昨日は近江神宮の創建の謎に熱中してしまいましたが、もう一つムックしていた事があります。
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何故に近江神宮がカルタの聖地になったか?
- 時の祖神 開運・導きの大神
- 文化・学芸・産業の守護神
こうなっているぐらいで、起工式も6月10日の時の記念日になっています。これは他の事績の扱いが微妙過ぎて削り倒された末に残ったのが時の神ではなかったかと推測しています。
天智天皇と言うか中大兄皇子の教科書にも載っている乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)から大化の改新はパスしています。暗殺の神に出来ないでしょうし、大化の改新が始まったのは孝徳時代ですし、孝徳天皇と中大兄皇子の関係も宜しくありません。
さらにこの時代にややこしいのは天智の母の斉明の存在です。皇極天皇時代は飾り物で良さそうですが、孝徳の次が皇太子であった中大兄皇子ではなく重祚して斉明天皇です。斉明もまた飾り物であったかどうかもわからないところで、斉明時代の中大兄皇子の影は薄い印象です。
白村江に至る半島出兵を主導したのは斉明時代ですが、これを中大兄皇子が主導権を持っていたのか、単なる共犯であったのか、密かなる反対者であったかも良く判りません。どっちにしても結果が白村江ですから、戦いの神にはしづらいぐらいです。
では大津京への遷都はどうかと言えば、天智死後すぐに壬申の乱が起こり、なんのための遷都だったのか状態です。政治系の業績は避けた方が無難そうです。とはいえ文化・学芸・産業の守護神だけでは余りに玉虫色なので時の神が出てきたのじゃなかろうかです。
蛇足みたいなものですが諡号である天智は、日本人的には悪い字ではないですが、最悪として良いほどの字が選ばれています。中国古代の悪王、暴王と言えば、
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夏の桀王、殷(商)の紂王
ではカルタとの関わりですが、小倉百人一首の巻頭歌である、
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秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
近江神宮ではかるた祭が一月に行われますが、これがいつから始まったかがついにわかりませんでした。創建時からあったのか、時代が下ってから行われたかです。とにかく創建の翌年には第二次大戦が始まるわけで、その後も敗戦後の混乱の時代に突入するからです。
戦中からあった可能性はあります。御神徳に文化・学芸の守護神とありますから、これに因むためにカルタを使った可能性です。これ以上は確認しようがなかったのを遺憾とします。
近江神宮がカルタの聖地になった時代はわかっています。1955年から名人戦、1957年からクイーン戦が行われているからです。ただなぜに近江神宮であったのかの理由がどこにも見つかりませんでした。当時でもカルタの聖地との認識があったのか、他の理由があったのかです。
ここで面白いと言うか、気になるのが近江神宮はカルタの聖地にはなっていますが、祭神である天智天皇はカルタの神として扱われていないところです。そりゃ、天智天皇の時代に小倉百人一首なんて影も形もありませんが、商売として結び付けそうなものだからです。
でも競技カルタにとっては良かったと思っています。いまでこそ、映画ちはやふるのヒットでちょっとしたカルタ・ブームになっていますが、競技カルタなんてマイナー競技も良いところだからです。とにかくゲームとして手軽に楽しむにはハードルが高すぎます。
映画の舞台にもなった高校かるた選手権が始まったのは1979年に第1回大会が始まっていますが、この時の参加校数がわずかに8校。この8校がどうやって選ばれたかも不明ですが、下手すれば連絡がついて、参加できたのがこれだけだったのかもしれないぐらいです。
言ったら悪いですが競技カルタの会場になったところで、近江神宮のメリットはさしてありそうに思えません。カルタ大会で入場料収入が入るとか、放映権料が手に入るものじゃないからです。あるとしたらついでに参拝してくれて、お賽銭やおみくじ買ってもらうのと、会場である近江勧学館の使用料金が入るぐらいです。
そんなことをあれこれ考えた次第です。