続摩耶花壇

前に摩耶花壇として取り上げたのですが、再訪して少しだけ情報が増えたので続編です。


現在の摩耶花壇

前回が去年の秋ですから7か月ぶりぐらいの再訪です。

20160529141601

相も変らぬ廃墟なんですが、目を凝らして見ると「ほんの」少しだけ補修の手が加わっています。本当に目を凝らさないとわかんないのですが、向かって左側のヒマラヤ杉からロープが廃墟に伸びています。これは残り少ない建築物の完全崩壊を少しでも「延ばそう」って意図に思えます。姑息もよいところですが、本格的にとなると莫大な費用が必要になりますから、せめてもの補修だと思います。細かいことをいえば摩耶花壇の看板も去年は、

20160529142618

前に倒れそうだったのを上向きに直してあります。「だからどうした」と言われそうですが、遺跡として整備がされている形跡ぐらいは見て取れました。


新情報

1枚目の写真の向かって右側のヒマラヤ杉に白い紙が貼ってあるのが新情報のすべてです。全部で3枚なんですが、そのうち2枚の写真部分を紹介していきます。

20160529141559

キャプションには、

開業当時に南西の丘陵から駅舎方面を背景に写された3階建ての外観。ケーブル開通の翌年(1926)に、車道の無いこの地に如何に資材を運んだかの謎と苦労が偲ばれる。

地上階から張り出た斜面の上に見えるテラスは石段を通じて降りる半地下室であったが、今はその基礎だけが残っている。

写真の見え方になりますが、オープンデッキであったと見て良い気がします。キャプションにも

遠く海を見晴らす涼風の下、50余名の宴席があった。

基礎部分は前にも御紹介した廃墟巡歴録:摩耶花壇より、

この基礎の上はオープンテラスであったことが確認できます。続いて正面側の写真です。摩耶遺跡プレートの画像と出どころは同じの気もしないでもありませんが、プレートより鮮明度が幾分上がっています。

20160529141600

キャプションには

入口の壁面にRestrarant 和洋御料理と掲げた大食堂と宿泊施設を備えた木造モルタル造りの建物。二階への階段窓にステンドグラスを備えた大正モダニズム建築であった。

窓際に見えるヒマラヤ杉らしい若木の2本が90年以上の歳月を経て、ここにそびえる巨木に育った。

アサヒビールとかリボンシトロンなんて文字も確認できます。向かって右側の壁面にも何か書かれていますが、これはさすがに解読不可能になっています。それと構造的に1階の食堂はかなり大きかったようで、画面左側に見える大きな窓が屋内食堂の窓と考えられますが、そのままテラスのオープンデッキまで続いていそうな気がします。なかなかシャレた作りじゃなかったかと想像しています。


建物の変遷

実に堂々ある建物で、もし現存していたらレトロ人気が出たんじゃないかと思ったりしますが、現存する遺跡の残骸と比べるとどうしてもギャップが残ります。いかに残骸に近いとはいえ、あれが3階建ての1階部分の残骸とするにはチャチすぎる気がするのです。これについての謎の答えがキャプションにありました。

1960年前後に木造洋館を解体し、その廃材利用で南斜面には数軒のバンガロー、参道沿いには茶店風の売店を設け、同名の「摩耶花壇」と称したが、今やこれも朽ちつつある。

摩耶花壇周辺の住宅地図を

にあるので確認してみます。
1956・1958年版とも同じ(「神戸市全産業住宅案内図帳 灘区」神戸地学協会)
1964年版(「神戸市全産業住宅案内図帳 灘区」神戸地学協会)
1966・1968年版とも同じ(「灘区 西部(観光と産業の神戸市住宅地図)」関西図書出版社)
1969年版(「灘区 西部」ゼンリン)
1956年より前の記録は遺憾ながらありませんが、摩耶花壇のバンガロー村は1956年に住宅地図で存在が確認できます。1958年でも同じ状態なのですが、その次の1964年にはバンガローの所在地が記載され6軒あるのが確認されている代わりに摩耶花壇ではなく「アート」と記載されています。この「アート」についても情報はこの地図しかないのですが、1966年になるとバンガロー村は消滅し屋号も消えてなくっています。これが1968年になると「アキヤ」と表示されています。これらから考えると摩耶花壇は
  1. 1950年代の前半に三階建のホテルは解体され、廃材はバンガロー村に転用された。
  2. バンガロー村は1964年まで確認されるが、1966年には消滅しており、この時期に摩耶花壇の営業も終った可能性がある。少なくとも1969年には「アキヤ」と表示されている。
ほいじゃ随所に書かれている療養所として運用されたのは「いつ」だったのかは・・・これについて語る資料をついに見つけ出せていません。あえて想像すれば戦時中だった可能性は残りそうな気がします。戦時中は摩耶山観光どころでなくっていたと考えられ、また神戸も空襲の被害を受けていますからホテルが療養所に転用されていたぐらいです。これが戦後になってホテルとして再開したものの経営が思わしくなくなり、建物を解体してバンガロー村に転じたぐらいです。今に残る廃墟はホテル跡に建てられた茶屋なら納得できるところです。

「アート」も想像するしかないのですが、ここは素直に身売りしたんじゃなかろうかです。バンガロー村と茶屋を買収したのが「アート」って会社でヒョットすると「アート・バンガロー村」みたいな経営だったと想像で、今に残る摩耶花壇の看板は茶屋の名称としてのみ残っていたぐらいです。「アート」の経営は1959年以降のどこかから始まり、1964年には終了していたと住宅地図上では推測されますので、最大で5年程度の短期間であったようで、摩耶花壇以上に情報も伝承も残されていないようです。


番外の遺跡

摩耶観光ホテルについて11(資料8)に1961〜1967年頃と推測される神戸市交通局の広告があります。

ケーブルまや駅(現虹の駅)の向かって左側の斜面にバンガロー村の所在が記されています。ちょうど旧千万弗展望台の下ぐらいになります。摩耶花壇のバンガロー村と合わせて、当時はバンガロー・ブームが摩耶山に起こっていたと想像されます。摩耶花壇側のバンガロー村は跡形もなく消滅し、旧千万弗展望台下のバンガロー村もほぼ消滅状態なのですが、バンガロー村の遺跡らしきものが残っています。

20160529155954

これが神戸市交通局の広告にあるバンガロー村の名残りか確認する術もないのですが、位置からして可能性は低くないと思っています。もしそうなら摩耶遺跡への昇格を希望します。