斉明の初婚の時の息子である漢皇子は夭折していなかったらいしいまで漕ぎ着けはしましたが、果たして天武と入れ替え可能かどうかを考えてみます。
漢皇子も天武も年齢は不明です。天武なんて書紀の最重要人物のはずなのに不明です。天武の年齢は舒明紀より、
斉明と舒明の子どもは天智が第1子、間人皇女が第2子、天武が第3子とあり、天武は天智の5歳下ぐらいであろうが意見として多いところです。ただこれなら「漢皇子 = 天武」は絶対に成立しません。そのために後世の資料から天武が天智より年長であったの説が出される訳です。wikipediaより、
天皇の年齢を詳しく載せるのは、中世になって成立した年代記・系図類である。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』『皇年代略記』が記す没年65歳から計算すると、生年は推古天皇30年(622年)か31年(623年)となる。これは天智天皇の生年である推古天皇34年(626年)の前である。これについては、65歳は56歳の写し間違いで、舒明天皇3年(631年)生まれだとする説が古く行なわれてきた。
1974年に作家の佐々克明がこの違いをとらえ、天武天皇は天智天皇より年上であり、『日本書紀』が兄弟としたのは事実を隠したものであろうとする説を唱えた。ここから主に在野の歴史研究家の間で様々な異説が生まれ、活発な議論が交わされた。佐々は天武天皇の正体を新羅の皇族金多遂としたが、小林惠子は漢皇子とする説を提起し、年齢逆転を唱える作家の間ではこれが有力なものとなっている。
私は違う手法(結婚適齢期仮説)を取ってみたいと思います。養老律令より、
戸令廿四 聴婚嫁條:凡男年十五。女年十三以上。聴婚嫁。
これは現在の様に「この歳」から結婚できるではなく、ニュアンス的には「この歳」まで結婚を禁じるの趣旨の法律であったとされます。あれこれ探ったのですが、奈良期の貴族は15歳ぐらいが平均結婚年齢であるとの研究はあるそうです。平安期になるともっと早くなっているとの説もありました。現在の感覚からすると相当な早婚で傾向が強かったと推測されています。そこで年齢推測として
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15歳で結婚する
- 漢皇子:610年生
- 天武:637年生
西暦 | 事柄 | 天智 | 漢皇子 | 天武 | 斉明 | 舒明 |
594 | 斉明誕生 | * | * | * | 0 | 1 |
610 | 漢皇子誕生 | * | 0 | * | 16 | 17 |
626 | 天智誕生 | 0 | 14 | * | 32 | 33 |
637 | 天武誕生 | 11 | 27 | 0 | 43 | 44 |
645 | 乙巳の変 | 19 | 35 | 8 | 51 | * |
653 | 十市皇女誕生、孝徳置去り事件 | 27 | 43 | 16 | 59 | * |
654 | 高市皇子誕生 | 28 | 44 | 17 | 60 | * |
672 | 天智崩御、壬申の乱 | 46 | 62 | 35 | * | * |
持統は13歳(657年)で天武に嫁いでいます。でもって草壁皇子を生んだのは662年、つまり18歳の時です。持統は天智の娘で、天智は持統も含めて4人の娘を天武に嫁がせていますが持統の姉に大田皇女がいます。大田皇女は大来皇子を生んでいますが大田皇子は661年生。大田皇女が持統の幾つ年上か不明ですが少なくとも18歳以上と考えて良さそうです。では若年出産が無理なのかと言えばかなり歴史が下りますが芳春院の例があります。芳春院は11歳で利家に嫁ぎ
- 12歳で長女幸姫
- 15歳で長男利長
- 16歳で次女蕭姫
斉明と高向王の結婚期間も微妙すぎるところがあって、漠然と2人は結婚したものの漢皇子だけ産んで高向王とは早めに死別した印象はあります。そうですねぇ斉明が20歳ぐらいでしょうか。ただ当時の王族の婚姻事情を見ていると20歳ぐらいなら次の結婚相手が湧いてくる感じがあります。たとえば用明の皇子の田目皇子。妻にしたのは厩戸の母です。そう高向王があんまり早く死に過ぎると田村皇子との再婚までの期間が長すぎ、そこまでに他の相手との再婚に至ってしまう可能性が大きくなります。いくら考えても答えは出ないところです。
「漢皇子 = 天武」であるなら乙巳の変時には35歳になっています。しかし乙巳の変では天武の影はまったく見られません。鎌足も19歳の天智をクーデターに誘ったぐらいですから、35歳の「漢皇子 = 天武」に接触しないのは不自然です。さらに壬申の乱の時には62歳です。これは幾らなんでも無理がある気がします。漢皇子をもっと若く見積もっても乙巳の変に登場しない不自然さは残ります。従って、
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漢皇子 ≠ 天武
これでスッキリかと言えばそうとは言えません。結婚適齢期仮説では天武は天智の11歳も年下になってしまいます。11歳も年下なら乙巳の変時に8歳ですからクーデターに誘われなかった事の説明は容易ですし、続く孝徳時代でも、孝徳紀より、
これは孝徳置去り事件の記述ですが「皇弟 = 天武」と解釈して良いはずで、この年に天武は16歳です。まだまだ政治的影響力は少なく、斉明・天智のミニ・クーデターに唯々諾々と従っていても不思議ないとは言えます。それは良いとしても問題は天武が生まれた時の斉明の年齢です。
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実に43歳!
西暦 | 事柄 | 天智 | 天武 | 斉明 |
594 | 斉明誕生 | * | * | 0 |
610 | 漢皇子誕生 | * | * | 16 |
626 | 天智誕生 | 0 | * | 32 |
631 | 天武誕生 | 5 | 0 | 37 |
645 | 乙巳の変 | 19 | 14 | 51 |
653 | 十市皇女誕生、孝徳置去り事件 | 27 | 22 | 59 |
654 | 高市皇子誕生 | 28 | 23 | 60 |
672 | 天智崩御、壬申の乱 | 46 | 41 | * |
そうなると女性側の問題はあった可能性は出てきます。最初の妻がなかなか妊娠から出産に至らなかった可能性です。持統しか例がありませんが、持統も13歳で嫁いで子どもが出来たのは18歳だからです。これもそれだけで説明して良いものかどうか自信がありません。結婚適齢期仮説による天武の年齢推定の問題点は、
どっちを取るかと言えば・・・斉明の超高齢出産を取りたいかなってところです。