延々と古代史整理をやってるんですが、本当のテーマは蘇我大王の成立の可能性です。蘇我大王は実在していたが記紀編纂時の万世一系理論確立のために消去されてしまったぐらいの仮説です。そのためには記紀ではどう書かれているかを知らないと拙い訳で、地味なムックを延々と続けていたわけです。とくに押坂人彦大兄皇子と茅渟王は乙巳の変後に活躍する軽王(孝徳)、宝王女(皇極、斉明)、中大兄皇子(天智)、大海人皇子(天武)の祖父、父にあたる人物になり、どういう血縁関係、どういう支持勢力があったかを把握しておく必要がありました。ま、奮闘虚しく不明の部分が多かったのは遺憾とします。
それと蘇我大王ロマンのネックは蝦夷なんです。今日は久しぶりにメインテーマに戻ったお話になりそうです。
万世一系とは、ごく単純には父系が1つで継承されているぐらいの理解で良いかと存じます。ですから蘇我氏の娘が大王と結婚し、その息子が大王になっても問題はありません。また嫡系である必要もありません。仁徳の息子の兄弟継承、欽明の子女の兄妹継承も問題としていません。継体なんて応神5世の孫ですがこれも問題ありません。とにかく父系でさえあれば万世一系です。そういう意味では許容範囲が広いものがあります。
書紀で万世一系が強調されたのは持統が孫の文武に皇位を継承させたかったからと言われています。ここはドロドロした話になるのですが、天武の奥さんの中に4人の天智の娘がいます。
- 蘇我遠智娘の娘・・・大田皇女、鸕野讃良皇女
- 阿倍橘娘の娘・・・新田部皇女
- 忍海造色夫古娘の娘・・・大江皇女
そうなればそれ以外の天武の息子の誰かが皇位に就きそうなものですが、皇后である鸕野讃良皇女は孫の軽皇子に皇位を継がせたいと熱望します。そのために自らが即位して持統となります。何故には持統本人に聞いてみないとわかりませんが、強いて理由を考えれば、
鸕野讃良皇女の母の蘇我遠智娘と草壁の妃の母の蘇我姪娘は同母かどうか不明なんですが、とにかく姉妹です。どうも同母の感じはあります。どちらも蘇我倉山田石川麻呂の娘なんですが、同族意識が強かったもあるかもしれません。だって阿閇皇女は軽皇子が文武になり、またもや若くして亡くなった後に、文武の子である首皇子につなぐために元明天皇となっているぐらいだからです。ウダウダ書きましたが、持統の願いと言うか野望は草壁皇子の血統が今後の正統父系としたかったぐらいでしょうか。実は万世一系論だけでは持統の願いは無理と感じます。記紀の大王継承はそんなものを論証していません。それでも万世一系論が必要だった裏を考えると、大王継承は単一父系の継承ではなかったとするのが自然です。持統にすれば天武の他の系統は自分の政治力で抑え切れる自信があった気がします。持統が本当に恐れたのは天武の他の系統の皇子でなく、他の氏族に皇位を奪われる事ではなかったかと見るのが合理的になります。そういう事実が持統の知る範囲でもあり、そっちの可能性を排除するために万世一系が必要であり記紀編纂が行われたの見方です。そこに蘇我大王ロマンが生まれる余地が出てくる訳です。
馬子大王の実在の傍証は比較的あるのですが、馬子大王の次の蝦夷大王の実現は難物です。あんまり良く知らなかった舒明がピースとして動かしにくいのです。つまり「蝦夷 = 舒明」にすると宝女王の嫁ぎ先は舒明でなく蝦夷になり、その蝦夷の子が中大兄皇子と大海人皇子なってしまうからです。つまり中大兄皇子と大海人皇子は入鹿の兄弟になり、乙巳の変は兄弟同士の殺し合いってな陰惨な話になります。記紀に作為があるとしても、蝦夷時代は記紀編纂時からすると「最近」の部類に入ります。作為があったとしても基本的な事実による辻褄は合わせているはずだからです。ですからあくまでも中大兄皇子と大海人皇子は宝王女と舒明の子どもであるが私の前提です。
どこかに突破口はないものかと、舒明とも比べ物にならないほどマイナーな舒明の父の押坂人彦大兄皇子や茅渟王、さらにその母系についてあれこれムックしていましたが、調べれば調べるほど舒明の存在は「動かせない」の結論しか出ません。ここはもう馬子大王の跡に蝦夷大王は立たなかったで話を進めようかに傾きかけましたが、馬子が大王であったのに蝦夷が大王になれなかった理由を考えるとまた難問になります。蘇我大王ロマン自体が吹き飛びそうになるからです。これを解決する解釈法をついに見つけました。見つけてみれば単純なお話で、
-
蝦夷 = 舒明 ≠ 田村皇子