壬申の乱戦記 その4

恥ずかしながら天武紀を読むまで大友吹負って人物を知りませんでした。でも調べるとかなり興味深いものがあります。頑張ってまとめてみます。


挙兵から乃楽の戦いまで

壬申の乱では近江が主戦線になりますが、大和でも戦線が構成され戦いが繰り広げられています。大和で天武方を指揮したのが大伴吹負です。吹負は天武紀より、

當是時、大伴連馬來田・弟吹負、並見時否、以稱病退於倭家。然知其登嗣位者必所居吉野大皇弟矣。是以、馬來田、先從天皇。唯吹負、留謂立名于一時欲寧艱難。即招一二族及諸豪傑、僅得數十人。

兄の馬來田とともに天武に一味していたと思われます。兄の馬來田は天武の東国行に従ったようですが、吹負は大和に留まります。吹負は策略をもって倭京に集まりつつあった近江軍を奪取し大和に第二戦線を築いたとされています。動きを追ってみると近江朝側が天武反旗の動きを知ったのは6/26です。その日に

以穗積臣百足・弟五百枝・物部首日向遣于倭京

この3人が大和へ使者として送られています。送られているのですが、大伴吹負の策略が行われたのは6/29です。その頃の倭京には留守番役の高坂王がいて大津京から派遣された3人と兵を集めたとなっていますが、近江京から倭京まで1日ぐらいかかります。6/26に大津京を立った穗積臣百足・弟五百枝・物部首日向が倭京に到着するのは早くてその日の夕ぐらいになると考えられ、これは6/26夕から6/29の3日足らずの間になります。当時の徴兵ペースは調べようがありませんが、3日足らずでどれぐらいの兵力を集められたんでしょうか。

ただなんですが大伴吹負の同志も

即招一二族及諸豪傑、僅得數十人。

数十人しかいません。倭京に集まっていた近江朝側の軍勢を蹴散らしてしまったなら、そこから新たに軍勢を集める必要が出てきます。新たに募兵していない証拠として大伴吹負は、

庚寅、初向乃樂

庚寅とは7/1であり6/29の翌日です。乃楽とは奈良坂にほぼ比定できますから策略の翌日には軍勢を北上させています。それが可能になるには大友吹負が倭京に集まっていた近江朝軍を乗っ取らないと不可能です。まあ当時の軍勢は徴兵でしたから、兵が戦国期の様に将に向って忠誠を持っていた訳じゃありません。将が変わればスンナリ従ってしまったぐらいに解釈せざるを得ません。さて吹負は倭京からどんなルートで北上していたかですが

初、將軍吹負向乃樂至稗田之日

稗田は大和郡山市に比定されます。つまり大伴吹負は下つ道を北上していた事になります。この「稗田之日」ってのが特定はされていないのですが推測してみます。つうのもこの日に吹負は軍勢を西にも向けています。河内の近江朝軍の動きを知ったからとなっています。吹負は河内から大和への主要ルートである

  • 龍田




  • 大坂


  • 石手道


      これがはっきりしません。記載が北から並んでいそうなので、竹内街道よりさらに南側になると考えれば水越峠があるにはあります。ただ個人的には竹内街道から分かれる穴虫峠越のルートの方が有力な気がしています。
この3方面に軍勢を差し向けたとなっています。このうち龍田に向った坂本財の軍勢は高安城を占領します。占領と言っても近江朝側は戦わずに逃げています。占領した後にどうなったかですが、

會明臨見西方、自大津・丹比兩道軍衆多至、顯見旗幟

「會明臨見西方」をどう読み下すか悩んでいるのですが、私は夜明けに西側を見たら近江朝の軍勢が見えたぐらいに解釈しています。この日に坂本財は高安城を出て衞我河で近江朝軍と戦っています。衞我河は石川とおおよそ比定されています。石川のどこかは不明ですが高安城からの地理を考えると大和川と石川の合流部に近い道明寺あたりじゃないかと推測します。龍田道の防衛で高安城の戦略的意味合いですが、高安城は龍田道の入り口あたりに位置し河内方面からの侵入を阻止するために築かれたはずです。坂本財もそのために高安城を占領したはずです。それなのに何故に城から出て戦ったですが、おそらく

乃近江軍、知財等來、以悉焚秋税倉、皆散亡

近江朝軍は戦わずして逃げていますが税倉を焼いています。つまり高安城に兵糧米は無いって事になります。兵糧がなければ籠城しても飢えるだけですから城を出て戦ったと見ます。もう一つ可能性はあると思っています。高安城は龍田道への入口防衛の拠点ですが、逆に言うと河内進攻の拠点にもなり得ます。高安城を拠点として河内進攻も狙っていた可能性です。後述しますが大伴吹負の当初の戦略構想は「近江朝軍はすぐには攻め寄せて来ない」がどうにもある気がするからです。どっちにしても高安城と言う拠点を持つ時点で坂本財の軍勢は河内方面軍の中核部隊と推測します。ではどれぐらいの軍勢だったかですが、

  • 龍田・・・三百軍士
  • 大坂・・・數百人
  • 石手道・・・數百人
こうなっていますが、坂本財が300人として残りは数百人ではなく百数十人じゃなかったかと考えます。つまりは大伴吹負の河内方面軍は全部で500〜600人弱程度であったぐらいです。さて問題は坂本財がいつ近江朝軍と戦ったかですが、

經一日、近江軍當諸道而多至。卽並不能相戰、以解退。是日將軍吹負、爲近江所敗、以特率一二騎走之

大伴吹負が乃楽山で大野(蘇我)果安に敗れたのが7/3です。同日に坂本財も壹伎韓國に敗れています。大伴吹負が乃楽に出発したのが7/1ですから、坂本財はせめて7/2のうちに高安城を占領する必要があります。ここから考えると

  • 7/1・・・大伴吹負、倭京から乃楽に向かう
  • 7/2・・・稗田にて河内方面軍を送り出し乃楽に向かう。同日中に坂本財は高安城を占領
  • 7/3・・・吹負は乃楽で、坂本財は衞我河で近江朝軍に惨敗
それと大伴吹負は乃楽の戦いの前に軍をさらに分けています。

時、荒田尾直赤麻呂、啓將軍曰、古京是本營處也、宜固守。將軍從之。則遣赤麻呂・忌部首子人、令戍古京。於是、赤麻呂等、詣古京而解取道路橋板・作楯、堅於京邊衢以守之

乃楽の戦いの時点で大友吹負が率いていた軍勢はどれほどだっただろうです。河内方面には500〜600人ぐらいと推測しましたが、乃楽の戦いの前に倭京守備に割いた兵力は200人ぐらいじゃないかと見ています。残りはって事になりますが1000人弱じゃなかろうかと思っています。そうなると2000人弱程度の推測が出てきます。いやもっと少なくて、

  • 河内方面500人
  • 倭京守備200人
  • 乃楽800人
全部で1500人ぐらいの方が現実的な気がしています。近江朝側は河内方面から壱伎韓国が、奈良坂方面には蘇我果安が攻め寄せていますが、おそらく大伴吹負軍よりも少し多いぐらいじゃなかったかと推測します。理由はどちらの大伴軍も戦っているからです。近江朝軍が数倍の戦力で攻め寄せて来たのなら・・・そりゃ、逃げるでしょう。そうですねぇ、河内方面が500人ぐらい、乃楽方面が1200人ぐらいの合わせて1700人ぐらいです。ここまでの推測をまとめてみます。
カレンダー 動向
天武軍動向 近江朝 大伴吹負
6 22 美濃の多品治に挙兵要請の使者を送る * *
23 * * *
24 大伴朴本連大國、美濃王参加 * *
25 高市皇子合流、500人合流 * *
26 美濃3000人が不破関を塞ぐ、東海・東山に募兵部隊を送る 東国、倭京、筑紫、吉備に使者を送るが東国の使者は切られ、筑紫・吉備では断られる 数十人の同士を得る
27 尾張勢2万合流 * *
28 * * *
29 * * 策を以て倭京の近江軍の指揮権を奪う
7 1 * * 乃楽に向かう
2 1.主力は近江へ
2.別動隊は伊勢方面へ
3.莿萩野と倉歴道に守備隊を置く
近江軍数万北上 稗田にて河内方面軍を分割。高安城を占領。倭京にも守備隊を割く
3 * * 乃楽、衛我河で近江軍に敗北
おおよそこんな感じです。個人的な感想ですが大伴吹負は書紀では河内方面に近江朝軍が現れたから軍勢を派遣したとなっていますが、なんとなく違う感じを持っています。もう少し甘い観測で吹負は動いていた気がしています。上手く挙兵できたので近江朝側が立ち上がる前に大和だけでなく河内も制圧してしまおうとの目論見であった気がしています。大和の制圧のためには奈良坂を押さえる必要があり北上していますが、同時に河内方面の作戦も行うために下つ道を選んだと思っています。それと吹負は乃楽には近江朝軍より先着しています。

壬辰、將軍吹負、屯于乃樂山上

これを壬辰(7/3)に乃楽山に陣取ったのか、前日の7/2に陣取ったのかは解釈が分かれるところですが、7/1に倭京を出陣している訳ですから7/2には乃楽山に陣を構えていたと考えます。7/3に倭京に守備隊を割く話が出ていますから、朝の時点では近江朝軍接近の情報は大伴吹負の手になかったと考えるのが妥当です。あれば戦いを前にして兵力を分散する事はないと思います。吹負にすれば乃楽山に陣を構えて宇治方面への進出も構想していた気がしています。宇治に出れば近江朝軍の近江と河内の連絡を遮断できるからです。

吹負の基本戦略は近江朝側の対応は「遅いはず」が基本だったと私は見ています。近江朝側が立ち上がる前に占領地を素早く確保してしまおうが戦略の基本で、そのために手広く兵力を配置したと見ています。ところが吹負の想像以上に近江朝軍の反応は早く、乃楽でも衛我河でも敗北を喫したと考えています。それと乃楽で吹負に快勝した果安ですが、

於是、果安追至八口、仚而視京毎街竪楯、疑有伏兵乃稍引還之

吹負が倭京守備に割いた軍勢の防衛体制を見て追撃をやめたとなっていますが、

時、近江命山部王・蘇賀臣果安・巨勢臣比等、率數萬衆將襲不破而軍于犬上川濱

これは辛卯(7/2)の記事を受けての「時」です。不破方面からの天武軍侵入の報告があり果安は吹負に快勝した時点で近江戦線への転進指示を受けた可能性が高いと考えます。近江朝側にしても主戦線は不破からの天武軍であると考えるのが常識ですから、吹負征伐に出していた果安軍を大和で使うより近江に投入したとする方が自然と考えます。地形図での大伴吹負の動きを示しておきます。


乃楽の後

ここまでは日付がある程度特定できるのですが、ここからが曖昧になります。書紀では引き続きで當麻の戦いの描写になるのですが、その前に西と北で敗れた吹負がどこに逃げたかです。

逮于墨坂遇逢菟軍至

墨坂は榛原に比定されるようです。書紀で幾度か出てきた桜井の西方の菟田方面になります。奈良盆地に留まれず山の中まで逃げ込んだぐらいでしょうか。ここで菟軍なんですが、これはどうもなんですが

戊戌、男依等、討近江將秦友足於鳥籠山、斬之。是日、東道將軍紀臣阿閉麻呂等、聞倭京將軍大伴連吹負爲近江所敗、則分軍、以遣置始連菟、率千餘騎而急馳倭京。

戊戌とは7/9になります。この時に置始菟が1000人が大伴吹負の援軍に派遣されています。この軍と吹負は合流に成功したようです。でもって東道將軍紀臣阿閉麻呂とは

秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率數萬衆自伊勢大山越之向倭

7/2に美濃から「伊勢大山越之向倭」に向かわせた軍勢の将軍ぐらいで良さそうです。ちょっと妙な気がしませんか。7/3に大伴吹負軍は大敗を喫しています。すぐさま援軍の要請を行ったはずですが、紀阿閉麻呂が援軍を派遣したのはその6日後になります。ちょっと長すぎる感じです。ここで考えるのは大伴吹負はどういうルートで援軍要請を行ったのだろうかです。普通に考えれば「伊勢大山越之向倭」に向っていた紀阿閉麻呂に直接要請したように感じますが、墨坂からの吹負の使者が6日もかかるのはどう考えても変です。ここで注目したいのは、

乙卯、將軍等向於不破宮、因以捧大友皇子頭而獻于營前

これは瀬田川決戦の後になる個所ですが乙卯は7/26になります。この時に将軍たちは不破宮に向かうとなっています。不破宮とは不破関に置いていた天武の行在所として良いはずです。これも書紀で読むまで私も知らなかった事ですが、天武は不破から壬申の乱の決着がつくまで動いていない事が確認されます。そうなると吹負が援軍を要請するにしても天武に直接連絡を取る必要があったんじゃないかと考えます。つまり

こういうルートで行われたと考えた方が良さそうです。だから6日もかかったと考えます。さて問題は紀阿閉麻呂がどこにいたかです。書紀では7/2に「伊勢大山越之向倭」に向ってはいます。気になるのはここで出てくる大山越です。どこのことなのかです。これの比定として2008年3月滋賀県文化財保護協会紀要21号「下川原遺跡の再検討」に

なお、壬申の乱の際には、野洲川本流沿いを通る道の名称は不明であるが、杣川沿いを通る道が「大山越」または「倉歴道」として名が見える。

ちょっと待った、ちょっと待った「大山越 = 倉歴道」なら近江と伊賀を結ぶ道になります。そうなると「伊勢大山越之向倭」とは美濃から鈴鹿関を通り、

  1. 大山越で近江を目指す軍勢
  2. 大和に向かう軍勢
こうだったんだろうかになります。しかしこれは妙な配置になります。天武も近江と伊賀を結ぶルートの防衛を重視しています。具体的には7/2に倉歴道と莿萩野に守備隊を派遣しています。紀阿閉麻呂の軍勢の動きと重複する上に倉歴道と莿萩野は近江軍に襲撃され、紀阿閉麻呂の軍勢がそれに参加した形跡はどこにもありません。「伊勢大山越之向倭」に向ったはずの紀阿閉麻呂はどこに行ったのだ?になります。


紀阿閉麻呂と伊勢大山越之向倭を考え直す

どうも私は大きな思い違いをしている様です。問題の文章は7/2の

    伊勢大山越之向倭
ここに「伊勢」って書いてあるので紀阿閉麻呂は絶対に伊勢方面に動いたはずだと思い込んでいました。しかし調べてみると大山越とは倉歴道指すものである事が判明しました。そうであれば「伊勢大山越」はセットにして読むべきと考えます。そう「伊勢大山越」で一つの地名と言う事です。旧分国では伊勢と伊賀は別の国ですが、壬申の乱当時は伊賀・伊勢・志摩を合わせて伊勢なんです。つまり
    伊勢大山越 = 倉歴道
こうなります。倉歴道を越えて大和に向かうとはこういうルートを指すと考える方が妥当です。妥当なんですが7/2の時点でそんな作戦を天武が紀阿閉麻呂に示すだろうかになります。7/2の時点では大伴吹負が大和で挙兵に成功したかどうかの情報も天武は手にしていなかった可能性が高いと考えます。つうか大和に紀阿閉麻呂を向かわせたいのなら、近江から大和に向かわせずに伊勢経由で大和に進ませればよいからです。書紀の記述は7/2の時点で紀阿閉麻呂を「伊勢大山越之向倭」としていますが、実はそうでなく結果としての行動がそうなったと解釈する方が良いと考えます。

つまり紀阿閉麻呂は不破から天武軍主力の一角として近江に侵入したんだろうです。そして7/7に息長横河、7/9に鳥籠山と近江朝軍の戦いに参加したです。この7/9の鳥籠山の時点で天武から大和救援の指示を受けたと考えます。次なる疑問は

則分軍、以遣置始連菟、率千餘騎而急馳倭京

これは無理じゃないかです。近江から倉歴道を通るには野洲方面の近江朝軍を駆逐する必要があります。7/9時点の鳥籠山は彦根付近に比定されますから、援軍を派遣するにも敵中突破になります。倉歴道が通れるようになるのは7/13に安河濱で近江朝軍に勝ってからになるとするのが妥当です。安河濱とは野洲川の河口部付近を指すとしてよく、倉歴道は野洲川を遡り、そこから杣川に沿って甲賀方面に向かう道を指します。7/13に安河濱で勝ってからでないと大和に援軍は送れないと考えます。

この時の先発隊が置始菟であり、続いて紀阿閉麻呂が援軍主力を率いて大和に向ったと考えます。7/9に分軍を急派したと言うのもやや文章を飾ってあり、7/9時点で倉歴道が通れるようになれば大和に援軍に向えではなかったかと推測します。こうやって考えると近江の天武軍の動きの一つが説明がつきます。天武軍は7/13に安河濱で近江朝軍に勝っていますが、次の最終決戦の瀬田川戦は9日後の7/22です。つまり9日間あります。なぜにこの9日間があったかですが、大和に紀阿閉麻呂を援軍として派遣したため、その穴埋めの増援軍の到着を待っていたんじゃなかろうかと考えています。
最後に地形図を示しておきます。