壬申の乱戦記 その3

今日はいよいよ決戦になります。天武が反旗を翻してから大友皇子自決までの様子を表にまとめてみます。

カレンダー 動向
天武進路 天武軍動向 近江朝 大伴吹負
6 22 吉野宮 美濃の多品治に挙兵要請の使者を送る * *
23 * * * *
24 兎田 → 大野 → 隠(名張 大伴朴本連大國、美濃王参加 * *
25 名張 → 伊賀中山 → 棘萩野 → 積植山口 → 川曲坂下 → 三重郡 高市皇子合流、500人合流 * *
26 三重郡家 → 朝明郡桑名郡 美濃3000人が不破関を塞ぐ、東海・東山に募兵部隊を送る 東国、倭京、筑紫、吉備に使者を送るが東国の使者は切られ、筑紫・吉備では断られる 数十人の同士を得る
27 * 尾張勢2万合流 * *
28 野上に進む * * *
29 * * 策を以て倭京の近江軍の指揮権を奪う
7 1 * * 乃楽に向かう
2 1.主力は近江へ

2.別動隊は伊勢方面へ

3.棘萩野と倉歴道に守備隊を置く
近江軍数万北上 *
3 * * 乃楽にて蘇我果安に惨敗
4 * * *
5 近江軍倉歴道を攻撃するも撃退される *
6 近江軍棘萩野を攻撃するも撃退される *
7 息長横河で近江軍敗北 吹負河内に進軍するも撃退される。これを聞いた天武伊勢方面軍が援軍を送る。箸墓付近にて近江軍を大破。大和鎮定に成功する。
8 * *
9 鳥籠山で近江軍敗北
10 * *
11 * *
12 * *
13 安川濱で近江軍敗北
14 * *
15 * *
16 * *
17 近江栗太軍敗北
18 * *
19 * *
20 * *
21 * *
22 瀬田決戦にて近江軍敗北 河内に進軍、平定する
23 大友皇子自決 *
漏れが若干あるかもしれませんが大凡こんな感じになります。反旗を決断して美濃に挙兵の使者を出してから30日間で大友皇子は自決に追い込まれているのがわかります。


吉野から桑名までの行程の検討

書紀にある地名の比定は微妙な点があるのですが、天武の東国行で議論の余地が多そうなのは6/25(2日目)の行程です。6/25は名張から出発して現在の伊賀上野方面に出て鈴鹿関を目指したのはわかります。ここで問題の地点は、

    川曲坂下
ここの地点で日が暮れたとなっています。これが鈴鹿関の西側なのか東側なのかです。当時も夜道は原則として避けたと思いますが、天武の東国行は夜道でも進みます。6/24(1日目)でも大野で日没を迎えていますが、そこから名張まで進んでいます。6/25もまたそうであったと見れますが、鈴鹿の峠道を夜間行軍したかどうかになるとさすがに疑問が残ります。天武紀には、

到川曲坂下、而日暮也。以皇后疲之暫留輿而息、然夜曀欲雨、不得淹息而進行。

川曲坂下あたりから雨に祟られたとなっています。結構な雨であったようでずぶ濡れになったとしています。夜道で雨に祟られながら鈴鹿の山道を越えるのはどう考えても無理があります。さらに6/24にはこういうエピソードが挿入されています。

是夜半、鈴鹿關司、遣使奏言「山部王・石川王並來歸之、故置關焉。」天皇、便使路直?人徴。丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大藭。是時、?人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨?人參來矣。

鈴鹿関から山部王・石川王を拘束したとの報告です。山部王・石川王は大雑把に近江方の皇族ぐらいの理解で良いかと思います。報告は2段に分かれていまして、

    第1報:「山部王・石川王を拘束した」
    第2報:「拘束したのは山部王・石川王ではなく大津皇子であった」
どうも大津皇子高市皇子と同様に天武が吉野に逃げた後も近江京に留まっていたようです。そして乱の発生で近江京から脱出してきたと考えて良さそうです。ルートは高市皇子と同様に甲賀を抜けて鈴鹿関に至ったと考えるのが妥当です。そうなると大津皇子は西から鈴鹿関に入った事になります。この報告は天武が

乃到三重郡家、焚屋一間而令熅寒者

この後に書かれています。三重郡家は川曲坂下から雨に祟られながら夜間行軍していた天武一行が寒さと疲労のため暖を取るために休息していた場所です。でもって第2報は朝明郡で受け取ったと書かれています。天武一行は、

  1. 昼間のうちに鈴鹿関を越えた川曲坂下で日が暮れた
  2. 雨の夜間行軍を続けたが三重郡家で休息した
  3. 三重郡家で鈴鹿関の第1報を受け取った
  4. 翌朝(6/26)未明に三重郡家を出発し朝明郡で第2報を受け取った
こう考えるのが妥当になります。文書の解釈的にはこれで問題ななそうなのですが、問題は実際の地理です。比定地は「だいたい」なのは御容赦頂きたいのですが、地図で示してみます。

三重郡家の比定地は四日市なのです。天武の6/25に踏破した行程は名張から四日市と言う事になります。ちょっと長すぎるんじゃないかの疑問が出てしまいます。天武一行は基本が徒歩であり、さらに天武の妻たちも同行しています。また水路の利用もあんまり出来る地形ではありません。伊勢まで出れば海路と言う手もありますが、雨の夜に海路が取れるとは思えません。伊勢に入ってからも陸路であったと考える他はありません。そんなに進める物だろうかの疑問が当然出てきます。


それでも天武は進んだと考えます

天武は乱を起こすに当たり準備工作を行っていたはずです。天武が頼りにしたのは美濃・尾張の勢力であったのは確実です。それをアテにして吉野からひたすら美濃・尾張を目指したの理解で良い気がします。吉野から美濃・尾張に進むには伊賀から伊勢を通らないといけません。この伊賀伊勢ルートの準備工作が十分でなかった気配が濃厚に窺われます。それなりに出来ていたので伊賀上野あたりで援軍を得たり、鈴鹿関も無事通過出来ていますが、天武に取って

    伊賀と伊勢、とくに伊勢は危険地帯である!
こういう認識で動いていたと考える方が筋が通りやすくなります。伊勢路を雨天であっても夜間強行突破したのは、急いだのもありますが、あえて夜間に伊勢を通り抜けようとした意図的なものであったとも感じています。つまり昼間では危ないぐらいです。伊勢を天武が危険視した傍証として天武紀に、

秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率數萬衆自伊勢大山越之向倭。且遣村國連男依・書首根麻呂・和珥部臣君手・膽香瓦臣安倍、率數萬衆自不破出直入近江。恐其衆與近江師難別、以赤色着衣上。然後、別命多臣品治率三千衆屯于莿萩野、遣田中臣足麻呂令守倉歴道。

これは美濃で有力な軍団を手に入れて、これから近江に進攻する前の時点の作戦です。天武は軍団を4つに分けています。2つは伊賀に配置して近江から伊賀方面への攻撃に備えています。残りのうち近江進攻軍は天武が率いているのは良いとして、もう一つは

    紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率數萬衆自伊勢大山越之向倭
素直に読めばこの別動隊は伊勢から大和に進むように読めますが、どうもこの伊勢方面軍は大和に素直に進軍しているように読めません。たしかに伊勢方面軍から大和に援軍を派遣をしていますが、これは大和の大伴吹負が近江朝軍に苦戦したたまに、さらなる別動隊を伊勢方面軍から編成して援軍として派遣したとなっています。つまりは伊勢に別動隊主力は駐屯していたと考えるのが妥当です。ではなんのためにになります。天武はこれから近江朝軍の中枢部に攻め込む訳ですから、軍勢を分割するのは戦術的に愚策です。

それでも軍勢の少なからぬ部分を伊勢方面に割り当てなければならない必然性があったと考えるべきじゃないかと考えます。もっと言えば伊勢に有力な軍団を駐屯させるのが天武に取って絶対の選択枝であったと言えば良いでしょうか。考えようによっては伊賀に配置した守備隊も妙です。なんのために配置したかです。大和との連絡路の確保と見ても良いのですが、そうではなく近江朝側と伊勢との連絡路の斜断の為と見れないでしょうか。ポイントは近江朝の右大臣が中臣金であり、伊勢国造が中臣氏であると見ています。近江朝側の戦術として天武の背後の伊勢を動かすのは常套手段ですし、それを天武が非常に懸念していたぐらいです。


これぐらいの理由で天武は6/25に無理に無理を重ねても実際に昼夜兼行の強行軍を行ったと考えています。