのですが、どうも用明天皇に嫁いだ穴穂部間人皇女を指すようです。えってところで通説では穴穂部間人皇女欽明天皇と小姉君の娘のはずなんですが、一説では稲目の娘の石寸名ともなっているんだそうです。どうも伝承の混乱があるようです。

4男も特定が大変で馬子は確定ですが後の3人は誰だになります。記紀には境部摩理勢と言う人物が登場します。この人物は舒明紀では推古後の継承会議で山背大兄皇子を推し、田村皇子を推した蝦夷と激しく対立したとなっており後に蝦夷に攻め殺されます。摩理勢は上宮王家の後見人的な立場にあったとされますが、通説では馬子の兄弟とされており多くの蘇我氏系図ではそうなっています。ところが馬子の兄弟ではない説もあります。稲目の兄弟だった系図もあるようです。ただややこしいのはその系図では稲目の兄弟にも摩理勢がおり、馬子の兄弟にも摩理勢がいます。ここも伝承の混乱があるようですが、とりあえず摩理勢は馬子の兄弟にしておきます。

これで2人ですが後の2人は系図上だけのお話になるようです。wikipediaが採用している説はおそらく小祚、田中刀名を加えての4人と思われますが、系図によっては他の名前と言うか漠然とした表現で小治田臣の祖、久米臣の祖、桜井臣の祖、○口臣の祖(不鮮明で読めませんでした)、田中臣の祖って書き方がされています。田中臣の祖が田中刀名じゃないかは誰でも思いつきますが、この辺は稲目の勢力拡張が大王家だけでなく中小豪族にも及んでいたぐらいに理解する事にします。

それと調べていてなんとなく気になったのは稲目の父の兄弟(高麗の兄弟)が高向氏の祖になるとの系図もありました。まあそんな説もあるぐらいでこの辺は良いのかもしれません。


馬子が稲目の後の蘇我宗家を継いだのは争いのないところでしょうが、兄弟の摩理勢もそれなりの権勢はあったんだろうぐらいで良さそうです。またそれ以外の兄弟についてはもう不明の世界になります。さて馬子の子ですがwikipediaには、

子に蘇我善徳、蘇我倉麻呂蘇我蝦夷

娘は河上娘(崇峻天皇妃)、刀自古朗女(厩戸皇子妃)、法堤朗女(舒明天皇妃)の3人のようです。個人的に善徳って名は初めて聞いたのですがwikipediaに、

飛鳥時代の豪族。蘇我馬子の長男。子に、志慈(御炊朝臣の祖)、果安がいたとする文献がある。飛鳥寺法興寺)の初代寺司(てらのつかさ、司長)。

実在の証拠は推古紀にあるようで

推古四年冬十一月 法興寺造竟 則以大臣男善徳臣拝寺司 是日恵慈 恵聡二僧 始住於法興寺

一説には聖徳太子のモデルじゃないかの説もあるようですが、とりあえず政治の舞台には出て来なかったので「居た」と言うだけにしておきます。


蘇我倉山田石川麻呂

馬子の次が蝦夷の時代になるのですが、蘇我氏の系譜を調べ直しても、蝦夷が馬子の跡を継いだ時点で他の蘇我氏の有力者は、

  1. 叔父の摩理勢
  2. 兄弟の倉麻呂
摩理勢も倉麻呂も推古後の継承会議に出席するぐらいですから、蘇我分家を確立していたんだろうぐらいに思います。ただ蝦夷の時代に摩理勢は殺され、摩理勢家もこの時に実質的に滅んだぐらいで良いかと思います。そうなると残るのは倉麻呂家だけが残る事になります。倉麻呂の子どもは倉山田石川麻呂、日向、連子、赤兄、果安となります(異説もあるのですがこれが通説です)。娘については不明です。ここで摩理勢の本拠地はwikipediaより、

軽の境部(現在の橿原市)に居住したために境部臣と呼ばれた。

そう言えば記紀にやたらと「軽」がついた皇子や王の名前がありますが、橿原市と言うか畝傍山あたりの地域の事を指す地名と理解しても良さそうです。では倉麻呂がどこを本拠地にしていたかですが、これがサッパリわからないんです。わからないなら推測するしかありません。ヒントは倉麻呂の跡を継いだ倉山田石川麻呂にあると見ます。倉山田石川麻呂は山田寺を建立を発願したのは間違いないようです。山田寺の創建はwikipediaより、

山田寺の創建については『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく書かれており、山田寺について語る際には必ずと言ってよいほどこの史料が引用される。同裏書によれば、舒明天皇13年(641年)「始平地」とあり、この年に整地工事を始めて、2年後の皇極天皇2年(643年)には金堂の建立が始まる。

舒明13年は、この年に舒明が亡くなります。倉麻呂も生没年不詳の人物ですが、舒明13年までに亡くなり、その後を倉山田石川麻呂が継いでいたぐらいは推測できます。それと山田寺は倉山田石川麻呂の私寺と見て良さそうです。そうならば倉麻呂が馬子からもらった領地は山田にあったと考えて良いでしょう。倉山田石川麻呂が書紀に登場するのは皇極紀からですがそこには、

  • 倉山田麻呂臣、進而讀唱三韓表文
  • 倉山田麻呂臣、恐唱表文將盡而子麻呂等不來、流汗浹身、亂聲動手
  • 山田麻呂對曰、恐近天皇、不覺流汗

念のためにソートしてみましたが倉山田麻呂、山田麻呂はあっても石川麻呂は1ヵ所も出て来ません。どうも乙巳の変以前は倉山田麻呂と呼ばれ「石川」は付いていなかったと見れそうです。これは倉山田石川麻呂が山田に住んでいた、もしくは山田寺を建立しているところから倉山田麻呂ないし山田麻呂と呼ばれていたと考えて良さそうです。ところが孝徳紀になると倉山田石川麻呂ないし石川麻呂に変わります。孝徳紀にも山田大臣、山田麻呂の表現が倉山田石川麻呂が山田寺で自殺した個所で出てきますが、とにかく「石川」が出てくるのは孝徳紀からです。これは乙巳の変の功績により石川の地が与えられただけでなく、本拠地を石川に替えたためとみます。

蘇我倉麻呂家も乙巳の変後は大変な状態になります。簡単にまとめておくと、

  1. 倉山田石川麻呂は日向に讒訴され山田寺で自殺
  2. 日向は筑紫宰になったとされるが、以後の子孫については不明
  3. 赤兄は天智に附いたが壬申の乱で殺される
  4. 果安も壬申の乱の時に死亡
結局無事生き残ったのは連子になります。連子も天智時代に亡くなっているようですが、連子の孫の時代から石川氏を名乗るようになります。蘇我系石川氏は連綿と残る事になりますが、氏からして倉山田石川麻呂以来の石川を本拠地にしていたと考えて良い気がします。では石川とはどこになるかです。皇極紀にこんな記載があります。

五月乙卯朔己未、於河內國依網屯倉前、召翹岐等、令觀射獵。庚午、百濟國調使船與吉士船、倶泊于難波津。(蓋吉士前奉使於百濟乎)。壬申、百濟使人進調。吉士服命。乙亥、翹岐從者一人死去。丙子、翹岐兒死去。是時、翹岐與妻、畏忌兒死、果不臨喪。凡百濟・新羅風俗、有死亡者、雖父母兄弟夫婦姉妹、永不自看。以此而觀、無慈之甚、豈別禽獸。丁丑、熟稻始見。戊寅、翹岐將其妻子、移於百濟大井家。乃遣人葬兒於石川。六月乙酉朔庚子、微雨。是月、大旱。

すんごく読みにくいのですが、皇極元年の5月に河内に行幸したぐらいの内容で良さそうです。色々と出来事があるのですが、

    乃遣人葬兒於石川
「及び人を遣わして兒を石川に葬る」ぐらいに読むのでしょうか。石川は河内のどこかと解釈して良さそうです。河内と蘇我氏の関わりですが、はっきりしているのは丁未の乱です。これは馬子が守屋を滅ぼした一戦ですが、その後の物部氏への戦後処分はwikipediaより、

物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。

とりあえず旧物部領の半分は馬子が取ったとなっています。これが石川の地の気がします。乙巳の変蘇我宗家は滅んだ訳ですが、その蘇我宗家領のうち河内分を倉山田石川麻呂がもらった可能性です。簡単にまとめると、

  1. 倉山田石川麻呂の父の倉麻呂は馬子から山田の地を与えられ分家を作った
  2. 倉山田石川麻呂は乙巳の変までは在所もしくは山田寺建立に関連して「倉山田麻呂」ないしは「山田麻呂」と呼ばれた
  3. 乙巳の変の後、褒美として石川の地(物部氏の旧領かな?)を与えられ倉山田石川麻呂または石川麻呂と呼ばれるようになった
  4. 倉山田石川麻呂殺害後も蘇我連子の子孫は石川に住みやがて石川氏となった
これぐらいの理解で良い気がします。もうちょっとダイレクトに石川とは大阪のどこかに当たると書いてある資料をどこかで見たのですが、アハハハ見つけられませんでした。