摩耶花壇

摩耶花壇と言っても余程の廃墟通でないと御存じないと思います。もちろん私も見たことも聞いた事もなく、摩耶山にハイキングに行った時にたまたま見つけたものです。とりあえずその時の画像ですが、

壁一枚がなんとか残っている建物 摩耶花壇の看板であったと思しきもの
消滅寸前の廃屋ってところですが、もう少しマシな時期が最近まであったようで、大阪クライマー様が2011年に訪れた時には、

現在は落っこちてる看板が健在であったことがわかります。


摩耶遺跡

摩耶山の中腹にはかつて天上寺がありました。摂津名所図会にも

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こうやって紹介されており多くの参詣者がいました。どれぐらい多くの参詣者がいたかの傍証として、1925年(大正14年)に摩耶鋼索鉄道が設置され、これは現在も摩耶ケーブルとして健在です。この摩耶ケーブルの虹の駅(設置当初は摩耶駅)付近は参詣者のための門前町として栄えていた「らしい」です。象徴的なのは廃墟マニアには有名な摩耶観光ホテルがあります。これは1929年(昭和4年)に営業開始となったもので、wikipediaより、

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手前に見えているのはゴーカートのコースのようにも見えますが、かなり立派なホテルであるのだけはわかってもらえると思います。こんだけのホテルが建つぐらいですから「その他」の娯楽・宿泊施設もあっただろうことは想像がつきます。摩耶山の観光開発は1955年(昭和30年)に摩耶ロープーウェイ(これも今も健在)が設置され奥摩耶遊園も作られます。最盛期にはどんな様子だったかは摩耶観光ホテルについてから

ところが1976年(昭和51年)に天上寺が火災で焼失する事件が起こります。天上寺は再建されていますが、なぜか場所をさらに山奥に移転してしまったのです。つまりは天上寺がなくなってしまったわけです。資料を見る限り虹の駅周辺にあった施設は次々と閉鎖され、今はなんにも残っていません。そんな旧天上寺跡や摩耶観光ホテル、さらにはその他施設も含めて摩耶遺跡と最近は呼ぶようで市が設置した案内板にもそう書いてありました。実は年代的に子供の頃に旧天上寺や奥摩耶遊園に行った可能性は私にはあるのですが、残念ながら記憶にこれまたマッタク残っていないのが個人的には惜しまれるところです。1回ぐらいは行った事があるはずなんですが・・・


摩耶花壇

さて摩耶花壇に戻りますが、その由緒のヒントはあります。

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ヒントとはしましたが、実はこれ以上の情報を集めるのが非常に難しかったというところです。だいたい案内板に掲載されている在りし日の姿の画像さえ発見できませんでした。案内板以上の情報として「悠久のマヤ遺跡! 歴史への道しるべを辿る」(2)に、

ここは、今から88年前、摩耶ケーブルが始まった翌年に建てられた山上宿泊施設の跡だ。当時、大正15年7月22日付けの神戸新聞には「摩耶仙境に新築開業したる/瀟洒なる建築に完備せる客室」との見出しで、地下室を合わせ3階建ての洋館を表現している。山道両側の建物と基礎部分とは地下通路でつながり、敷地横の丘には釜風呂も用意されていた。後に結核患者の療養所としても使われたが、今ではマヤ遺跡群の一部として静かに時を刻んでいる。

どうもなんですが案内板の写真は神戸新聞に掲載されていたものの可能性はありそうで、日付が判るので機会があれば図書館で確認してみたいところです。この療養所にもなっていたの記述はネット上でも散見されますが、摩耶観光ホテルについて42(資料39)にある『神戸市全産業住宅案内図帳 灘区』神戸地学協会を引用すると、

1956年版 1964年版
摩耶花壇は摩耶ケーブル虹駅(当時は摩耶駅)から天上寺までの間に存在し道の西側にあります。ただしここは尾根道で摩耶花壇の西側に地形的にバンガロー村が建てられたんだろうかの素朴な疑問がありますが、地図に明記されていますから「あった」としか言いようがありません。1956年版ではバンガローの配置がはっきりしませんが1964年版では明示されているからです。それと配置からして宿泊施設として機能していた摩耶花壇が経営していたように見えますが、これについて記載している物に巡り合えませんでした。

摩耶花壇とバンガロー村が存在していた事は確認できましたが療養所の方は不明です。ではなかったかと言うと痕跡らしきものは確認できます。

摩耶花壇を西側から撮影(廃墟巡歴録より) 道の反対側
摩耶花壇は山道の西側に地下室と言うよりはコンクリートの土台を築いて建物を作っているようです。道の反対側にもコンクリートの基礎構造が確認できます。つまりは道を挟んで建物があったと考えて良さそうで、それを地下で結んでいても不思議とは言えないと思います。しかし1964年にはまだ存在していなかったと考えた方が良さそうです。証拠として神戸市全産業住宅案内図帳の地図に存在しない事と、道の反対側の基礎の工法が摩耶花壇のものとは違う気がします。写真映りの可能性も否定できませんが、東側の基礎部分の工法の方が新しい気がします。


療養所と摩耶花壇

摩耶花壇がいつまで営業していたかを示す資料には出会えませんでしたが、閉店となったのはやはり1976年の天上寺火災の後じゃないかぐらいしか言えません。それと大正期に営業を開始した頃は宿泊施設も備えていましたが、末期は廃墟の形態から茶店部分のみであったと推測しています。類似の茶店はたとえば高取山には今でも健在です。もう一つポイントは看板の存在で閉店した頃も摩耶花壇であったと考えられることです。そう考えると謎なのが療養所になったと言われる時期です。

1964年時点では療養所が存在していなかったとしか言いようがありませんから、療養所が建てられたのはそれ以後になります。山道の反対側にあったと考えられる建物は療養所になるにあたって拡張された部分と見たいところですが、この療養所の記録もまた残っておらず、いつまで存在したかも不明です。やはり1976年頃に閉鎖されたんだろうとは思いますが、仮にそうであれば療養所があった期間は10年程になります。ほいじゃ摩耶花壇から療養所に完全移行したかと言うと、なぜに廃墟に摩耶花壇の看板が残っているのかの謎が出て来ます。

思うのですが摩耶花壇が療養所になったと記録されている様ですが、いくら昭和の40年代であっても老朽化した旅館をそのまま療養所に転用なんてするだろうかと思っています。医療施設と旅館では施設形態がかなり違うからです。内部の改装ぐらいでなんとかなるものとは思いにくいと言うところです。あくまでも推測ですが、療養所は単に摩耶花壇の道向かいに建てられた別個のものじゃなかったろうかです。もうひとつ推測ですが療養所の存在期間はかなり短かったんじゃないかと考えています。

断片的に残された資料では結核療養所であったとしているものが多いですが、昭和の40年代にそれほどの需要があったかどうかは疑問が残るところです。ましてやそれ以外の目的の療養所であれば医療施設として場所が悪すぎるってところです。療養所があったらしいのは否定できませんが、真相は摩耶花壇の前に療養所が存在していただけの気がしています。

療養所が短期間で閉鎖された傍証として建物の残骸が残されていません。これは閉鎖するにあたって解体されたって事になりますが、わざわざ解体したのは不思議です。なにせ車道が通じていない区画ですから、解体するのも一苦労になります。だから摩耶花壇の廃墟が今でも残っているのですが、療養所の方は本当に何も残っていません。わざわざ解体撤去したのは摩耶花壇からの要請の気がしないでもありません。理由としては閉鎖された療養所が目の前にあるのは営業上好ましくないぐらいのところです。


ついでの謎をもう一つ。摩耶花壇の地上部は2階建てであったのは記録に残されています。これが崩れ落ちて今に至るのですが、その割には廃材の量が少ない気がします。どうにも崩れ落ちた分は撤去されたぐらいにしか言いようがありませんが、それをするぐらいなら全部撤去しそうなものです。摩耶花壇の最終形態は茶店であったと推測していますが、どこかの時点で2階建ての当初の建物を解体し平屋の茶店に作り直したんじゃないだろうかと思い始めています。小規模の平屋の茶店の廃材なら現在確認できる量でも説明可能と思うからです。

全部推測ですが、昭和の40年代の初期に摩耶花壇の前に療養所が建てられたんだと思います。その時に老朽化が進んでいた摩耶花壇も建て替えたんじゃないだろうかと見ています。場所が場所ですから、そういう工事の「ついで」を利用しても不思議とは言えません。摩耶花壇が小さくなり、道向かいに療養所が建てられたので摩耶花壇が療養所になったと記録されてしまったぐらいです。ここはもう少し考えたいところで、可能性として療養所解体と摩耶花壇建て替えが同時期であったとした方が良い気もします。だから療養所はなくなり、摩耶花壇は廃墟として残ったのかもしれません。


いゃ、ハイキングの途中で拾った廃墟の確認が思わぬムックになってしまいました。摩耶山は今でもハイキング・コースとして人気があり、休日ともなればハイカーで結構にぎわいます。あれだけの人出があれば茶店の一軒ぐらいあっても良さそうなものですが、現在は掬星台の摩耶ロープーウェイの駅にあるのみです。なぜだろうと思ったのですが、少し考えれば理由は単純そうです。ハイカーは自分で弁当も飲料も持参する事が多いですから、客になる対象が少ないってところでしょうか。

六甲山で飲食店が健在なのは凌雲台周辺ですが、あそこに飲食店が成立するのはクルマで来る人が多いからでしょう。摩耶観光が衰えたのは天上寺火災が原因とされますが、それ以前に六甲山観光のメインがクルマになったからと見た方が良さそうです。天上寺が移転してしまったのも、それを見越したのかなぁ?