飯豊皇女考

まずはwikipediaより、

結構微妙な扱いである事がわかります。天皇であったとの記述は

日本書紀 古事記
五年春正月、白髮天皇崩。是月、皇太子億計王、與天皇讓位、久而不處。由是、天皇姉飯豐逭皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、自稱忍海飯豐青尊。 故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是、問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女・亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。
清寧崩御後に書紀では「忍海飯豐逭尊」と名乗って「臨朝秉政」となっています。この「尊」なんですが「みこと」と読みます。この「みこと」の意味は学研全訳古語辞典には

神・天皇、または、目上の人の尊敬語。▽「…のみこと」の形で用いる。

さらに注釈があり

日本書紀』では、非常に尊い身分に「尊」、それ以外は「命」と使い分けているが、『古事記』では「命」だけである。

天皇であった期間ですが書紀では白髪(清寧)5年に清寧が崩御した後の1年足らずとしています。古事記では清寧の崩御時期を書いていないので不明なんですが、清寧の冒頭部を引用しておくと、

御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。此天皇、無皇后、亦無御子、故御名代定白髮部。故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是、問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女・亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。

大意としては清寧は皇后もおらず、子もおらず、崩御時に飯豊皇女が天皇になったぐらいで良いと思います。これが書紀にあるように清寧5年からの1年足らずの事を指すと読めない事もありませんが、清寧の在位期間が非常に短かったと読めない事もありません。この辺は研究者の解釈も分かれるところです。つうか古事記ではかなり短かったしている気がします。清寧の事績は書紀でも古事記でも億計王・弘計王発見伝説が中心なんですが、具体的な年月が書いてあるのは書紀(古事記には無い)なのですがまず

二年春二月、天皇、恨無子、乃遣大伴室屋大連於諸國

即位した翌年に大伴室屋を諸国に派遣したとなっており、億計王・弘計王が発見されたのがその年の11月となっています。当然その報告は大王家に伝えられるのですが、

日本書紀 古事記
天皇愕然驚歎 其姨飯豐王、聞歡而
清寧は書紀では即位5年目に崩御しますから即位2年11月に億計王・弘計王が発見された時には存命中の清寧が喜ぶ訳です。一方の古事記では飯豊皇女が喜ぶとなっています。これは清寧の崩御後に飯豊皇女が大王となった時期に億計王・弘計王が見つかったと解釈してよいかと思います。でもってなんですが、書紀と古事記を合わせて
    清寧2年2月までに清寧は崩御し、代わって大王となった飯豊皇女が億計王・弘計王探索を命じた
こう解釈できないかと思っています。つうのも億計王・弘計王の父である市辺押磐皇子を暗殺したのは清寧の父の雄略です。億計王・弘計王が雄略を憎んでいた記述は、
日本書紀 古事記
天皇、謂皇太子億計曰「吾父先王、無罪而大泊瀬天皇射殺、棄骨郊野、至今未獲。憤歎盈懷、臥泣行號、志雪讎恥。吾聞、父之讎不與共戴天、兄弟之讎不反兵、交遊之讎不同國。夫匹夫 之子、居父母之讎、寢苫枕干不仕、不與共國、遇諸市朝、不反兵而便鬪。況吾立爲天子二年于今矣、願壤其陵摧骨投散。今以此報、不亦孝乎。」 天皇深怨殺其父王之大長谷天皇、欲報其靈。故、欲毀其大長谷天皇之御陵而、遣人之時、其伊呂兄意祁命奏言「破壞是御陵、不可遣他人、專僕自行、如天皇之御心、破壞以參出。」爾天皇詔「然隨命宜幸行。」是以意祁命、自下幸而、少掘其御陵之傍、還上復奏言「既掘壞也。」
弘計王は雄略に対して強い怨みを抱いています。当然と言えば当然なんですが、雄略の子である清寧に対してはどうであろうかです。当時の思考法を知る由もありませんが、とりあえず書紀には億計王の言葉として、

天皇與億計、曾不蒙遇白髮天皇厚寵殊恩、豈臨寶位

要は清寧は恩人として感謝しているとしています。これって本当にそうなんだろうかです。


億計王・弘計王が名乗り出た点を再考する

億計王・弘計王は雄略の魔の手を逃れるために潜伏生活を送っていた訳です。これが雄略が崩御して息子の清寧の時代になったからと言ってノコノコ名乗り出るだろうかがあります。億計王・弘計王からすれば清寧は雄略の後継者です。そんな人物の言葉を信用して名乗り出れば殺されると考えないだろうかです。名乗り出るからには身の安全の保障を確信できる何かがあったと考えるのが自然です。億計王・弘計王は志深里に潜伏していたとなっていますが、朝廷の情報の細かい点、とくに清寧の人柄・考え方なんて知りようもない立場であったと考えても良い気がします。

そういう状況で名乗り出たのですから、億計王・弘計王が無条件に信用できる人物が大王であったと見るのが自然となります。それは清寧とは考えにくく、飯豊皇女だと考えます。つまりは古事記の記述寄りの見方になります。つまり億計王・弘計王は清寧から飯豊皇女に大王が代わったので名乗り出たとの考え方です。それぐらい飯豊皇女は億計王・弘計王に取って信用できる人物であったことになります。ではでは飯豊皇女は億計王・弘計王に取ってどういう位置づけの人物であったかが問題になります。播磨風土記には

汝母手白髪命

億計王・弘計王の母は手白髪命としています。ここで前回は

    手白髪命 = 飯豊皇女
こう考えましたが古事記の飯豊皇女と億計王・弘計王との続き柄は、
    其姨飯豐王
「姨」とは母の姉妹を指します。ちなみに父の姉妹は「姑」になります。そいでもって書紀での市辺押磐皇子の妻(億計王・弘計王の母)は葛城蟻臣の女(名前は機種依存文字なので略)となっています。そうなると飯豊皇女は葛城蟻臣の娘になりますが、それでは皇女になりません。そこで書紀は飯豊皇女を市辺押磐皇子の娘(億計王の姉)としていますが、古事記では市辺押磐皇子の妹としています。

ここで「姨」の考え方なんですが、異母兄妹であったとしたら結婚は当時の事でごく普通に行われます。その時ですが、市辺押磐皇子は皇子として独立し、そこに大王家から嫁として皇女を迎え入れるって見方をするんじゃないかと考えます。つまり市辺押磐皇子家から見ると大王家は母方の家になり、母方の家の妻の姉妹であれば、億計王・弘計王からすれば「姨」に当たるぐらいです。古事記の記述を尊重すれば、

  1. 市辺押磐皇子は大王家(当時は履中家)から同母妹である手白髪命を妃に迎え入れる
  2. 飯豊皇女は手白髪命の姉妹なので古事記では「姨」とされた
素直に「手白髪命 = 飯豊皇女」説を取りたいのですが、手白髪命と飯豊皇女が姉妹である方が都合の良い部分もあります。


飯豊皇女が大王であったのは書紀ですら書いているのですから、伝承として隠し切れないものであったと思います。先例としては卑弥呼や壱与まで持ちださなくとも、神功皇后がいるので女性が実質的な大王になっても良いのですが、それでも例外的なケースであるのは間違いありません。状況的に他に目ぼしい男性候補者がいないと言うのが必要条件です。これについては雄略は大王即位のために自分の兄弟だけではなく従兄の市辺押磐皇子まで殺しています。この雄略が殺しまくった結果が後に継体出現の遠因になったとも言えそうな気がします。

でもって雄略が崩御し、清寧が大王になった時には他の有力皇位継承者は根絶やしにされていたと考えても良いかと思います。清寧即位時には雄略のもう一人の息子である星川稚宮皇子も殺されています。殺伐としていますが、書紀はそう伝えています。唯一の継承者として生き残った清寧ですが、この人物は白髪皇子とも呼ばれアルビノであったとされます。基本的に虚弱で子どもも出来なかったのですが、上述した古事記と書紀の合わせ技で即位して1年も経たないうちに崩御した可能性は十分あると思います。ここで清寧が崩御してしまうと男性の皇位継承候補者がそれこそ皆無状態になってしまいます。古事記

    故、天皇崩後、無可治天下之王也
そのために浮かび上がった候補者が飯豊皇女ではないだろうかです。飯豊皇女は書紀に

秋七月、飯豐皇女、於角刺宮與夫初交、謂人曰「一知女道、又安可異。終不願交於男。」(此曰有夫、未詳也。)

結婚はしたのでしょうが、どうもすぐに離婚したぐらいに考えて良さそうです。つまり清寧崩御時に皇女で唯一結婚状態ではなく、子どももいなかったので大王位に推戴されたぐらいを考えます。まあ男嫌いの女傑であったとするのは想像の裡ですが、そのままでは飯豊皇女が崩御すれば次の皇位後継者がまたいなくなります。そこで飯豊皇女は姉妹の子どもである億計王・弘計王を探し出して後継者にする条件で大王位に就いたぐらいはあり得ると思います。

ここはもう少し想像を広げても良い気がしています。兄弟姉妹でも異母なら他人も同様ですが、同母なら肉親関係になります。飯豊皇女と手白髪命は同母姉妹であったのかもしれません。姉が手白髪命で、姉の子である億計王・弘計王は幼少時に母方の実家である履中家で育ち、なおかつその時に飯豊皇女と親しかったは可能性としてありえます。飯豊皇女にしてもそういう関係であったので皇位継承者に億計王・弘計王を認め、億計王・弘計王も信用して名乗り出たぐらいの関係を推測します。


これも説としてあります。市辺押磐皇子が暗殺された時に億計王・弘計王はどこにいたのだろうがまずあります。どこにと言っても可能性は2つで、

  1. 母方の実家
  2. 市辺押磐皇子の家
市辺押磐皇子は近江で殺されていますが、この時に億計王・弘計王は同行していなかったとしたいところです。そこから逃亡を行うのですが、まだ母方の実家にいたのなら飯豊皇女の助力の可能性は出て来ます。市辺押磐皇子家に移っていても親しい叔母さんを頼ったとしてもおかしくはありません。この飯豊皇女にはいくつか別名がありますが忍海郎女、忍海部女王、忍海飯豊青尊てのがあります。忍海の由来はwikipediaより、

「おしぬみ」は葛城内の地名・忍海で、飯豊王の本拠地。忍海部は、飯豊王の子代(こしろ)の部民(べのたみ)であるが、単なる農民部ではなく漢人(あやひと)をかかえた雑工部(物品製造に携わる職工集団)でもあったらしい。

忍海を「おしぬみ」と読むのなら忍海部は「おしぬみべ」と読むかと思われます。だからなんだってところですが、志深里を含む美嚢郡には忍海辺(おしんべ)と言う苗字が存在します。わりと珍しい方の苗字になると思うのですが、ルーツは忍海部に由来するとして良いでしょう。この忍海辺を名乗る人々がいつ美嚢郡に暮らし始めたかです。億計王・弘計王の時代から軽く1000年以上経っていますから、もう誰もルーツを探るのは無理と思いますが、飯豊皇女が億計王・弘計王を落ち延びさせた時に同行させた可能性はゼロと言えないぐらいのところです。もっと想像を広げれば美嚢郡は播磨風土記

昔大兄伊射報和気命堺国之時 到志深里許曾社勅云此土水流甚美哉故号美嚢郡

伊射報和気命とは飯豊皇女の父である履中になりますが、「堺国之時」を履中が美嚢郡を領土とした時と読めないだろうかです。新たな所領である美嚢郡市辺押磐皇子に伝えられ、市辺押磐皇子が雄略に暗殺された後は飯豊皇女に伝えられた可能性もないとは言えません。所領になったのなら代官みたいな役割、または新たな開発者として忍海の部民が派遣されていた可能性も出て来ます。つまり、そういう場所だったので飯豊皇女は億計王・弘計王を逃れさせ匿ったとのお話につなげることもあるんじゃなかろうかです。

すべては想像に過ぎませんが、地元のお話なのでこれぐらいは妄想を膨らませても良いと思っています。