壬申の乱戦記 その1

天武紀は読みにくくて悪戦苦闘中なのですが、壬申の乱を戦記としてとらえて読んでいきます。


天智崩御

天武紀より、

四年冬十月庚辰、天皇、臥病以痛之甚矣。於是、遣蘇賀臣安麻侶、召東宮引入大殿。時安摩侶、素東宮所好、密顧東宮曰、有意而言矣。東宮、於茲疑有隱謀而愼之。天皇東宮授鴻業、乃辭讓之曰「臣之不幸元有多病、何能保社稷。願陛下舉天下附皇后、仍立大友皇子宜爲儲君。臣今日出家、爲陛下欲修功紱。」天皇聽之。即日出家法服。因以、收私兵器悉納於司。

壬午、入吉野宮。時、左大臣蘇賀赤兄臣・右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等、送之、自菟道返焉。或曰、虎着翼放之。是夕、御嶋宮

重体になった天智は天武を呼び大王位を譲ると言いましたが、蘇我安麻呂の助言を聞いた天武はこれを断り、皇后(倭姫王)を大王とし、大友皇子を皇太子にするように進言。でもって天武自身は出家すると天智に答えます。天智はこれを聴可します。天武は直ちに出家し、武器を公庫に納めます。ここは天武が大王位を受けると言えば謀殺する予定であったと言われますが、どんなものだろうとは思っています。

だってこれなら、もし天武が天智の申し出を受け入れれば、次に打つ手がなくなります。古代と言えども政敵を排除するのに大義名分が必要なはずです。ですから本当は少し内容が違った気がしています。天智は天武を排除したい訳ですから、そうですねぇ、天智が天武に要請したのは、

    「後継は皇后の倭姫王を立て、大友皇子を皇太子にする。それを助けて摂政となってくれ」
これなら地雷原満載です。下手に受ければ「大王位になれずに不満を抱いている」の口実があっと言う間に出来上がります。天武が摂政だけ断っても同様です。天武が近江京に居る限り「不満を抱いている」の口実はいつでも付けられる事になります。近江京は天智のホームグラウンドであり、天武が近江京で率いる兵力だけでは勝敗は目に見えていたと考えています。この天智の罠を交わすために、摂政を辞退するだけでなく政界から引退し出家遁世する奇策を使ったんじゃないかと見ています。それでも天智は甘い気がします。本当に天武を排除したかったのならもっと元気なうちに謀略を遂行すべきじゃなかったろうかです。これについて扶桑略記に興味深い記述があります。

一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。永交山林,不知崩所。(只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。)

天智が病気であると言うのは仮病であったの説のタネ本部分です。天智が死病の床でなく元気であれば、とりあえず天武が出家遁世して表舞台から去ってもらえば謀略として成功の見方です。そこから「謀反」の口実を設けて攻め殺す算段ではなかったかです。天武にしたら絶対の罠の中にいるようなもので、

  1. 天智の要請を受ければ近江で謀殺
  2. 史実の様に出家遁世すれば後日謀殺
天智は第1段階で早期にケリをつける予定であったのが、天武の意外な返答に第2段階の謀略に進まざるを得なかったぐらいでしょうか。天武にしても第1段階の謀略は交わしたものの、第2段階も常套手段として必至ですから対策に余念がなかったぐらいです。もう少し言えば、第1段階の天智の謀略を交わした時点から天武の第2段階への反撃が始まり、第2段階は天武が先手を取ったぐらいに見る方が良い気がします。ここで扶桑略記に書いてある様な陰謀が成立する余地が本当にあるかどうかをカレンダーから見てみます。
事柄 事柄 事柄 事柄
10 17 天智、天武を病床に呼ぶ 10 29 * 11 12 * 11 24 *
18 * 30 * 13 * 25 *
19 天武、吉野入り 11 1 * 14 * 26 *
20 * 2 * 15 * 27 *
21 * 3 * 16 * 28 *
22 * 4 * 17 * 29 *
23 * 5 * 18 * 30 *
24 * 6 * 19 * 12 1 *
25 * 7 * 20 * 2 *
26 * 8 * 21 * 3 天智崩御
27 * 9 * 22 * 4 *
28 * 10 * 23 * 5 *
日干支もまた厄介至極なんですが、たぶん合っています。重病の天智が天武を病床に呼んだ日が10/17、そして天武が吉野に到着したのが10/19。要するに天智が天武を呼んで崩御するまで45日間です。人間の寿命なんてわかりませんから、「もうダメ」と思ってから1か月半ぐらい長持ちしても不思議とは思いませんが、大王が後継指名をする程の重体だった訳ですからチト長い気もします。少なくとも仮病説が成立するぐらいの日数はあります。もう一つ傍証が天武紀にあります。

是月、朴井連雄君、奏天皇曰「臣、以有私事、獨至美濃。時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」

これは天武に朴井連雄君が近江朝側の天武討伐の動きを報告するものですが、良く読むと天智の陵の造営を行う話が出ています。そう、大王である天智の陵を死後に作ると言う話です。大王陵をいつ作るかは大王の意思及び崩御形態に依るでしょうが、天智の生前には作られていなかった可能性を示唆するとも読めます。つまりは天智はまだ大王陵を作るには早すぎるの意思があったともとれます。そう天智の死は不慮の死であった可能性です。天智陵の御廟野古墳の存在場所もある意味奇妙であり、京都の山科にあります。近江に無く何故か山科にあります。

その他の状況証拠としては壬申の乱そのものがあります。この乱は別に近江朝側が天武征伐の軍勢を起こした訳ではありません。近江朝側にしても実力者の天武を警戒はしていたとは思いますが、後継者の大友皇子は積極的なアクションを起こしていた形跡は書紀にも殆ど見当たりません。強いてい言えば上記した天武紀の朴井連雄君の伝聞情報のみです。本気で天武征伐を近江朝側が企画していたのならむしろ先手を打っていた事になります。しかし歴史は知っての通りで、壬申の乱では近江朝側は後手後手に回る結果になります。


私の見解

別にこれで歴史が変わる訳ではありませんが、とにかく天智に取って天武は巨大すぎる目の上のタンコブであったのだけは間違いないと見ています。下手に排除しようとすれば壬申の乱が起こる危険な存在と言うところです。とは言え天智に取って近江朝を安定させるには天武の協力が不可欠であったとも見ています。一種の呉越同舟関係です。近江で勢力を養った天智が本気で天武排除を行おうとしたのが10/17に天武を天智が呼んだ時だったと見ます。巨大な実力者を排除するには大義名分が必要で一番使いやすいのは

    謀反!
この手で天智は蘇我倉山田石川麻呂、有間皇子を葬っています。問題はどうやって天武を謀反人に仕立て上げるかです。それには私が推理したぐらいの要請を天武にするのが一番効果的です。どう天武が答えても
    天武は不満を抱いている
こういう状況を作り出せるからです。ところが天武は出家遁世の奇策を行使します。そうされると天智は表だって天武を謀反人にしにくくなります。おそらく天智の次の手は、放っておいても天武を支持する人間が吉野に集まるだろうから、誰かを使って「天武謀反」の密告をさせて討伐してしまおうじゃなかったかと見ています。天智は近江から天武の動きを見ていたと考えています。そうやって考えると朴井連雄君の天武への報告もあながち伝聞とは言い切れなくなります。

天武が吉野に逃げた後、天武征伐のための軍勢の結集を天智は既に着手していた可能性です。大王の陵を作るための人足を集めるのは何の不思議もありません。もちろん生前に作るのも当たり前ですし、病が篤い前提ですから工事のピッチを上げるために人数を増やすのも不自然とは言えません。十分に人数が集まった時点で「謀反」を口実に近江から一挙に南下し吉野を粉砕する計画を着々と進めていた可能性は十分にあります。なんと言っても天武は強敵ですから、大軍を催す必要があり、そのための軍備・兵糧の準備に数か月が必要ぐらいだったかもしれません。

天武にすれば最初の謀略を奇策で逃れたものの、次の天智の謀略を交わす対抗策がなかったと見ます。大王が大軍で粛々と吉野押し寄せられては勝負にならないです。そこで再び奇策を用います。天智謀殺です。近江朝に天智が大王として健在な限り、正面から戦えば天武は不利です。そこで大王である天智を謀殺する事によって時間を稼ぎ対抗策を行おうです。近江朝の後継者は大友皇子です。この人物も愚者ではなかったようですが、父の天智の様に修羅場に次ぐ修羅場を潜り抜けた猛者ではありません。良い意味の坊ちゃん育ちですから、天智に較べれば遥かに甘いの計算です。


ちょっとオマケ

天武が天智に呼ばれ出家遁世を表明したのが10/17。天智紀には、

庚辰、天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥內、詔曰、朕疾甚、以後事屬汝、云々。於是、再拜稱疾固辭、不受曰「請奉洪業付屬大后・令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家修道。」天皇許焉。東宮起而再拜、便向於内裏佛殿之南、踞坐胡床、剃除鬢髮、爲沙門。於是、天皇遣次田生磐、送袈裟。壬午、東宮天皇請之吉野修行佛道、天皇許焉。東宮、即入於吉野。大臣等侍送、至菟道而還。

天智の要請を断ってすぐに髪を剃っています。でもって10/19には吉野に到着しています。ちなみに「大臣等侍送、至菟道而還」の菟道とは宇治ぐらいを指すようです。10/17の天智との会談の当日に吉野に出発したのか、翌日なのかは不明ですが、大臣が近江から宇治まで見送りに行っているところを見ると10/18の早朝に出立した可能性が高いと見ます。そうなると

  1. 大津〜宇治・・・日帰り圏内
  2. 大津〜吉野・・・1泊2日
これぐらいの距離になります。1泊2日なら天武がどこに泊まったかになりますが・・・これは不明ですが飛鳥まで1日で行けたんじゃなかろうかと推測しています。壬申の乱の時に上つ道は機能していましたから、天武が近江から吉野に向かった道筋として、
    大津 → 琵琶湖 → 瀬田川 → 木津川 → 奈良坂(佐紀丘陵)→ 上つ道 → 飛鳥 → 吉野
こういうルートを想定します。このうちで近江大津から飛鳥まで1日で動ける点は壬申の乱の帰趨に少なからず影響した印象を持っています。