壬申の乱戦記 その2

戦記と言うより内情分析みたいなものになっていますが、そこは御愛嬌なのでよろしく。


当時の軍制

乙巳の変後に大化の改新が行われ律令制が整備され始めたのは史実ですが、壬申の乱当時にどうなっていたかはイマイチはっきりしません。基本的には国造軍をベースにしながら軍団制が形成され始めていたぐらいのようですが、どの程度進んでいたのかは「よく判らない」ぐらいです。軍団制は白村江の敗戦からとくに力を入れられていた「らしい」ぐらいまではあるのですが、たとえば奈良朝になってからのものと較べるとどうなっていたのかも詳細は不明です。資料的には孝徳から天智時代に始まった律令制がある程度完成した奈良朝の物を参考にするしかなさそうです。

律令制の軍制は徴兵制度です。男性の1/3ぐらいまで動員可能な制度であったとされ、計算上は20万人ぐらいまでの編成は可能であったとされます。これはあくまでも計算上のお話です。そこまで動員すれば農業生産がガタ落ちになります。天智時代には白村江の敗戦を受けて北九州では軍団制に近いものが形成されていた可能性はありますが、その他の地域では国造軍程度であったと私は推測しています。国造軍は常備軍に近い形態なんですが、当時の分国制の国当たり1000人程度が一つの目安であったようです。

国造軍の充実も当然程度の差が大きく、当時のフロンティアであった東海から東山、関東ぐらいは必要性から比較的大きな国造軍が形成されていたとの資料もありました。では畿内はどうかと言うとサッパリわかりません。大化の改新は公地公民制を打ち出してはいますが、畿内は古くからの氏族が蟠踞し、氏族の私領が長く保持されたとされているからです。天智の時代もそうであったと考えるのが妥当です。私領には私兵がおり、その軍事力が氏族の勢力基盤の一つとして大きかっただろうぐらいは想像できるところです。

天智が何故に近江に遷都したかは謎が多いところですが、律令制による軍事の充実と言う視点を置くと見えてくる点はあります。律令制の軍備は公地公民からの徴兵制ですから、公地に公民が多いほど大きな動員力が可能となります。畿内でこれをやるには氏族勢力が強すぎて難しいと判断し、比較的氏族の勢力が弱い近江に都を置いた可能性はあるかもしれません。天智が軍事にも力を入れていたのは白村江の敗戦の教訓はもちろんですが、徴兵制の基本と言うべき戸籍の整備に着手しています。庚午年籍と呼ばれるものです。

あくまでも軍事から見ただけのものですが、天智は近江で律令制による中央軍みたいなものを形成しようとしていたんじゃなかろうかと想像しています。その力を背景に畿内の旧来の氏族の私領を撤廃し中央集権的な政治形態を作り上げようとしていたぐらいです。それぐらいの軍事国家を作り上げないと台頭する唐、さらにはそれに従属する新羅に対抗できないぐらいの考え方です。でもってその軍事整備はある程度まで進んでいた可能性を考えています。


天智が近江で律令制による軍事力の充実を力の背景にしていたとすれば、天智に危険視されていた天武の力の背景、ぶっちゃけ軍事力の背景は何だったんだろうと言う事になります。これは単純な政治力学ですが、律令制の中央集権により自らの権益を侵されそうな畿内の氏族だったぐらいが一つの考え方です。天武とて別に旧体制保持思想ではありませんし、天智路線を引き継いで律令制を完成に向かわせた人物ではありますが、諸般の事情により氏族よりの政治姿勢を見せていたぐらいは想像できます。政治路線的には新旧対決と言うよりも、

    天智急進派 vs 天武穏健派
目指すゴールは同じでも政治姿勢が若干違うぐらいです。その程度の差であったので最初は協調路線が取れたとも思っています。ただ流れとして天智の急進政策のへの反発・不満の受け皿的な地位に天武は着く事になり、そこから運命の対決に二人は分かれる事になったぐらいを想像しています。


当時の装備

律令制下の徴兵の軍備をwikipediaより、

  • 個人装備(自弁)


      弓1、弓弦袋1、予備弦2、矢50、矢入1、太刀1、小刀1、砥石1、藺笠1、飯袋1、水筒1、塩袋1、脚絆1、鞋1。


  • 個人装備(官給 ただし所定の数量を自弁で軍団庫に納入するため実質は自弁)


      乾飯6斗、塩2升。


  • 火ごとの装備(自弁)


      幕1、釜2、鍬1、草刈具1、斧1、手斧1、鑿1、鎌2、鉄箸1。

他にもありますが殆ど自弁なのに驚かされます。当時の王権の経済力がこの程度の物であったと言う事かもしれません。もちろんと言うかたぶんですが、大規模遠征となればまた変わると思いますが、徴兵された農民は自分で軍装と食料を携えてこれに応じなければならなかったようです。それと兵士と言えば必要そうな甲胄ですが、作るのも大変な上に高価であったので、指揮官クラスのみ支給着用していたようです。大規模遠征の時には一部支給されたようですが、これも鉄製や革製を支給するのは出来ず綿製のものが作られたようです。

軍団の構成としてはごく僅かに騎兵部隊も存在したようですが、大部分は歩兵部隊です。それも甲胄なしの軽装歩兵部隊であったと見て良いようです。戦術は携行武器からして矢戦と短兵戦であったと見て良いようです。ただ個人的に弓矢は自作でもなんとかなるとは思いますが、太刀はどうやって調達したんだろうと思わないでもありません。実状的と言うか、壬申の乱当時には太刀も官給でカバーしていた部分も少なからずあったと思っています。でもって、こういう軍装は国家レベルと言うか、国造単位、郡単位で備蓄されていたようです。律令制が整備されると装備は国が管理するものとしたそうですが、天智時代は過渡期であり私有のものと国有の物が並立していたと考えています。


天智の時代をまた考えるのですが、天武と協調していた時代は律令軍の整備がまだまだで、天武が氏族の不満を宥める役割が重要であったと考えています。ところが律令軍が強化されていくと氏族への配慮は不要の考えが出て来たと見ます。その境目が大友皇子太政大臣にした頃ではなかったかと見ています。律令制による中央政権体制の確立のためには氏族は解体していく必要があり、結果的に氏族サイドに立つ事になった天武は不要になったのと、たとえ天武が不満氏族に担がれて反乱を起こしても十分に鎮圧できると判断したからと推測しています。


天智の戦略

これはあくまでも扶桑略記の天智暗殺説を取った時のものですが、天武が吉野に逃げたのは反天智派氏族の多い大和をアテしてのものと思っています。だから天武紀には、

或曰、虎着翼放之

これは天武が大和の反天智派氏族を集めて必ず反乱を起こすとした予想と見ます。そんな事は天智も十分に知っていて天武を吉野に逃がしたと私は考えます。天智の戦略は天武が反天智派氏族を集めて反乱を起こす事も織り込んでいたと思っています。むしろそれも期待していた気がします。律令制の徹底のためにはどこかで戦が必要の認識で、天武を中心に反乱軍が集まれば、これをまとめて叩き潰し、一挙に畿内の反天智派氏族を壊滅させてしまう戦略です。

天智の戦略の一つは自分の陵の建設であったと見ます。天智の御廟野古墳は京都の山科にあります。地図上では近江京から山一つ越えたところですが、なぜにここに自分の陵を作ろうと思ったかです。正直なところ大津京からかなり離れています。間には山があり、近江朝創始者である天智の陵にしたらエライ外れに位置します。御廟野古墳は大津京から見ると外れですが、そのまま南に下れば宇治方面に近くなります。大王の陵は生前から作られるのですが天智紀に、

或本云八月天皇疾病

これについては扶桑略記を取って仮病説を私は取っていますが、大王が病気だから工事を急がせる理由には出来ます。工事を急がせるとは工事のための人夫を増員する事になりますが天武紀より、

時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵

動員した人夫をそのまま軍として編成する事が可能と言う事を意味します。もちろん動員されたのは人夫であり兵ではありませんが、装備さえ支給すれば軍に変える事は可能と言う事です。その装備は大津に蓄えてあるぐらいです。陵作業員が大量にいると言う事は、

  1. 作業員を食べさせる食料を集める口実になる(兵糧の確保)
  2. 都から軍装を運び込めば軍団に早変わりする
大規模な大王陵工事を行っていると言うだけで天智は強力な軍団を山科に配置しているのと同じになります。山科に強力な軍団は宇治方面まで下れば、
    木津川 → 奈良坂(佐紀丘陵)→ 上つ道 → 飛鳥
この距離を1日程度で進んでしまう事も可能と言う事です。つまり吉野で天武が反旗を翻し飛鳥方面に進出しても、数日以内に強力な軍団で鎮圧に向える事を意味します。また天智は河内方面にも手を打っていたとしても良さそうです。壬申の乱では河内は近江朝側に立って基本的に戦っています。つまり天武が吉野で反旗を翻し打倒天智に立ち上がっても
  1. 奈良坂方面から山科軍団が南下
  2. 河内から大和川経由で河内勢が東進
挟み撃ちで潰滅させようとする戦略ではなかったかと見ます。天智は天武が都から去った後も陵工事の強化を指示していたと考えて良く、時間が経てば経つほど天智有利の情勢が形成されていく戦略です。追いつめられた天武は活路を開くために天智暗殺に走らざるを得なくなったぐらいを想像しています。


この戦略なんですが、後世から見ると天智が独りで考えた戦略に見えます。ひょっとしたら2年前に死去した鎌足の献策の可能性もありますが、実行時には天智しか戦略構図を知らなかったぐらいです。後継者の大友皇子も5人の重臣も全貌を把握していなかった感じがします。もう少し言えば天智に取って天武は、既に叩き潰せる相手にしていましたが、後継者達は薄気味悪い実力者、出来ればそのまま吉野で遁世していて欲しい怪物ぐらいとして対応した可能性です。壬申の乱でも天智の戦略の遺産は生きていたと思っていますが、天智の後継者たちはそれを十分には活用できなかったと感じています。


天武の東国行

天智の戦略がなぜに存在したかと考える理由は、天武が反旗を翻すに当たり何故に東国に走ったかがわからなかったからです。天武の来歴も不明な点は多々ありますが、書紀を読む限り東国にさほど縁がある様なものには到底思えません。姻戚関係もまたそうです。天武に味方する勢力として普通に考えられるのは、

  1. 母の斉明の出身地である河内
  2. 斉明が大王位に就いて都を遷し、父の田村皇子の出身地である大和
この辺が中心になるはずです。もっとも天智とほぼ重なってしまいますが兄弟ですから仕方ありません。吉野に逃げたのも大和勢力をアテにしたぐらいにしか思えません。天武も吉野行を決めた時には大和系勢力をアテにしたと考えていますが、いざ吉野から周囲の情勢を分析してみれば天智の包囲網に追い込まれていた事に気付いたぐらいを想像します。平凡に大和で挙兵しても勝負にならない観測です。だから東に向かったんじゃなかろうかです。

それでも解けない謎があります。天武は兎田から柘植を経由して鈴鹿を越えて進みます。旧分国では伊賀から伊勢ですが、この当時は伊勢・伊賀・志摩の三国で伊勢とされています。簡単に言えば笠置山地から東側は伊勢なんです。でもって当時の伊勢の国造は中臣氏です。中臣氏は鎌足の出身母体ですが、それだけではありません。天智紀より、

丙辰、大友皇子在於内裏西殿織佛像前、左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣侍焉。大友皇子、手執香鑪、先起誓盟曰、六人同心奉天皇詔、若有違者必被天罰、云々。

天智時代の右大臣が中臣金です。中臣金は瀬田の最終決戦まで大友皇子に従い、後に捕えられて斬首されています。平たく言えば近江朝側の主要人物です。中臣氏の系譜はよく判りませんでしたが、中臣氏の氏の長者であった可能性はあると考えています。その中臣氏が国造である伊勢に何故に天武は進めたかです。天武による必死の工作が行われていたぐらいしか考えようがなく、伊勢国造の中臣氏の協力がなければ天武は吉野で追いつめられただけだったかもしれないと思ったりしています。

まあ考え様ですが、天武が近江京を去って1か月半後に天智暗殺が起こりますが、これは伊勢国造の中臣氏が天武に味方する事が決まったからかもしれません。もし伊勢の中臣氏が天武に加担しなかったら・・・歴史はどうなっていたんだろうと言うところです。近江の中臣金と伊勢の中臣氏は仲が悪かったのかなぁ?