近江神宮

 カルタの聖地と言えば近江神宮になるのですが、これまで行ったことがりませんでした。歴史オタク的にはイマイチ食指がそそらない神社だからです。だってですよ、創建は昭和なのです。歴史ロマンを感じようがないぐらいです。より正確には昭和15年、西暦1940年、皇紀2600年で、第二次大戦の開戦の前年にあたります。

 もっとも工事が始まったのは昭和13年(1938年)で、昭和15年の皇紀2600年に竣工を目指して工事が進められたのであろうは想像のうちです。皇紀2600年は国威発揚のためにあれこれ行事が行われたはずですから、その一環ぐらいの見方です。

 後は近江神宮HPの近江神宮御創建前史ぐらいしか参考資料を見つけられなかったのですが、

大津市制施行10周年に際して、時の市長が大津宮跡に天智天皇奉祀神社の創立を熱望する旨を発表し、請願運動を開始しました。

 これが明治41年(1908年)となっています。そうなると滋賀県の成立が気になるのですが、wikipediaより、

1871年11月22日、新たな大津県(滋賀郡・蒲生郡以南)と長浜県(高島郡・神崎郡以北)に統合された。翌1872年1月19日に大津県が滋賀県に、2月27日に長浜県が犬上県にそれぞれ改称され、9月28日に両県が合併し、近江国、並びに現在と領域を同じくする新たな滋賀県が成立した。

 滋賀県は1872年に現在の形で成立し大津に県庁が置かれた事が確認できます。もうちょとゴタゴタがあるのですが、1872年に現在の滋賀県が成立したとします。これを頭に置いておいて近江神宮御創建前史より、

明治28年(1895)、時の大津町長(当時はまだ町でした)が有志を募って、当時の滋賀郡滋賀村大字錦織字御所ノ内(現在の大津市錦織)の地に「志賀宮址碑」を建設しました。

 この運動が近江神宮創建の先駆となったとしているのですが、どうにも時間的な距離があります。近江神宮御創建前史には、滋賀県民は大津京を都にした天智天皇に格別の尊崇をもっていた云々とありますが、どうも怪しい気がします。そこで見つけたのが、wikipediaより、

本庁舎は大津に置かれたが、南西に偏在しているため、近江国最大の城下町であった彦根も候補に上がった。1891年と1936年の2度、大津から彦根への本庁舎移転運動が起こったことがある。

 年表にしてみます。

西暦 事柄
1872 滋賀県成立
1891 県庁を彦根に移す請願(1回目)
1895 大津町が志賀宮址碑を設置
1936 県庁を彦根に移す請願(2回目)
1938 天皇の御聴許により工事開始
1940 近江神宮創建
 当時の空気などわかりようもありませんが、彦根への県庁移転問題が滋賀県、いや大津市として大きかったのとリンクした動きに見えます。もう一つwikipediaより、

滋賀県が犬上県を編入合併する。なお、この際、彦根はその強い保守的風土ゆえに県庁所在地になることを嫌い、よって、滋賀県県庁所在地は県域のほぼ中央部にある彦根ではなく、西端部に位置する大津になったという経緯がある。

 これを額面通りに取るかどうかは出てきますが、滋賀県成立当時から県庁を彦根に置くか、大津に置くかは滋賀県の政治課題であった気配を窺わせます。この視点から考えると近江神宮御創建前史にある、滋賀県が天智天皇を尊崇云々は、滋賀県民ではなく大津市民、もっと限れば大津市が県庁が設置されてしかるべき歴史的理由を作り上げた気がします。


 これも今となっては手軽に確認するのが困難ですが、戦前の教育で天智天皇の扱いはどうだったのでしょうか。皇室は万世一系が建前ですが、微妙に系統が入れ替わっている時期があります。上古はさておき、まず南北朝時代があります。結果は北朝系統が今に至るですが、正統論で戦前は南朝が正統とされています。

 天智天皇が関わるのは死後に起こった壬申の乱ですが、結果は天智の息子である大友皇子は天武に敗れ、奈良朝は天武系統になります。天武系が終わったのは男系が枯渇してしまったからで、光仁天皇から天智系が復活しています。とくに桓武天皇は天智系であることを強くアピールしています。

 万世一系は皇室の建前です。広義では皇室の血統が続いており、皇室を打倒して新たな皇室が建てられた歴史もありません。だから一系と主張できますが、傍系への転換は確実に起こっています。戦前の北朝か南朝か論争は皇室もかなり気を使ったとされます。これは今でもで、皇室の人間は、現在の天皇が何代目であるかは公式には答えにくい問題であると聞いたことがあります。

 つまり天智天皇の事績は皇室的には積極的に触れて欲しくない気がします。あんまりやると天智系と天武系の問題が出てしまうからです。言い切ってしまえば天武系の扱いをどうするかの問題です。


 あれこれ考えると近江神宮の創建には近世的には興味深いものがあります。というのも昭和天皇は最終的には御聴許されているのです。これが昭和天皇の意志であったか、決定事項への同意に過ぎなかったかも不明です。ただ敗色が濃厚になった時に天智天皇の事績に思いを馳せた可能性だけはあります。wikipediaより、

太平洋戦争の終戦後である神道指令が発令された1945年(昭和20年)12月15日のまさにその当日に、戦後復興を祭神(天智天皇)に祈願した昭和天皇の勅旨により、同神宮は勅祭社に治定された。

 白村江の敗戦から亡国の危機に瀕した天智天皇に自らをダブらせていたのではないかです。敗戦国の王室が生き残る事は非常に難しいのは常識です。様々な思惑が近江神宮にあったのでしょうが、真相はもうわかりません。ただ天智天皇にしろ、昭和天皇にしろカルタの聖地となったのは微笑んでいらっしゃる気がします。