律令制の軍団

記録に残る大軍団

日本古代学 第5号 17-36頁、2013年3月 五十嵐基善「律令制下における軍隊編成に関する基礎的考察」に

律令制国家は広範囲の地域から大規模な兵力を動員することが可能であった。神亀元年(724)には「坂東九国軍三万人」(『続日本紀』同年4月癸卯条)、延暦7年(788)には「坂東諸国歩騎五万二千八百余人」(『続日本紀』同年3月辛亥条)、延暦13年(794)には「征軍十万」(『日本後紀弘仁2年5月壬子条)などの事例が確認できる。蝦夷勢力にとって、この大規模兵力は脅威であったと考えられる

あくまでも記録上ですが3万人とか、5万人とか、10万人の軍勢が対蝦夷戦に動員されたとなっています。合戦における軍勢の実数ほど判りにくいものはないのですが、奈良期に万を超える大軍団が形成されていたとは俄に信じがたいところです。ただもう一つ、これも「律令制下における軍隊編成に関する基礎的考察」からですが、

この新羅征討計画は、藤原仲麻呂の失脚により実施されなかったため、準備段階までしか分からないという制約がある。征討軍を編成・派遣する前段階として、天平宝字5年(761)には東海道節度使南海道節度使西海道節度使が設置(43)され、軍団兵士40,700人・子弟202人・船394隻・水手17,360人を動員している(『続日本紀』同年11月丁酉条)。

これは計画だけで実施されていませんが、非常に数値が細かく具体的に記録されています。本当に万を超える大軍団が作られ、対蝦夷戦に投入されていたかどうかをムックしてみたいと思います。


養老律令 軍防令

軍防令第三 兵士簡點條:凡兵士簡點之次。皆令比近團割不得隔越其應點入霖軍者。同戸之内。毎三丁取一丁。

正確には読み下しにくいのですが、まず丁とは正丁を指し21歳から60歳の男性を指します。この成人男性の3人に1人に兵役を課すと規定されています。ただ「同戸之内」となっているので一戸あたりで1人じゃないかの解釈もあるようです。よく判りませんが当時の一戸には正丁が平均で3人ぐらいいる勘定だったかもしれません。免除規定らしきものもあり、

軍防令十六 充衛防條:凡差兵士充衛士防人者。父子兄弟。不得併遣若祖父母父母老疾合侍。家無兼丁不在衛士及防人限。

これも正確に読み下せないのですが、どうも父母や祖父母に「老疾」があり看病の必要があれば免除される様に思いますが・・・違うのかなぁ。兵役期間については、

其衛士防人還郷之日。並免國内上番衛士一年。防人三年

ここも良く調べてみると兵役にはどうも3種類あるようで、

  1. 衛士
  2. 防人
  3. その他
こうらしいです。衛士は1年、防人は3年で、その他は・・・やはり1年であったようです。


動員率

軍防令で徴兵された兵は軍団を形成するのですが、何人ぐらいになったかです。奈良期の人口推測も諸説あり400〜750万人まで幅があります。最近になって有力となっているのは400万人ぐらいじゃないかの説に傾く傾向があるようです。徴兵は戸籍に基づいて行われますから、徴兵対象になるのが400万人と仮定してみます。400万人のうち男性は半分ですから200万人になります。さらにこの中で21〜60歳が何人になるかですが、これまた不明です。しかたがないので大正9年国勢調査を参考にしてみます。この時の人口構成は

  1. 総人口が5596万人
  2. 0〜19歳人口が2584万人(46%)
  3. 20〜59歳人口が2553万人(46%)
  4. 60歳以上人口が460万人(8%)
これにある程度近いと仮定し、正丁は人口の約半分と仮定します。そうなると奈良期の正丁数は100万人となり「毎三丁取一丁」であれば30万人ぐらいの軍団が動員される事になります。ここも説として30万人は無理があって、実際は20万人ぐらいだろうの意見はありました。それでも20万人です。まさに途轍もない数です。20万人と言えば総人口の5%の動員になります。近代戦争は総力戦の時代ですが、日露戦争で2.5%です。太平洋戦争の資料ははっきりしないところもありますが、昭和19年時点で6.3%、その後兵力不足のために徴兵対象者を広げに広げて最終的に10%ぐらいになったそうです。もっとも米で8%、独英ソになると18〜20%であったとされます。

奈良期の動員率は日露戦争の2倍、戦前並みののものであった事になります。それだけいれば万単位の軍団を遠征に送り込む事は可能です。


律令制の兵装

養老律令 軍防令より、

軍防令第七 備戎具條:凡兵士。毎火。紺布幕一口。著裏。銅盆。小釜。隨得二口。鍬一具。碓一具。斧一具。小斧一具。鑿一具。鎌二張。鉗一具。每五十人火鑚一具。熱一斤。手鋸一具。每人。弓一張。弓弦袋一口。副弦二條。征箭五十隻。胡霖一具。大刀一口。刀子一枚。礪石一枚。藺帽一枚。飯袋一口。水甬一口。鹽甬一口。脛巾一具。鞋一兩。皆令自備不可闕少行軍之日。自盡將去。若上番年。唯將人別戎具自外不須。

これらは徴兵される兵士が自前で調達するものとされています。ここで注目して欲しいのは甲胄がないことです。さすがに甲胄は支給されたかと言うとそうでなく、高価なので一般兵士には支給されなかった様です。ただ軍備の充実として甲胄の整備も行われてはいたようです。これも「律令制下における軍隊編成に関する基礎的考察」からですが、

全国で製作される武具の総数は甲173領・横刀522口・弓1,604張・征箭1,747具・胡籙1,747具となる。

これは延喜式兵部省・諸国器仗条の規定ですが、これが当時の全国生産量であったようです。とにかく甲胄は高価で生産数が非常に限定されるのがわかります。それでも対蝦夷戦に苦戦するようになれば、

古代東北で行なわれた征夷では様相は異なり、軍事的緊張が高まった「三十八年戦争」期に顕著である。宝亀8年(777)には出羽国に甲200領を輸送(相摸・武蔵・下総・下野・越後)、宝亀11年(780)には出羽国に甲600領を輸送(京・諸国)、宝亀11年(780)には陸奥国に甲1,000領を輸送(尾張三河など5カ国)している。

それでもこの程度しか甲胄がなかったとしてよさそうです。軍団の構成はほんの一部に騎馬隊とか弩隊も存在していたようですが、大部分は歩兵部隊であり、なおかつ甲胄なしの軽装歩兵であった事がわかります。もう一つ注目したいのは軽装歩兵の武装です。弓矢はまあ良いとして、

    大刀一口。刀子一枚。
刀子は短剣を指すようですが、本当に大刀なんて持っていたのだろうかの疑問です。これも調べてはみましたがサッパリわからないところです。当時の鉄器は貴重品です。農具の主役は鋤・鍬になりますが、これも鉄製は貴重品となり役所が管理して農民に貸し出す時代です。そんな時代なのに農具以上に製作が難しい大刀なんてものが調達できるかどうかの疑問がどうしても残ります。そりゃ20万人の常備軍がいれば20万本の大刀が必要になるからです。この疑問は壬申の乱の時の天武軍・近江朝軍の装備でもありましたが、律令期だからと言って大刀がホイホイ手に入るとは思いにくいところが正直なところあります。


大刀の謎は置いといて、それ以上に疑問なのは20万人もの軍団兵をどう養っていたかです。たとえば固定の基地施設をもっていたかどうかです。そんな事をやっていれば全国に宿営地跡の遺跡がわんさか残っているはずです。しかしそんなものは聞いた事もありません。ヒントになるのは、

軍防令第六 兵士備糒條:凡兵士。人別備糒六斗。鹽二升并當火供行戎具等。並貯當色庫若貯經年久。壞惡不堪。即迴納好者起十一月一日十二月三十日以前納畢。毎番於上番人内取二人守掌。不得雜使行軍之日。計火出給。

兵糧が1人当たり「糒六斗」である点です。これは官給と言いながら実質自前であったそうですが、それでもこれだけしかない事になります。「糒六斗」は30日分の食料と解釈して良いそうで、豊後国軍丁 に、

兵士に徴用された者は「庸(都での労役、又は布2丈6尺収める)」と「雑徭(ぞうよう・年間60日を限度に、国衙の雑用、土木工事への従事)」が免除されたが、100日間に10日の割合で「軍丁」として軍事訓練を受けた。兵役は年間30日は軍団勤務を強いられたのである。

そう、兵役と言っても近代の様に施設缶詰で軍事訓練を行っていた訳ではなく、年間に30日の兵役と言う名の使役を受けていたと考えて良さそうです。つうのも豊後国軍丁 にも、

兵士は有事(国家に対する反乱)には征討軍に従うが、平時には国衙倉庫などの補修、関の守衛、罪人の護送などあらゆる雑用に使われ、有力者の私役にも狩出され奴隷であった。

この私役は多かったようで、「律令制下における軍隊編成に関する基礎的考察」にも、

歩兵による集団戦闘は、全国共通の「陣法式」に基づいて行なわれ、指揮具である鼓吹の音声情報により行動が統一されていたことが指摘されている(19)。多数の軍団兵士が統一行動をするためには、集団戦闘の訓練を徹底する必要がある。『続日本紀慶雲元年(704)6月丁巳条には「勅、諸国兵士、団別分為十番。毎番十日、教習武芸、必使斉整。令條以外、不雑使。(後略)」とあり、1番10日の10番編成にして武芸と集団戦闘の訓練を行なうことが定められている(20)。しかし、8世紀を通して国司・軍毅により軍団兵士の私役(21)が行なわれていたため、訓練は徹底されていなかったとみるべきであろう。

あくまでも「どうも」ぐらいの理解ですが兵役が重かったのはそれが軍役だったからとはチト違う気がしています。実態的には、

  1. 年間30日の兵役の多くは私役に転用された
  2. 年間30日の兵役以外にも私役に駆り出される日が少なからずあった
公地公民制が律令制の基本でしたが、当初から有力者の私田の所有は認められており、律令期を通じて私田は拡大していたとされています。そういう裏の実態を表に返してしまったのが743年の墾田永久私財法とするのが現在の見方です。墾田には人手が必要であり「どうにでも使える」兵役は使い放題の労働力として重宝されていたぐらいでしょうか。五十嵐氏は
    訓練は徹底されていなかったとみるべきであろう
こうされていますが、徹底どころか殆どされていなかった可能性の方が高いと考えます。もちろん地域により温度差はあったでしょうが、実態的には私役優先だったと見ます。たとえば対蝦夷戦に直面している地域では軍事訓練も必要として行われていた可能性がありますが、それによって私役が減るわけではなく、むしろ私役にプラスして兵役が加算される関係にあったぐらいを想像します。


蝦夷戦の実態

律令時代の主な戦争は対蝦夷戦と考えて良いと考えています。兵の質は蝦夷側の方が優秀だったとされます。これは判りやすいところで、蝦夷側が採集文化を保っているのに対して、律令側は純然たる農民兵になるからです。当時の主要兵器は弓矢ですが、そりゃ蝦夷側の方がプロになりますし、格闘戦となっても蝦夷側の方が強いでしょう。士気も蝦夷側の方が高かったはずで、蝦夷側兵士はサバイバル戦であるのに対し、律令側兵士は自分と無関係な戦いです。これは「おそらく」ですが律令側の兵士は手柄を立ててもさしたる褒賞もなかったと考えられますし、ましてや戦死などしようものなら単なる無駄死になるだろうからです。これも「律令制下における軍隊編成に関する基礎的考察」からですが、

律令制国家と蝦夷勢力の戦闘について、その好例となるのは延暦8年(789)に行なわれた北上川の戦いである(『続日本紀』同年6月甲戌条など)。紀古佐美を指揮官とする征夷軍は坂東から動員された約52,800人と現地兵力から編成されていた。阿弖流為の拠点を攻略するため、前軍(員数不明)が北上川の西側を北上し、中軍・後軍から選抜された4,000人は北上側の東側を北上することになった。しかし、中軍・後軍は狭隘な地形を進軍しており、阿弖流為軍の奇襲を受けて潰滅的な打撃を受けた。

律令軍団は集団戦法を行う訓練は法として規定されていましたが、よくよく考えなくとも規定通り軍事訓練を行っても年間30日です。兵役は動員率から考えて3年に1回ぐらいあるとしても、素人兵を訓練するにはお世辞にも十分とは言えません。そのうえ実態的には「私役 >> 兵役」状態があり、年間30日の軍事訓練さえ殆ど行われていなかった可能性もあります。純然たる農民に兵士のレッテルを貼り付けて戦場に送り込んでいたぐらいとしても過言とは思えないと考えています。

軍団兵の質と士気の低さを補うには数が必要になります。それも圧倒的な数的優勢状態でなんとか勝負できるぐらいが対蝦夷戦の実態であったと見ても良いと考えています。蝦夷側は律令側に較べると広域社会の形成は遅れていますから、動員された軍勢はせいぜい千人単位の前半程度じゃなかったかと見ています。これに対し律令軍は10倍程度の数的優位を保つ必要があったんじゃなかろうかです。それでも兵の質と士気の差は大きく、少しでも劣勢になると律令軍は容易に総崩れになったとも見れます。

蝦夷戦の律令軍の名将と言えば坂上田村麻呂になりますが、田村麻呂があれほど伝説化したのは、数だけの弱兵軍団を統率して対蝦夷戦で鮮やかな勝利を収めたからだと考える方が良さそうです。


wikipediaより

延暦11年6月(792年)、陸奥国出羽国佐渡国西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布いた

この軍団に代わる健児の制の人数ですがwikipediaより、

諸国ごとの員数は、山城30人、大和30人、河内30人、和泉20人、摂津30人、伊賀30人、伊勢 100人、尾張50人、三河30人、遠江60人、駿河50人、伊豆30人、甲斐30人、相模100人、武蔵105人、安房30人、上総100人、下総 150人、常陸200人、近江200人、美濃100人、信濃100人、上野100人、下野100人、若狭30人、越前100人、能登50人、越中50人、越後100人、丹波50人、丹後30人、但馬50人、因幡50人、伯耆50人、出雲100人、石見30人、隠岐30人、播磨100人、美作50人、備前 50人、備中50人、備後50人、安芸30人、周防30人、長門50人、紀伊30人、淡路30人、阿波30人、讃岐50人、伊予50人、土佐30人となっている。

律令制の軍団に較べると1/50〜1/100程度に縮小したとしても良さそうです。そうですねぇ、軍団から警備隊程度に一挙に縮小してしまったぐらいでしょうか。律令制の軍団も人口規模から過剰な印象が強いところですが、桓武軍縮もまた過剰な感じがします。この桓武軍縮は財政の問題があったとされます。ただ律令期の軍団の維持費は莫大とは言えません。対蝦夷戦のような征討軍を送れば別ですが常備軍としての保持ならば「庸(都での労役、又は布2丈6尺収める)」と「雑徭(ぞうよう・年間60日を限度に、国衙の雑用、土木工事への従事)」の収入減だけです。

桓武軍縮の意図は兵役が「律令制下における軍隊編成に関する基礎的考察」脚注にあるように

『類聚三代格』延暦11年6月7日勅には禁止されている国司・軍毅の私役により軍団兵士が疲弊しているため、京畿・七道の軍団兵士制を停廃することが定められている。

これって桓武が軍団兵の私役による疲弊を「かわいそう」と思ったからではなく「バカらしい」と考えたからと思ってます。兵役中の私役は禁じられてはいますが、実態として「兵役 = 私役」が蔓延し定着していたと見るのが自然です。これによって利益を得るのは軍団指揮者の貴族です。まるで国家が貴族の私役のために徴兵して労働力を提供しているようなものになります。そうであれば私役に費やされてしまう兵役を廃止し、これを国家の使役に転じた方がメリットが遥かにあるとの判断の気がします。

桓武軍縮判断自体は悪いと思いませんが、この軍縮が武士の発生の遠因になったと思っています。国家軍事力がなくなっても軍事力自体は国家に必要です。警備隊程度の健児の制で対処できない軍事力が必要な時は発生します。つうか健児の制より軍事力を持つ集団が発生しただけで国家としてはお手上げ状態になりかねません。そうやって出来た軍事力の空白を埋めるために必然として発生したのが武士の気がしています。桓武軍縮以降は京都朝廷は二度と大軍団を持つことはありませんでした。軍団の派遣が必要な事態になっても自然発生した武士を動員する事で対応しています。そうやって発生した武士が朝廷を凌駕し、やがて武家政権を樹立するなんて桓武には想像もつかない話だった気はしています。

桓武軍縮の是非はともかく、律令期には万どころか数万の大軍が編成可能で、なおかつ実際に戦場に現れていたのは事実として良さそうぐらいを今日のムックの結論にしたいと思います。