リボンシトロンってなんだ?

摩耶山に登った時に摩耶花壇で新しい情報が見つかったのでエントリーを1本立てたのですが、ネタ元の画像にはQRコードが付いてました。恥ずかしながら利用したことがなかったので、どうやって利用するかを娘に聞いたら、

さっそく入れてみて、ハイキング中に撮った画像のQRコードを読み取らせるとスルスルとサイトが開いてくれました。世の中便利なものです。そのサイトにはより鮮明な画像があったのですが、スマホからでは画像がチトとりにくい。そこで、PCから検索したのですがググっても容易にお目当てのサイトに行き着きません。仕方がないのでURL入力したらちゃんと存在しました。摩耶花壇@摩耶遺跡.神戸ってサイトで、そこから元画像を引用させて頂きます。

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これはかなり鮮明です。ここから摩耶花壇ネタをもう1回やりたいところですが、今回は趣向を変えて、画像左側のアーチ状のところに書かれている文字に注目したいと思います。「アサヒビール」は今でもメジャーなブランドですからストレートにわかるのですが、

これってなんだってところです。


リボンシトロンと戦前のビール業界の変遷

直感的にビールに対してのソフト飲料の感触がありますが、私は見たことも聞いたこともありません。ほいじゃってことでググるとあっさり出てきました、お手軽にwikipediaより、

リボンシトロンRibbon CITRON)とは、ポッカサッポロフード&ビバレッジ(旧・サッポロ飲料)が販売する炭酸飲料である。

まだ製造・販売していることに驚いたのと同時に、サッポロビール系のソフト飲料とアサヒビールが並べられているのは「なぜ?」です。普通は同系列の商品が並ぶだろうってところです。ポッカサッポロフード&ビバレッジRibbonの歴史を開いてみたのですが、

ただいま準備中ですので、どうぞお楽しみに!

残念ですがwikipediaに頼ることにします。リボンシトロンの誕生の経緯は

リボンシトロンの歴史は古く、1909年にサッポロビールの前身である大日本麦酒によりレモン風味の炭酸飲料「シトロン」として発売(シトロンは柑橘類の一種の名)、1914年には同社の清涼飲料にリボンブランドを採用。翌1915年、シトロンもリボンシトロンと改称して現在に至る

大日本麦酒ってなんだになるのですが、大雑把にはこういう変遷をたどっています。

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細かい点だけwikipediaから補足しておくと、

その後、1907年に東京ビールを製造していた東京麦酒を買収。1933年には日本麦酒鑛泉(ユニオンビール・三ツ矢サイダーを製造販売。根津嘉一郎経営)を、また1943年には桜麦酒(サクラビールを製造販売。1939年に帝国麦酒から社名変更。旧鈴木商店系)を合併した。朝鮮市場向けのビールを製造するために、地元資本と折半して資本金600万円で1933年8月に朝鮮麦酒株式会社を設立し、現在韓国でビールシェア一位のハイトビール(社名変更)となっている。

第一次世界大戦の戦後処理として、ドイツ租借地であった中国・青島が日本の管理下におかれたことを受け、ドイツ資本によって建てられた青島ビールの経営権を1914年に取得し、1945年まで大日本麦酒が自社工場として経営した。

合併時のシュアは実に7割を占めたとなってますから、戦前のビール業界のガリバーってところです。ただなんですが大日本麦酒として統一ブランドで販売していたわけではなかったようで、合併前のブランドで基本的には販売されていたようです。ここらも情報が錯綜しているのですが、

振り分け的には西日本がアサヒビール、東日本がサッポロビールになってようです。ですから摩耶花壇にもアサヒビールの文字が書かれていたわけです。ビール業界の変遷の基礎知識はこれぐらいにして、リボンシトロン大日本麦酒になってからの製造販売です。リボンちゃん生誕45周年記念展示によると、

リボン・シトロンは1909年(明治42年)に大日本麦酒から発売された。日露戦争後の不況からビール以外の新製品の開発を考えていた大日本麦酒は、保健衛生の立場から「シトロン」を選び、製造販売することとした。これはビール製造で発生した炭酸ガスを使用できることも理由にあったようだ。

 「シトロン」は途中から「リボン・シトロン」と呼ばれ、日本中に浸透していった。ブランド名を「リボン」にした理由は、女学生の頭につけたリボンからとったという説、「高級そうに聞こえるから」という説があるが、詳しい由来は不明である。

大日本麦酒日本麦酒鑛泉も合併しているので三ツ矢サイダーもあったのですが、リボン系飲料の販売に力を入れていたフシが窺えます。wikipediaに記載されている大日本麦酒の清涼飲料水ブランドは

リボンの名の付くブランドが4種類あります。推測というか想像ですが、レストランが大日本麦酒のビールを導入したらセットでリボンシトロンも導入されたぐらいに考えています。


1949年に財閥解体の影響で大日本麦酒は朝日麦酒(アサヒビール)と日本麦酒サッポロビール)に分割されます。この分割にもいろいろ経緯があったようですが、大雑把には

  • 東日本は日本麦酒のテリトリー
  • 西日本は朝日麦酒のテリトリー
これでスタートしたぐらいに考えて良さそうです。この時にリボンシトロン日本麦酒に継承されたので、リボンシトロン販売は東日本中心に傾いたぐらいに理解できそうです。一方でリボンシトロンを失った朝日麦酒はバヤリースを導入したようです。たしかに子どもの頃の外食でジュースを頼むとバヤリースがよく出てきたことを記憶しています。ではでは東日本では今でもリボンシトロンが健在かといえばそうとも言い切れないようで、「リボンシトロン」はどこへ消えた?に、

  • しかし最近、この「リボンシトロン」、都内で全く見かけなくなってしまったのです。以前はサッポロ飲料の自販機にはたいてい350ml缶が入っていたのですが、最近ではどの自販機を見てもあの緑色の缶が入っていない!
  • 現在、「リボンシトロンは引き続き生産、販売していますが、都内でのリボンシトロンの販売店は大変少なくなっております。恵比寿ですと、ガーデンプレイスタワー地下1階の自販機になら、250g缶があります」との回答が。

どうもなんですがサッポロビールのお膝元である北海道限定販売に近くなっていそうな様相みたいです。そうなった理由もなんとなくわかります。戦前は大日本麦酒ガリバーでしたが、戦後の昭和のビール業界のガリバーはキリンです。アサヒもサッポロも押しまくられていたのは事実です。キリンがガリバーになると、キリン系列の清涼飲料水が広がります。また戦後の清涼飲料水にはあのコカ・コーラが進出してきます。そういう状況でサッポロのリボンシトロンが後退につぐ後退を余儀なくされたんだろうぐらいでしょうか。いつ頃まで首都圏でもポピュラーだったかを調べるのは困難ですが、こんな画像がありました。

どうも販促に使った下敷きのようでちなみに裏は林寛子です。長嶋の背番号が90番で、結構若々しいですから1975〜1980年の第1次監督時代、それも初期ののものじゃないかと思われます。


そりゃ知らんわ

リボンシトロンの歴史を簡単にたどってみましたが、戦前は関西でもポピュラーな清涼飲料水であったとして良さそうです。しかし戦後となると清涼飲料水に次々と新しいブランドが参入してきたと思っています。コカコーラ、ファンタ、キリンレモン・・・優勝劣敗がどこでついたかは様々に理由が挙げられるでしょうが、資本力とそれに伴う広告力の差は確実にあったと思っています。どのジュースを買うかの判断材料にテレビのCMで見たことがあるのは大きな影響力があったと思います。逆にいうと見たことも、聞いたこともないブランドはそうそうは選ばないってところです。

戦後のビール業界はアサヒがスーパードライで復活するまでキリンがガリバーでした。戦前のガリバーの系譜をひくアサヒもサッポロも押しまくられて防戦一方であった時期が長く続いていました。アサヒは西日本が地盤でしたから、まだしも存在感がありましたが、東日本を地盤とするサッポロの存在感はもともと関西では薄く、リボンシトロン販売の強化まで手が回らなかったんじゃないかと推測します。だから私は知らなかったってところです。

行くことがあるかないか怪しくなっていますが、もし北海道に行く機会があったら是非飲んでみたいと思っています。