日曜閑話78-2

私の古代史の知識整理は典型的な泥縄式なのは御容赦下さい。今日は古代地理です。


河内湖

漠然と知ってましたが、この際ですから出来るだけムックしてみたいと思います。まずは一番信用できそうな国土地理院 時報 2000 No.94「近畿地方の古地理に関する調査」からです。河内湾から河内湖、さらには大阪平野への変遷をシミュレートしてくれています。図を引用します。

河内湖研究の時によく引用されてるんじゃないかと見ています。縄文期の地図がまず注目されますが、河内湾を形成するように突き出している半島と言うか岬みたいなところが上町台地になります。この河内湾に淀川、大和川が注ぎ込んでいます。この2つの河川から大量の土砂が流れ込み河内湾は埋め立てられて行ったぐらいが基本的な構図と見て良さそうです。国土地理院の論文では縄文から平安まで飛んでいるので、もう少し中間の推測図が欲しいところです。そこで古代であそぼ様の地図を引用させて頂きます。
上町台地の北側に砂嘴が形成され河内湾から河内湖に変わった様子が良くわかります。それとこの図を引用したのは古代からの神社の位置をプロットしてくれてまして、いろいろ想像を膨らませてくれるのが秀逸と思っています。河内湾は海水だったのですが、河内湖に変わる段階で汽水からさらに淡水に変わっていったと推測されています。もう1枚ですが近畿地方の古墳巡り様から地図を引用します。
河内湖周辺の高地の様子がわかります。南側を注目したいのですが、羽曳野丘陵と狭山丘陵があるのがわかります。羽曳野丘陵の北側に古市古墳群があり、狭山丘陵から上町台地に続く一帯に百舌鳥古墳群が位置します。狭山池の神話時代の改修の話と合わせると、最初の河内開発は羽曳野丘陵と狭山丘陵の間の農地開発だった気がしています。これまで百舌鳥古墳群古市古墳群を作っていた集団は別と考えていましたが、ひょっとすると同じだった可能性もある気がしてきました。二つの古墳群の間に集団は住み、その左右と言うか東西に古墳を作ったんじゃなかろうかです。

もう一つですが河内湖の北側です。こちらはあんまり開発の手がついていない気がします。こちらも淀川からの堆積物が埋め立てを行っているのですが、古代史的にはあんまり出て来ません。出てくるのは南側ばかりです。地形的に稲作に向いていなかったのか、淀川の氾濫の方が凄まじくて手が付けられなかったかぐらいが考えれますが「さて」と言ったところです。もう少しだけ考えると、古代の大和川は河内に入ると細分化されています。現在の様に大和川1本でストンてな形態になっていません。古代の治水技術では、それぐらいの方が御しやすかったのかもしれません。そういう川の間に農地が広がる様子を川内と呼び、河内の語源になったのだろうぐらいは想像できるところです。


奈良湖

国土地理院の地図をもう一度見て頂きたいのですが、縄文期の地図では河内湾も確認できますが、大和側にも大きな湖の形成が確認できます。大和川奈良盆地に流れ込んだ水が一つに集まって形成されるのですが、大和から河内にサラッと流れてくれていた訳でなく、一旦湖を形成してから流れていた様子が確認できます。神奈備にようこそ! 様の奈良湖の推測図を引用します。

なかなか良く出来ていて嬉しいのですが、とりあえず注目したいのは唐古・鍵遺跡の位置です。地形的に湿地帯に位置しているぐらいに受け取れます。一方で3世紀にはこの辺りまで、農地開発は可能な状態であったと見て良さそうです。唐古・鍵遺跡から南北に遺跡が広がっていますが、この辺が奈良湖との境だったのかもしれません。当時の技術で開拓可能範囲と言い換えても良いかもしれません。また大和三山も意味があって、ちょうどその辺りが奈良湖との境ぐらいであったと見て良さそうです。奈良湖を見下ろせるビューポイントとしても良いかもしれません。

これも段々と堆積物が増えて奈良湖が浅くなり、縮小していったんだろうと思います。それが上つ道、中つ道、下つ道が建設可能になったぐらいの見方です。ただ奈良湖と河内湖はちょっと様相が違ったかもしれません。つうのも大和・柳本古墳群は唐古・鍵遺跡と関連していると見て良いと考えています。これが3世紀から4世紀半ばまで作られていたとなっています。その後に4世紀末から佐紀盾列・馬見古墳群が作られ始めます。なぜにそうなったかは古代史の謎なんですが、ひょっとしたら奈良湖が浅くなったために、かえって水害の影響が強くなったんじゃなかろうかです。

そのために北に向かった連中が佐紀盾列古墳群を作り、南に向かった連中が馬見古墳群を作ったぐらいの想像です。ついでを言えば河内に進出した連中が古市・百舌鳥古墳群を作ったぐらいです。大和・柳本古墳群衰退から他の4大古墳群が作られるまで若干のタイムラグがありますが、これは新たな開拓地で古墳が作れるようになるまでの期間じゃなかろうかです。ほいじゃ、何故に大和・柳本古墳群が先行したかですが、これも漠然たる印象ですが、古代人の技術的に河内開発はまだ手強かった可能性を考えます。河内湖ないし河内湾沿岸より、奈良湖周辺の方が手が付けやすかったからぐらいです。それが技術蓄積で河内も開発可能になった、もしくは河内も開発できる状況に変化したぐらいです。