大津京残照

 近江神宮参拝のオマケです。大津京は天智天皇が百済回復戦に敗れ、朝倉橘広庭宮から畿内に帰って来た時に都にしたところです。歴史は天智天皇が亡くなった直後から壬申の乱が勃発し、大津京は5年余りで廃都になっています。

 短命であったがために近世まで所在地が不明でしたが、近年になりようやく比定されて全貌があきらかになりつつあるぐらいです。まず復元図ですが、

20200814160822
 近江神宮を参拝した時にはJR大津京駅から県道47号線を北上したのですが、この道は大津京復元図の宮中軸線にほぼ一致します。県道に沿って二つの発掘地点を見る事が出来たのですが、復元図でいえば、
  1. 内裏南門のSA001付近
  2. 現在地と書かれている内裏正殿付近
 この辺は住宅街で建て替えの時ぐらいに発掘調査が出来たのでしょうが、復元図の線で囲まれているところが調査地域と見てよさそうです。この大津京は前期難波京とされる難波長柄豊碕宮の縮小版ぐらいと評価されています。

 難波長柄豊碕宮は乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺した後に即位した孝徳天皇が都を置いたところです。では難波長柄豊碕宮がどんな感じであったかですが、

20200816072047
 どうなっているのかパッと見でわかりにくいのですが、一番手前の門が宮城南門(朱雀門)であり、左右にあるのは朝集殿になります。次に見えるのが朝堂院南門になり、広がってるのが朝堂院。さらに北に進むと内裏南門になり、その奥に内裏正殿がある内裏になります。

 大津京で確認されているのは内裏南門から北側の内裏部分になります。難波長柄豊碕宮では内裏部分がどうなっているかですが、

20200816072052
 難波長柄豊碕宮の内裏は東西が185メートル、南北が200メートルで、内裏正殿は東西が36メートルで南北が19メートルとなっています。これに対し大津京は東西7間(12.6メートル)、南北4間(7.2メートル)です。かなり小ぶりであったのが確認できます。

 難波長柄豊碕宮との類似性として挙げられるのは、おそらくですが難波長柄豊碕宮では内裏南門の左右にあった八角建設物の存在の気がします。大津京でも類似の塀に区切られた区画があり、そこに類似の建築物があった可能性はあると思います。今後の発掘調査が待たれるところです。


 天智天皇が何故に飛鳥や難波ではなく近江に都を移したかの理由は、百済での敗戦により逆に唐新羅連合軍の侵略に備えてのものとするのが通説です。ここで侵略ルートを想定すると、まず北九州に上陸してくると誰もが考えます。そこで築かれたのが水城で良いでしょう。

 北九州が制圧されたとすると都を目指してくると次に考えます。その場合に難波は防衛に不向きであるのは良いとして、飛鳥を選ばなかったのは少々不可解です。当時の河内から飛鳥へのルートは大和川であり、ここに防衛線を設けるのが妥当な気がするからです。

 飛鳥に都があるのは知られているので、ここを外したとも考えられますが、飛鳥と大津京は地理的にも距離的にも遠いと言えません。それは壬申の乱が示しています。そこで出てくるのがさらなる逃亡ルートの確保のためです。大津京まで攻め寄せられたら琵琶湖を使って越前に逃げるためとかです。


 それもわかるのですが、私は天智天皇は飛鳥に戻りたくなかったと考えています。戻れば百済敗戦の責任を追及されて、それこそ乙巳の変の入鹿の二の舞になるリスクです。

 壬申の乱の構図を考えたいのですが、飛鳥系の有力豪族は大海人皇子支持で良い気がしています。では天智を指示したのは誰かになりますが、

  • 近江系豪族
  • 渡来人系豪族
 天智は中央集権体制による国力強化を図ったと思いますが、そのための知識や技術は渡来人に頼ったと見ています。渡来人勢力はかなり大きくて、斉明が百済戦にあれほど積極的であったのは渡来人勢力の影響のためでないでしょうか。そこで冷や飯になったのが飛鳥系豪族の底流がある気がします。

 白村江敗戦で活気づいたのが飛鳥系豪族であり、天智が敗戦後にすぐに飛鳥に戻らなかったのも、それがわかっていたからの気がします。そこで親天智派の地盤である近江に大津京を作らせ都を移したぐらいです。

 それでも天智の支持勢力は大きかったで良さそうです。反天智系の旗頭は大海人皇子ですが、天智在世中は動かなかったからです。天智も大海人皇子懐柔工作をあれこれしていますが、それがあったにしろ動いていません。その辺がどうなっていたのかは今となってはわからないところです。


 壬申の乱の契機になったのは天智の死ですが、天智の死も謎めいた部分があり、

一云,天皇駕馬,幸山階鄉,更無還御。永交山林,不知崩所。【只以履沓落處,為其山陵。以往諸皇,不知因果,恒事殺害。】

 その筋には有名な扶桑略記ですが、天智は山科に馬で遊びに行っています。ところが行方不明になり帰って来なかったとしています。当たり前ですが天智が一人で行ったはずがなく側近を引き連れてのはずです。そうなると天智一行は皆殺しにされた事になります。

 扶桑略記にも天智が重病になった記述がありますが、書記同様に皇太子であった大海人皇子は不可解な行動を取ります。天皇が無くなれば皇太子に後事を託すのは自然のはずですが、大海人皇子は固辞して皇太子位からも去ります。

 これは天智の意向が大友皇子にあるのを知っていたが故の保身策と解釈されますが、ここで焦点になるのが天智の重病の度合いです。本当に死の床にあれば大海人皇子は逃げたでしょうか。後の扶桑略記の記述合わせて、大海人皇子は仮病を見破って身の危険を感じて逃げた気がします。

 そういう古代ロマンを思いながら歩いていました。県道47号線は天智も天武も様々な思惑を込めながら歩いた地ですからね。