エミの青春:二人の采女

 采女って何かだけど、問題の時代なら地方豪族が自分の娘を天皇に献上したもの。仕事は天皇や后の身の回りのお世話だけど、なにしろ容姿端麗が条件で美人揃いだった上に教養までバッチリだったで良さそう。地方豪族の服属の証が始まりぐらいだって。

 身分は高くなかったけど、江戸城の大奥の腰元みたいなものじゃない。当然お手付きは起るわけで、天智天皇の嫡男の大友皇子のお母さんも采女出身。どうもだけど、結構手を付けられるケースは多かったんじゃないかとコトリさんは見てた。

 手を付ければ子どもが出来るし、そのまま皇子や皇女になったのもいるけど、皇子や皇女の扱いは実母の出自によって変わるのがこの時代。采女の皇子や皇女は格が低ったんだって。これもさらにがあって、地方豪族でも大小があるから、これによる扱いの差もあっただろうってさ、

 もちろん格段に愛されて実家が引き上げられるケースもあったろうけど、言い方がモロだけどちょっと遊んで、出来ちゃったのは処理されたケースは確実にあったはずだって。これは時代の感覚としか言いようがないんだけど、天皇のお手付きになって孕んだ采女を臣下に下賜するってのもあったのよね。これが御褒美だって。

 「車持与志古娘が采女であった傍証はあります」
 「祇園女御か・・・」

 さすがは豆狸。平家物語流布本では、清盛の父である忠盛は白河法皇から御褒美に愛人の祇園女御を貰い受け、なおかつ貰った時には白河法皇の子を宿していたとしてるのよね。さらにそんなことは以前にもあったとしてるのだけど、

 『昔も天智天皇孕み給へる女御を大織官に賜ふとて `この女御の生めらん子女子ならば朕が子にせん `男子ならば臣が子にせよ `と仰せけるに即ち男を生めり `多武峰の本願定恵和尚これなり』

 これがある程度わかれば不思議な記述なのよね。だって、定恵が生まれたのは皇極天皇の時代で、そこから孝徳天皇が九年、斉明天皇の六年を経てやっと天智天皇なんだよ。

 「先生は天智天皇を取られますか、定恵を取られますか」
 「そ、それは・・・」
 「日本書紀に軽皇子は、皇極天皇三年の春に鎌足に寵妃の阿部氏を使わせて鎌足の世話をさせたとあります」
 「そうなんだが・・・」

 阿部氏は小足媛として歴史に記され、有間皇子を産んでるんだよね。でもさすがに小足媛が定恵を産んだとするのは、コトリさんも無理があるんじゃないかとしてた。

 「鎌足と軽皇子の関係の始まりが皇極三年正月からと見るのは素直すぎる気がします。それ以前からあり、それが記録に残るぐらい表面化したのが皇極三年の正月と見れないでしょうか」
 「その辺はなんとも言えないが・・・」
 「鎌足と中大兄皇子の関係は、鎌足が軽皇子を入鹿暗殺の同志として見切ってから始まったと考えています」
 「それが通説だが・・・」

 采女は天皇や后の身の回りのお世話が仕事だけど、皇子や皇女の世話もしたであろうとも考えられてるんだよね。軽皇子が成人して独立する時に采女が付けられたって不思議ないってところぐらい。とにかくこの時代の性関係は大らかだから、軽皇子が采女に手を付けて孕ますぐらいはあってもイイと思うとコトリさんは言ってた。

 「では軽皇子が采女であった車持与志古娘を孕ませ、これを鎌足に下賜したというのかね」
 「可能性として成立するぐらいです」

 定恵の落胤説には補強があるのよね。とにかく鎌足の記録に残る息子は二人しかいないんだよ。これにもビックリしたけど、定恵は六五三年の遣唐使船で唐に留学に行っちゃうんだよね。まだ十歳だよ。

 この時にまだ不比等なんて影も形もないんだよね。たった一人の跡取り息子を危険な航海させてまで唐に行かせるのは不可解すぎるってこと。これは鎌足が定恵を跡取りに絶対にしない宣言と見て良いとコトリさんは言ってた。

 入鹿暗殺があった乙巳の変の後に軽皇子は孝徳天皇になるんだけど、孝徳天皇と皇太子である中大兄皇子の関係は緊張感が増して行くのよね。その中で鎌足は孝徳天皇の落胤である定恵を厄介者扱いにしたんじゃなかって。

 「それは孝徳天皇が神道より仏教を重んじたからじゃ」
 「そうとも言えますが、中臣氏は祭祀を司る氏族です。僧になれば中臣氏からも排除されます」
 「う~ん、まあ、そうなんだが・・・だからと言って不比等が落胤とは・・・」
 「平家物語延慶本です」
 「あれを読んだのか!」

 平家物語も様々な写本系統があるのだけど、一番古いとされているのが延慶本。ここには、

 『天智天皇の御時に、孕み給へる女御を、大職冠預り給ふとて、「比の女御産なりたらむ子、女子ならば朕が子にせむ。男子ならば臣が子とすべし」と仰せられけるに、男子を産み給へり。養育し立てて、大職冠の御子とす。即ち淡海公是なり』

 淡海公とは不比等のこと。そう、こっちはモロに不比等落胤説なんだよね。

 「天智天皇は確実に采女を鎌足に授けています」
 「そうだな」
 「不比等の出生年とも違和感がありません」

 鎌足の歌は二首残されてるんだけど、一首は正室の鏡王女へのもの、もう一つが、

 『われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり』

 安見児が采女であるのは確実で、この時に天智天皇の子を孕んでいれば不比等は落胤になるし、時期的にもピッタリだろうって。

 「ならば不比等の母はなぜ車持与志古娘なのだ・・・いやその答えも出ているか」

 これはコトリさんも結果から見るしかないとしてたけど、天皇の落胤は別格で重視されたんだろうって。当時は今より遥かに血のつながりが重視されたけど、天皇の血が一族に入るのは無上の栄誉であり、一族の繁栄につながるぐらいかな。

 ただ天皇は絶対権力者でもあり、政争でその地位を争うものだから、天皇の落胤も誰が天皇かで翻弄されたと見るべきだって。定恵が孝徳の息子であるのは、天智の時代には鎌足の邪魔にしかならなかったぐらいかな。

 不比等が天武の時代を生きるには、天智の息子であるのは不都合だから、孝徳の由来の与志古娘の子と公式には称したのだろうって。与志古娘なら兄もいるから鎌足の子であるのは確実になるものね。これが持統の時代になって、天智の息子であるのが有利になると考えたのじゃないかって。

 「君たちは不比等が天智天皇の落胤であると主張するのかね」

 そしたら野川君が朗らかに笑って、

 「最初に言いましたが、あくまでも公卿補任に記録されるぐらい当時の常識と見て良いかと考えています。だからこそ平家物語延慶本にも清盛落胤伝説と並べられていると見て良いかと考えます」
 「まあそうだが」
 「不比等もその噂を積極的に否定せず、むしろ自らの立身出世に利用したと言うのが研究の結論です」

 これもコトリさんの結論。エミたちもコトリさんの不比等落胤説を聞きながら、もう絶対と思い込んでたけど、

 「歴史って欠けてるピースが多いやろ。欠けてるところを一生懸命探すのが学者、そこにあれこれ可能性を考えて楽しむのが歴女。このムックで言えるのは公卿補任に不比等落胤説が書いてあったと言うだけや。ホンマに落胤かどうかなんか、確認しようがあらへんよ」

 ここでいつもなら豆狸の嫌味が炸裂するところなんだけど、

 「高校生にしては調べた方だ。後で職員室に来るように」

 また嫌味を言われるかと思いながら行ったら、

 「歴史は教えてもらう物じゃなく、自分で探して楽しむものだ」

 ヤバイ、バレてたんだ。

 「良い勉強をしたな」

 これを見たこともないような朗らかな顔で言われて面食らっちゃった。それにしてもコトリさんは凄いな。豆狸の反応を全部読み切ってたものね。お礼に行ったら、

 「気にせんでエエで、コトリも楽しんだし。歴史好きが一人でも増えてくれたら満足や」