続々摩耶花壇

第3弾を書くことになるとは思いませんでしたが摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様がかなり突っ込んで調べられていましたので便乗します。とにかく情報が少なくて、摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様も、

遺跡とも廃墟とも呼ばれる摩耶花壇跡。 様々に憶測される謎の建物ですが、入手した史料に基づく考察を加えたいと思います。
反面、この遺跡の存続を考える時、謎のまま置くことと、ベールを剥ぐことの、どちらが望ましいのか迷うところです。

気持ちはわかりますが、たぶんベールをすべて剥ぐのは不可能だと思っています。なんといっても戦後も71年経ち、摩耶花壇経営に携わった人間どころか、摩耶花壇を利用した人間すらどれだけおられるのかの時代になっていますから、わかる範囲で詰めて見ます。とりあえず新たに見つけた摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様の画像を紹介させて頂きます。

大食堂ですが、バーカウンターも備えていたのがわかります 完全なオープンデッキだったことがわかります。
非常に貴重な画像で良く残っていたものだと感心しています。


重箱検討

摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様は摩耶花壇の沿革も年表にまとめられております。内容的には摩耶山観光のムックの時に作った年表に近い内容なのですが、

摩耶花壇の遺跡地が、摩耶山株式会社の所有地であったことから、1925年の「食堂」や1926年の「客室」が摩耶花壇に当たると思われる。

摩耶山株式会社は摩耶山観光のために阪神電鉄が作った子会社ぐらいで良いのですが、摩耶花壇が摩耶山株式会社の所有地に建てられていたのは初めて知りました。その点から摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸様(以後摩耶遺跡神戸様にさせて頂きます)は摩耶山株式会社の経営目的である

    療養所ホテル食堂および浴場娯楽場経営
の一環として摩耶花壇が建設されたんじゃないかと推測されています。真相はもちろん不明ですが私は違う気がします。理由は単純で、
    摩耶花壇・・・1926.7.22開業
    マヤカン・・・1929.11.17開業
施設として重複するからです。摩耶山株式会社もホテルはともかく、食堂ぐらいは摩耶ケーブル1924年に開通した時に作ったでしょうが、ホテルまでは「まだ」だった気がします。むしろ摩耶花壇の高級路線の成功を見てマヤカン建設に進んだぐらいを考えています。次のところも微妙なんですが、

1941〜1945 太平洋戦争による観光施設としての営業を自粛、山頂の高射砲陣地整備事業に協力、軍による大きな影響があったと思われるが、観光ホテル、摩耶花壇ともに当時の資料はほとんど見当たらない。軍用施設化?

戦時中に摩耶花壇もマヤカンもどうなっていたかの情報が非常に乏しいのですが、陸軍の高射砲陣地が掬星台に築かれたのは1943年に軍用道路(現在の奥摩耶ドライブウェイ)が出来てからと見たいところです。つうか高射砲陣地を作るために軍用道路が作られたと考えるのが自然です。摩耶ケーブルの利用者は1943年には20万人弱に減少していたとの記録が残っていますが、それでも20万人ぐらいはいたわけで、細々と営業を続けていたと見ることも可能です。つうのも摩耶遺跡神戸様の聞いた話として、

「戦時中に大砲の銃身を製作する傍ら、3中(現・長田高校)の同窓生が寄って、ここでスキ焼きをした」という先輩に出会った。

旧制中学生が大砲の砲身を作るとは、学徒勤労動員によるもののはずでwikipediaより

学徒勤労動員または学徒動員とは、第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)以降に深刻な労働力不足を補うために、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員されたことである。

学徒勤労動員は1943年からとなっていますが1944年に

4月には全国学徒は軍需工場へ動員された。文部省は「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」を発令した。

つまりは摩耶遺跡神戸様の先輩が砲身を作るのに動員されたのは1944年の可能性が十分にあり、その時点でも摩耶花壇ですき焼きを食べられた証言になります。マヤカンを調べた時に戦時中の様子として、

    兼業の土地家屋及び温泉業は時局国策に副うように営業継続
ここの「国策」の解釈が難しいのですが、前は高射砲陣地の将校宿舎の可能性も考え、その可能性も十分ありますが、一方で民間向けのある種の慰安施設として営業していた可能性はある気がします。だって当時のことはよくわからないですが、旧制中学生が摩耶山の食堂ですき焼きをそうは簡単に食べられるとは思えないからです。推測にすぎませんが、学徒勤労動員された生徒に給料代わりにそういう御馳走の権利を渡していたんじゃないかと考える次第です。ただ私の説もこれまた微妙なところがありまして摩耶ケーブルwikipediaより、

1944年(昭和19年)2月11日 - 不要不急線として高尾 - 摩耶間が休止。翌年にかけて軌道も撤去される。

まあ歩いて登ったのかもしれません。それとなんですが、例の療養所としての運用時期です。摩耶遺跡神戸様も

摩耶花壇が一時、医療施設として使われたとの解説があるが、その確証は見当たらない。

私も探し回りましたが見つからなかったのですが、可能性としてあるのはやはり戦時中です。戦時中はおそらくマヤカン同様に摩耶花壇も「国策」に副った営業が行われていたと思われますが、食堂部分は営業していても宿泊部門が傷病兵の療養所として使われたんじゃないかと考えだしています。摩耶山の宿泊施設はある意味、純観光施設ですから戦時体制下では不要です。つうかそんな時世に泊りがけで摩耶山観光をする客も激減していたと考えるのが自然です。そこで宿泊施設を医療施設として提供する代わりに、食堂部分の営業を認めてもらっていたぐらいです。


終戦

ここはマヤカンも含めて情報が乏しい時期ですが、摩耶遺跡神戸様は、

1950〜55 摩耶花壇を関係者家族が宿泊施設として利用

この情報の出どころがわからないのですが、仮にそうであっても1945〜1950年の間はどうしていたのだの疑問が出てきます。それと営業と言っても摩耶ケーブルの再開は1955年になってからになります。ケーブルが無い場合の摩耶花壇へのアプローチは、

  1. 麓からテクテク登る
  2. 1953年に出来た掬星台へのバス路線を利用し、天上寺を抜けて摩耶花壇に至る
天上寺への参詣客相手の宿泊施設の可能性は残るとはいえ、本当に宿泊施設として営業していたかどうかは疑問が残ります。むしろ1955年の摩耶ケーブル再開まで終戦から閉鎖状態ではなかったかと思います。


バンガロー村

摩耶遺跡神戸様より、

1960 年前後に3階建「摩耶花壇」を解体、廃材でバンガローと茶店を建設し、同名の「摩耶花壇」と命名

このバンガロー村も謎が多いのですが、前にも出した当時の住宅地図が参考になります。

1956・1958年版とも同じ(「神戸市全産業住宅案内図帳 灘区」神戸地学協会)
1964年版(「神戸市全産業住宅案内図帳 灘区」神戸地学協会)
1966・1968年版とも同じ(「灘区 西部(観光と産業の神戸市住宅地図)」関西図書出版社)
1969年版(「灘区 西部」ゼンリン)
これでは1956年には既に摩耶花壇の南側斜面にバンガロー村が出現しています。仮定になりますが、
  1. 1955年の摩耶ケーブル再開をみて摩耶花壇復活を企画した
  2. ところが終戦時より10年間閉鎖されていた建物は傷みが激しかった
  3. そこで3階建ての建物を解体し、その廃材も利用しながら、


    • バンガロー村を建てた
    • 旧館の後に茶店としての摩耶花壇を建てた
この方が自然の気がします。閉鎖時期について摩耶花壇神戸様は、

  • 1967/7/9 集中豪雨のため、ケーブル、観光ホテルとも大被害で廃墟化
  • 1968 年頃に2代目「摩耶花壇」も無人となり廃墟化開始?

1967年の台風被害はマヤカンにも致命傷に近い損害を与えているので、摩耶花壇及びバンガロー村も同じような被害を受けたと考えるのは自然です。しかし台風前年の1966年の住宅地図では既にバンガロー村は消えてなくなっています。住宅地図を信じる限り摩耶花壇のバンガロー村は1967年の台風に関係なく消滅したと考えるのが妥当と思われます。さらに1966年の住宅地図には既に摩耶花壇の屋号(つうか1964年には「アート」に屋号が変わっています)も消えています。これらの情報から茶店としての摩耶花壇及び後継の「アート」の営業も1965年頃に終わったと私は考えたいところです。


おまけ

摩耶遺跡神戸様の画像です。

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キャプションには

松林の上部にジェットコースターの軌道らしい影や、道向いにも洋風らしい建物(松?園)の一部が見られる。

ジェットコースターは奥摩耶遊園には存在しましたが、ケーブル摩耶駅周辺には存在していませんから思い違いとして、目を凝らすと摩耶花壇の前(画像の左側)にも建物があるように見えます。つうか絶対に存在してたはずで、現在も

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コンクリート基礎が残されています。摩耶花壇様はこの建物の名前もかすかに知っておられるようで「松?園」までは記載されています。この建物のと摩耶花壇は地下でつながっていたの説もあるのですが、先日に摩耶山に登った時に上からのぞいてみましたが、出入口らしきものは見つかりませんでした。もっとも擁壁の内側に通じていた可能性は否定できないのですが、これまた地面を見る限り入口跡らしきものは見つかりませんでした。地面側の入り口は塞いだ上に土が乗っかってしまったのは否定できませんが、伝承の真偽はどうなんでしょうねぇ。


今日はまるで摩耶遺跡神戸様の重箱を穿る様なエントリーになってしまいしたが、実際のところ私の見解が正しいのか、摩耶遺跡神戸様の説が正しいのかは検証しようがありません。それより何より貴重な画像の提供と、取り壊し立て直しの話を発掘して頂いた功績の方がはるかに大きいと思います。奥摩耶も含めた摩耶山観光の歴史は自分も調べたからわかるのですが、とにかく情報が乏しくて、始まった年は比較的残っていても、いつ閉鎖になったかについては曖昧至極の世界になります。それぐらい情報が少ないのが摩耶花壇と思っています。