壬申の乱戦記 その5

大伴吹負の戦いを地理から再考します。


挙兵から乃楽の戦いまで
カレンダー 動向
天武軍動向 近江朝 大伴吹負
6 22 美濃の多品治に挙兵要請の使者を送る * *
23 * * *
24 大伴朴本連大國、美濃王参加 * *
25 高市皇子合流、500人合流 * *
26 美濃3000人が不破関を塞ぐ、東海・東山に募兵部隊を送る 東国、倭京、筑紫、吉備に使者を送るが東国の使者は切られ、筑紫・吉備では断られる 数十人の同士を得る
27 尾張勢2万合流 * *
28 * * *
29 * * 策を以て倭京の近江軍の指揮権を奪う
7 1 * * 乃楽に向かう
2 1.主力は近江へ
2.別動隊は伊勢方面へ
3.莿萩野と倉歴道に守備隊を置く
近江軍数万北上 稗田にて河内方面軍を分割。高安城を占領。倭京にも守備隊を割く
3 * * 乃楽、衛我河で近江軍に敗北
書紀で日取りが確実なのは6/29の挙兵、7/1の出陣、7/3の敗戦です。最初の大伴軍の動きを考えた時に古道の要素を入れるのを忘れていました。吹負が乃楽に進むにしても河内方面に備えるしても古道を利用したと考えるのが自然で、当時の高速道路みたいなものだからです。吹負が倭京から出陣したのは書紀にありますから、まず倭京から北上して横大路に出る事になります。そこから西に進み下つ道との出会いに着きます。書紀では稗田で軍を分割したように書いてありますが地理的には、
  1. 吹負の本隊は下つ道を北上
  2. 坂本財は筋違道から龍田道を目指す
  3. 蝦夷、佐味少麻呂は横大路をさらに進み當麻に進む
こうであったと考えます。龍田道に進んだ坂本財は高安城を攻撃しますが、後詰に紀大音が登場します。これは坂本財が高安城を攻撃するので吹負に後詰を要請した結果と見たいところです。坂本財の高安城攻撃は平石野(現在の龍田付近、亀の瀬の東側あたりに比定される)で思いついたとなっていますから、その頃に稗田にいた吹負本隊から紀大音が派遣され横大路を西に向かって龍田に至ったぐらいの感じです。地理的なイメージとして、

こんな感じです。軍勢的に坂本財が300人で鴨蝦夷と佐味少麻呂が数百人となっていますが、坂本財は実数に近い感じがします。一方で鴨蝦夷と佐味少麻呂は多すぎる感じがします。理由として頭立つ大将の列挙数です。

  • 坂本財軍・・・坂本臣財・長尾直眞墨・倉墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂
  • 蝦夷軍・・・鴨君蝦夷のみ
  • 佐味少麻呂軍・・・佐味君少麻呂のみ
「数百人」は「数十人」いや下手すると「十数人」かもしれないと思っています。さすがに「十数人」は少なすぎるので「数十人」とは思いますが、鴨蝦夷軍と佐味少麻呂軍と合わせて100人足らずでなかったかと見ます。それと距離的に倭京を出発して1日で到着してもおかしくないと思います。それでも大伴吹負は途中で募兵する関係もあって稗田に泊まったぐらいでしょうか。坂本財が高安城を攻撃した様子は天武紀に

是日、坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍、知財等來、以悉焚秋税倉

「是日」は「稗田之日」で良いはずです。「稗田之日」が7/1なのか7/2なのか微妙ですが、おそらく坂本財は全軍で高安城攻撃に当たり、後詰に増派されたのが紀大音が懼坂に陣地を作っていたとなっています。懼坂とは亀の瀬の険路と比定して良さそうで、おそらく坂の上あたりに陣地を構築していたのでしょう。。紀大音がどれほどの軍勢であったかも不明なのですが、これも50〜100人程度・・・やっぱり数十人かなぁ?


もう一方の鴨蝦夷軍と佐味少麻呂軍ですが、

  • 蝦夷軍は石手道
  • 佐味少麻呂軍は大坂
こうなっています。これも古道を確認してみると、大坂は竹内峠を越える竹内街道と比定して良さそうです。もう一方の石手道が問題です。この道はどうやら二上山から古墳築造のための石材を切り出した道と考えるのが良いと考えています。具体的には竹内街道から岩屋峠を越え當麻に至る道です。しかしそんなところを守っても戦略的に意味が乏しいところです。当時の街道は二上山を南北に挟んで北に長尾道、南に大坂道が整備されており、この2つの道を結ぶ道が穴虫越と岩屋越になります。當麻は当時「當麻衢」と呼ばれ、大坂道、長尾道、横大路が結ばれる地点になります。鴨蝦夷軍と佐味少麻呂軍が横大路を當麻まで進んで来て河内方面からの進攻に備え二手に分かれるのなら、
  • 佐味少麻呂軍は大坂道の竹内峠付近
  • 蝦夷軍は長尾道と穴虫越が出会う田尻峠付近
これぐらいが戦略的に妥当と考えます。推測図を示します。

推測図を作ってみるとわかるのですが、河内から大和進むには龍田道、長尾道、大坂道の3つがありますが、それらの道は大和川と石川の合流部付近で一つになります。ちょうどその地点に高安城が位置している事になります。高安城は河内から大和への進攻を阻止する戦略ポイントになるのがわかります。つうかその目的のために高安城は作られたと考えるのが妥当そうです。そうは見えるのですが近江朝軍は戦わずに逃げていますし、坂本財も城から出て衛我河で壱伎韓国軍と戦っています。当時は城は作っても籠城しようとする考えは薄かったのかなぁ。もっとも坂本財の場合は退却した近江朝軍が税倉、つまり兵糧を焼いてしまったので籠城しにくかったのかもしれません。

ここで兵力の推定をもう一度やっておきますが、

  • 龍田道の坂本財が300
  • 蝦夷軍と佐味少麻呂軍が50ずつの合計100人
  • 龍田道への増援軍の紀大音が50人
全部で450人ぐらい。多くて500人ぐらいとみます。吹負の本隊もまったく不明なのですが、乃楽山で倭京守備隊を割いています。これが100人程度と見て残りは・・・500人ぐらいじゃなかったかと見ます。全部合わせて1000〜1100人程度ぐらいの見方です。坂本財と戦った壱伎韓国軍と吹負と戦った蘇我果安軍はもうちょっと多いぐらいで、壱伎韓国軍が500、蘇我果安軍が800人ぐらいの合計1300人ぐらいじゃなかろうかです。古代の動員力であってもこれぐらいはいそうな気がします。

勝敗の境目はほぼ互角の兵力ではありましたが、微妙に兵力分散が多かった大伴軍の方が局所で数的劣勢に陥り敗北したぐらいを考えています。乃楽方面は詳細がまったくわかりませんが、河内方面で言えば全軍を束ねて高安城に籠っていれば壱伎韓国軍の大和侵入を阻止できた可能性はありそうに思います。もっとも坂本財が奮戦して高安城で壱伎韓国軍を阻止しても、乃楽で吹負本隊が敗北していますから結果としては同じにはなります。坂本財がいくら高安城で奮戦しても蘇我果安軍が龍田道に進んで来たら包囲全滅の可能性が出てくるからです。

この辺の初期の記述も実は微妙で衛我河で敗れた坂本財は懼坂に撤退し紀大音軍と合流しています。見ようによっては第二抵抗線に引き下がったと見えない事もありません。そこから

經一日、近江軍當諸道而多至。即並不能相戰、以解退

これは吹負の本隊が乃楽で敗北した情報を知って退却したと考える方が良い気もしています。


壱伎韓国軍

衛我河で快勝した壱伎韓国ですが、その後の動きが停滞します。書紀で確認できるのは大伴吹負が置始菟の援軍を墨坂で得て反撃に移った時に當麻にいた事だけです。壱伎韓国の進撃が遅れた原因として、

是時、河内國司守來目臣鹽籠、有歸於不破宮之情、以集軍衆。爰韓國到之、密聞其謀而將殺鹽籠。鹽籠、知事漏、乃自死

ここも読みようなのですが、とりあえず河内国造(この当時に国司はまだいないので)であった来目鹽籠が天武に内応しようとしていたのはわかります。この鹽籠ですが「どうも」衛我河の戦いに参加していなかったと見たいところです。河内で韓国への増援軍の募兵をやっていたぐらいです。この鹽籠に謀反の噂が立ちます。鹽籠は謀反情報が洩れて自殺したとなっていますが、韓国はこの処理のために一旦河内に引き上げたと私は見ます。そうでも考えないと大伴吹負との2回戦の経緯が説明しにくくなるからです。


置始菟軍の到着時期

吹負は7/3に乃楽で敗北を喫した後ですが

是日將軍吹負、爲近江所敗、以特率一二騎走之。逮于墨坂遇逢菟軍至、更還屯金綱井而招聚散卒

ここだけ読めば吹負は乃楽の敗戦後から早い期間に菟軍と合流している様に感じますが、そうは問屋が卸さないところがあります。「菟軍 = 置始菟軍」としか解釈できないのですが、置始菟はそもそもどこに属していたかになります。

秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率數萬衆自伊勢大山越之向倭

7/2に紀阿閉麻呂を主将とする軍勢に属していた事が判ります。この紀阿閉麻呂軍の進路は、

    伊勢大山越之向倭
ここの解釈は前にやりましたが「伊勢大山越を経て大和に向う」としか取り様がありません。「伊勢大山越 = 倉歴道」であり、倉歴道とは野洲川を遡りさらに杣川沿いを遡り甲賀方面から伊賀上野に向う道になります。そういうルートが可能になるには紀阿閉麻呂軍が湖東を南下して野洲川方面を制圧しないと無理になります。さらに言えば7/2の時点では大伴吹負軍敗戦の前です。付け加えれば吹負の挙兵は6/29ですから、吹負が挙兵に成功したかどうかの情報を天武が手にしていたかも疑問です。吹負から天武への情報ルートは、こうなりますから無理そうに感じます。天武が紀阿閉麻呂に与えた指令の解釈ですが、
  1. 7/2の時点で紀阿閉麻呂に大和攻撃の指令を下していた
  2. 結果として紀阿閉麻呂軍はそういう進路を取った
この2つの可能性がありますが、私は基本的に2.の解釈を取っています。どちらにしても置始菟が属していた紀阿閉麻呂軍は湖東を南下し
  • 7/7に息長横河戦(長浜)
  • 7/9に鳥籠山戦(彦根
こう動いていたと推測しています。でもって紀阿閉麻呂が大和への援軍指令を受けたのが

戊戌、男依等、討近江將秦友足於鳥籠山、斬之。是日、東道將軍紀臣阿閉麻呂等、聞倭京將軍大伴連吹負爲近江所敗、則分軍、以遣置始連菟、率千餘騎而急馳倭京

ここも注釈がいるのですが「男依」とは

且遣村國連男依・書首根麻呂・和珥部臣君手・膽香瓦臣安倍、率數萬衆自不破出直入近江

村国男依軍は近江進攻の主力軍です。先ほど紀阿閉麻呂軍も湖東を南下しているとしましたが、あえて考えると天武の近江進攻軍の構成は、

  1. 村国男依軍は先発隊で息長横河、鳥籠山と戦った
  2. 紀阿閉麻呂軍は編成中で7/9時点でも不破にまだいた
この可能性ぐらいは残るのは残ります。ただそれならですが大伴吹負が乃楽で敗れたのが7/3ですから、吹負敗戦の情報が届くまでに6日間もかかった事になります。墨坂〜不破の間の急報が6日間はチト長すぎるので、私は村国男依軍と紀阿閉麻呂軍は同行しており、不破の天武から大和救援指令を受けたのが彦根付近であったとしたいところです。いずれにしても置始菟が大和に向ったのは7/9になります。

天武軍は息長横河・鳥籠山と連勝していますが、近江朝軍は湖南部には健在です。そのため次の戦いは7/13の安河濱になります。安河濱は野洲川の河口部と比定して良いでしょうから、安河濱戦の前には倉歴道を天武軍が通るのは無理だったと見たいところです。そうなると置始菟軍が7/9大和救援に向かったとしても

    鳥籠山 → 不破 → 鈴鹿関 → 墨坂
こういうルートにならざるを得ません。これを踏破するには、そうですねぇ、最低でも4日間は必要と考えます。そうなると置始菟軍が墨坂で吹負と合流するのは7/13になります。それ以上の短縮は難しいと考えます。日程表を出しておきます。
事柄
7 3 大伴吹負、乃樂で敗北
4
5
6
7 息長横河戦
8
9 鳥籠山戦。置始菟大和に向う
10
11
12
13 墨坂で吹負と置始菟合流
14
當麻戦

7/13に置始菟軍との合流を果たした大伴吹負ですが、即日當麻戦に挑んだわけではありません。

先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、儵忽口閉而不能言也。三日之後、方着藭以言「吾者高市社所居、名事代主藭。又身狹社所居、名生靈藭者也。」乃顯之曰「於藭日本磐余彥天皇之陵、奉馬及種々兵器。」便亦言「吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言「自西道軍衆將至之、宜愼也。」言訖則醒矣。

吹負は墨坂から金綱井に進出して募兵をやっています。この募兵期間中に高市許梅による神託エピソードがあるのですが、これを吹負の仕込みと考えても3日間は募兵期間がある事になります。そうなると當麻戦は最短で7/16になります。壱伎韓国が7/3の衛我河戦の後に大和進出に手間取ったのは来目鹽籠の謀反騒ぎの処理と考えていますから、韓国がこの時期に大坂道なり、長尾道を通って當麻に進出して来ても必ずしも遅いとは言えないと考える事にします。つうか當麻戦はこれ以上は遅く設定しにくいところがあります。理由は単純で、

おそらくこの時には置始菟軍と吹負が金綱井で集めた軍で壱伎韓国軍を撃破したと考えています。


大和最終戦までの間

紀阿閉麻呂は7/13の安河濱戦で倉歴道(伊勢大山越)が通行可能になりますから、7/16〜7/17頃に大和に到着したと考えます。當麻戦と同時か直後ぐらいです。その表現が、

時、東師頻多臻

「時」とは當麻戦の勝利の時に掛けてあると読むのが妥当だからです。最終戦がいつ行われたかですが金綱井の神託のところに、

故未經幾日、廬井造鯨軍、自中道至

廬井造鯨軍は近江朝軍の犬養五十君に属しています。3日後の神託直後に當麻戦があったと考えると最終戦は翌日か翌々日ぐらいであっても不思議有りません。7/17か7/18でしょうか。それ以上遅いと瀬田川決戦とほぼ同時になってしまいます。これは後で考察しますが、近江戦線は7/13の安河濱から7/22の瀬田川まで9日間あります。大和最終戦瀬田川がリンクしているはずですから、大和最終戦の結果を受けて瀬田川が行われたと見たいからです。それと書紀をそのまま読めば當麻戦の記述の次に「時」として最終戦の記述が始まります。これを同日と読むか、翌日読むかですが、

  1. 同日であれば早朝に當麻の壱伎韓国軍を撃破し、昼ないし午後から犬養五十君軍と戦う
  2. 翌日であれば前日に當麻の壱伎韓国軍を撃破し、翌日に犬養五十君軍と戦う
近江戦線との関連を考えると、とにかく當麻戦から最終戦までの間は短いとは推測されます。同日にしても良いぐらいですが、同日なら大伴吹負軍は1日に2戦を戦う必要があります。翌日なら犬養五十君は壱伎韓国軍が退却した事を知った上で決戦を挑んだ事になります。どっちなんだろうと言うところですが、結果として壱伎韓国軍が敗北してもなお犬養五十君は天武軍に決戦を挑んでいるのだけは判ります。


両軍の作戦推理

犬養五十君の動きですが

近江將犬養連五十君、自中道至之、留村屋

さらっと読めば中つ道を南下してきた犬養軍が天武軍の動きを見て村屋に本陣を構えて決戦に備えたぐらいに読めます。村屋がどこになりますが、比定地として村屋坐弥富津比売神社であれば中つ道の東側になります。ただ村屋坐弥富津比売神社はもともとは、もう少し西側(約200m)の初瀬川沿いにあったとされ、そこまで西に寄れば中つ道と下つ道の中間ぐらいになります。もう少し言えば村屋坐弥富津比売神社と村屋神社は延喜式では別であったされ、村屋神社が村屋坐弥富津比売神社の境内に摂社として移動した話が書かれています。この村屋は神託由来の地で

村屋藭着祝曰「今自吾社中道、軍衆將至。故宜塞社中道。」故未經幾日、廬井造鯨軍、自中道至

意味は「我が社がある中つ道に軍勢が来るので、中つ道を封ずるべし」ぐらいでしょうか。犬養軍が中つ道を進んで来たのはわかりますが、なぜに中つ道なんだろうと言うところです。たいした疑問ではありませんが、壱伎韓国軍との合流を目指すなら下つ道の方が適しているからです。また小さな差ですが奈良坂から真っ直ぐ下りれば下つ道になる気もするからです。この辺はちょっと置いといて天武軍は軍を三分したのはわかります。書紀で確認できるのは、

このうち三輪高市麻呂は三輪君子首と同一人物です。それと下つ道の大将の名前がありません。残っている天武軍の大将では紀阿閉麻呂と多品治がいますから、たぶんこの2人が下つ道担当ではないかと推測します。もしこの推測が正しければ天武軍の主力は下つ道ではなかったかと考えられます。最終戦の展開は想像に過ぎませんが書紀とは少し展開の気がしています。もう少し古道の要素を入れて考えて良さそうな気がしています。この仮説の前提は
    天武軍の主力は紀阿閉麻呂が率いる下つ道であった
下つ道に天武軍の主力が居た時に近江朝軍が懸念する事は何かになります。下つ道で決戦を行うと同時に天武軍が筋違道を通って近江朝軍の背後に出る戦術の気がします。これは天武側も考えるでしょうから当初の配置は、

この下つ道及び筋違道の戦いは互角で推移したと考えます。そういう戦況の中で大伴吹負が中つ道に進みます。この動きに呼応して近江朝軍は廬井造鯨を向かわせます。

この中つ道の戦いでも膠着状態になります。そのために天武軍はさらに上つ道にも別動隊を動かしたと見ます。

終戦は下つ道の天武軍が近江朝軍に大勝し、この軍勢が中つ道の廬井造鯨軍の背後に回る動きを示したとなっています。退路を断たれる状況に廬井造鯨軍が動揺して退却し勝敗の帰趨を決するぐらいの展開です。でなんですが、この上つ道の天武軍ですが、箸墓前の戦いで勝った後に上つ道を直進して北の横大路を目指したんじゃないかと推測しています。ここに出られると廬井造鯨軍だけではなく近江朝軍全体の退路を塞ぐ形になります。

もう一つですが、天武軍の横への展開は横大路を利用したとも考えています。それに対して近江朝軍は北の横大路もしくは田園地帯の突破です。どちらを使っても軍勢の移動速度では天武軍が有利です。3道の間隔は近いようですが1200間(約2.2km)あります。下つ道から上つ道までとなると直線距離で2400間(約4.5km)です。もとの兵力差の問題もあったとは思いますが、天武軍の東へ東へ展開する作戦に近江朝軍が対応しきれなかったのが敗因の様に思います。犬養五十君は天武軍がそこまでの横の展開を行うと予想していなかったのかもしれません。

書紀には一言も書かれていませんが、天武軍の総指揮を執ったのは大伴吹負ではなく紀阿閉麻呂であった気が私にはします。大伴吹負軍は7/3の乃楽の敗戦の後は散り散りになったと見るのが自然で、主力は紀阿閉麻呂の援軍だったとするのが自然でしょう。傍証としては、

則將軍吹負、謂甲斐勇者曰、其乘白馬者廬井鯨也、急追以射。於是、甲斐勇者馳追之。比及鯨、鯨急鞭馬、馬能拔以出埿、即馳之得脱。

ここは漸く反撃に転じた吹負軍が廬井造鯨を追いつめるシーンですが、吹負の命を受けたのが

    甲斐勇者
これを連れて来れるのは紀阿閉麻呂でないと無理です。書紀の描写では吹負が劣勢を盛り返して近江朝軍を破ったになってはいますが、実質的には紀阿閉麻呂が最終戦だけではなく當麻戦の勝利の立役者であった気がどうしてもします。


論功行賞

天武紀から壬申の乱の功労者の冠位を拾ってみました。

冠位 生前 贈位
大織 * *
小織 * *
大縫 * *
小縫 * *
大紫 * 紀阿閉麻呂、坂田雷、星川摩呂、膳摩漏、大伴望多
小紫 * 坂本財、村國雄依、三輪子首
大錦上 坂本財 紀堅摩呂、秦綱手、舍人糠蟲、土師眞敷、當麻廣麻呂、羽田八國
大錦中 * 大伴吹負、多品治
大錦下 * 三宅石床
小錦 * 大分稚見
小錦 星川摩呂 *
小錦 綱手、三宅石床、舍人糠蟲、多品治 *
大山上 * *
大山中 * *
大山下 * *
小山上 * *
小山中 * *
小山下 * *
大乙上 * *
大乙中 * *
大乙下 * *
小乙上 * *
小乙中 * *
小乙下 * *
大建 * *
小建 * *
冠位なんですが664年(天智天皇3年)に冠位26階が定められています。上の表はそれで作っていますが685年(天武天皇14年)に冠位48階に変更されています。贈位も685年以降のものは冠位48階になります。対照が気持ち微妙なのですが、
  • 直大壱 → 大錦上
  • 直広壱 → 大錦中
とくに直広壱は大錦上と大錦中の間ぐらい(大錦上中下を4分割しているのが冠位48階)なのですが、便宜上そうさせて頂いています。ここで注目して欲しいのは大和であれだけ奮戦し、天武紀でも多くの記載がある大伴吹負が大錦中なんです。大錦中がどれぐらいの冠位か実感しにくいのですが、たとえば将軍であった大伴吹負に河内方面に派遣された坂本財が二階級上の小紫です。また吹負の援軍に向った紀阿閉麻呂は三段上の大紫です。もう少し言えば吹負の兄の馬来田(大伴望多)は大和の挙兵に参加せず天武と美濃に向っていますが、これが大紫です。

壬申の乱後の評価も入るとは思いますが、坂本財は壬申の乱の翌年に亡くなっています。贈位は生前よりジャンプアップしますが、生前の坂本財が既に大錦上になっています。大伴吹負贈位されて大錦上ですから生前はもっと低かったと見れます。大伴吹負の評価が壬申の乱直後であっても

こうであった傍証になると思います。


大和戦線の意味

なぜに吹負の評価がこれだけ辛いかの理由ですが、乃楽の敗戦のマイナス評価が天武に大きかった気がまずします。天武は吹負の挙兵成功に喜び将軍位を授けてはいます。これは戦略的に見て吹負が大和で頑張る限り近江朝軍のそれなりの部分を引きつけてくれるはあったと思います。不破から大津京を目指す天武軍主力の正面の敵が1人でも減れば有利になります。ただそれだけであれば、もともとは計算外の吹負の挙兵の成功ですからチト酷な気がしないでもありません。

壬申の乱の経過を読んでいて強く感じるのですが、天武も近江朝側も大和にかなりのこだわりがあります。理由としては近江朝の方はまだわかりやすくて、大和を天武側に押さえられると奈良坂を越えて淀川水系の水運に影響が懸念されるのはあるとは思います。また河内方面に進出されても迎撃用の軍勢を準備しないといけません。それだけ近江での決戦兵力に支障を来します。一方の天武にとって吹負の挙兵成功は確実な戦略計算の一つとは思えず、棚からボタモチ的な成果のはずです。吹負が失敗すればせいぜい「残念」ぐらいと思いますが、どうにもそれだけの気がしません。何度も触れている7/2に紀阿閉麻呂に指示した

    伊勢大山越之向倭
これの解釈問題になります。7/2は吹負が大和の挙兵に成功して2日後のお話です。まずこの時期には天武は吹負の挙兵成功の情報は持っていないと思います。3日で倭京から不破まで使者が到着するとは思えないからです。こういう指示はだいたい早朝にされますからね。にも関わらず紀阿閉麻呂には大津京ではなく、近江から大和に向けての進撃を指示している事になります。これは天武の戦略が
    近江だけではなく大和も並行進攻
こうであったと考えるのが正しいような気がしてきました。結果を知っている後世の人間からすると不思議な感じがしますが、あえて考えると天武は長期戦を予想していたぐらいです。北近江から湖南部の野洲川あたりまでは攻めるが、その先は容易な事で進めない見通しです。そこから大津京を攻めるには大和を制圧し、大和の兵力を合わせないと勝利は難しいだろうの基本戦略です。そうやって考えると大和の援軍に向った紀阿閉麻呂や三輪子首などの評価が高いのが理解できます。天武の戦略を忠実に実現しているからです。

坂本財の高評価もこの線から考えると理解しやすくなります。坂本財は衛我河の戦いで壱伎韓国軍に退却を余儀なくされますが、無残に敗走したのではなく第二抵抗線の懼坂の紀大音との合流に成功しています。これは実情的には後詰さえあればまだ頑張れる状態であったとも推測されます。坂本財が退却せざるを得なくなったのは吹負が乃楽で蘇我果安に惨敗したためで、せめて敗れたにしろ勢力を保ちつつの退却さえしてくれていれば、坂本財の奮戦が生きていたはずなのにの評価です。

吹負の挙兵成功は天武の評価を高めましたが、その直後の乃楽の敗戦によって地に落ちたぐらいでしょうか。吹負の功績は初期の挙兵成功だけで、後半の反撃部分の手柄は紀阿閉麻呂になったぐらいです。罰するほどのものではないにしろ、乱後の論功行賞で「あいつはこの程度」と天武に評価を下されたぐらいの見方です。なんか力業の解釈の部分が多いですが、壬申の乱は結果ほど楽観的な戦いではなかったと感じています。