和宮像を巡るムック2

和宮像の由来を巡るムックなんですが、前回はどうにもこうにも情報が少なすぎてお手上げだったのですが、k23kawanoのブログ様が綿密な実地調査を行っている記録が見つかりました。読みながら羨ましくなるほどの行動力で、ムックをするならここまでやるべきなんだと尊敬させられました。おそらくこれ以上の情報を得るのは難しいと思われます。ひたすら紹介になりますが、ムック2をやらせて頂きます。


増上寺和宮像の由来も前回ムックでははっきりせず

  1. 皇室下賜品らしい
  2. 昭和3年らしい
こういう断片的な情報を採用していましたが、k23kawano様は直接増上寺に行かれて和宮像の由来を確認されています。気まま旅_木曽路(馬籠妻籠) 第21話 和宮像 第3話:増上寺増上寺に送った質問メイルとその返答が紹介されています。

安国殿の和宮像は鋳造師の慶寺丹長師により昭和3年に制作されたもの・・・と他のサイトに書かれていました。 正しいでしょうか? 

    当山の記録では、制作されたのは慶寺丹長師ですが、鋳造は昭和7〜8年となっております。 
増上寺には いつ どのような経緯で納められたのでしょうか? 
    昭和元年に増上寺で修された和宮様の静寛院宮の五十年法要ののちに鋳造が企画されたということですので、おそらくそのご縁で、鋳造後に増上寺に納められたと思われます。

五十年法要が盛り上がった理由も気まま旅_木曽路(馬籠妻籠) 第22話 和宮像 第4話:増上寺に、

大正15年(1926年)10月1〜3日(同年12月25日に元号が昭和に変わります)に増上寺で修された静寛院宮の五十年法要の話しです。 大正12年(1923年)には関東大震災があり、増上寺も被害があったようですね。 二つを取りまとめた静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会なる不思議な(?)会が結成されたとの記事がネットにありました。 発起人代表に渋沢栄一の名がみられます。 秘書の日誌には 増上寺は、震災以来頽廃極ニ達し惨状黙視すべからさる状態… と書かれ、増上寺にとって苦難の時期だったのですね。 栄一の「和宮様に就て」と題する文章では …世の艱難を一身にまとはれた方であつた…〜公武の合体を名として或る人々の策略から、人情を無視し此の御婚儀を御すゝめしたからであり、真に犠牲になられたから… とあり、五十年法要を契機として改めて悲劇のヒロインとしての見方が広がったのでしょう。 (いずれも渋沢栄一記念財団 渋沢栄一伝記資料より)

なぜに和宮が急にクーロズアップされたのかの理由はわかりませんが、ある種の和宮ブーム的なものがおこったぐらいの理解で良さそうです。ここまでの情報で増上寺和宮像は、

  1. 寄付したのは静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会関連の民間団体の可能性が高く、皇室下賜品ではなさそうだ。
  2. 出来上がったのは昭和3年ではなく、昭和7〜8年鋳造である
  3. 作者は慶寺丹長
皇室下賜品の伝承が残ったのは、当時の事ですから皇族の銅像を作るには皇室の許可が必要だったんじゃないかと推測します。それと昭和3年製作の伝承は中村直吉氏の二宮金次郎像の寄贈の話との混同で良さそうです。


日本女子会館

k23kawano様は日本女子会館も直接訪問され、和宮像の経緯について当時のメモを見せてもらっています。気まま旅_木曽路(馬籠妻籠) 第20話 和宮像 第2話:日本女子会館より、

  1. 神戸市の篤志家 中村直吉氏により寄贈せらる
  2. 中村氏は我が国夫人の風潮が欧化するのを嘆き、全国女性の修養殿堂として女子会館建設の企てがあるを聞き、この擧にでられしものなり
  3. 像の製作は大阪の銅像作家 慶寺丹長氏の手による
  4. 宮様の実際の姿を知る人も無く、二年間に亘り親近ありし縁者を訪ねて製作した苦心の作なり
  5. 寄進せられたるも未だ女子会館建築前なり 以て昭和八年四月十三日増上寺大殿内に仮奉案式を挙行す
  6. 仮奉案式は第79代法主の道重信教大僧正を大導師として、女子会館初代理事長の吉岡彌生氏挨拶、仏式開眼式、寄付者挨拶の次第で行われた
  7. 昭和11年5月に女子会館が完成し、本館大会議室西側に遷座し奉る

日本女子会館の和宮像が昭和11年寄贈の情報があったのは、寄贈された和宮像が昭和8年に完成した時に日本女子会館がまだ建築前であったからのようです。日本女子会館の和宮像は、

  1. 寄贈したのは中村直吉氏
  2. 昭和8年完成
  3. 作者は慶寺丹長
完成が昭和8年ってところに注目されます。


須磨翔風高校

この高校は旧神戸市立第二高等女学校であり、中村直吉氏の娘が通っていたとされています。ここに中村直吉氏が和宮像を寄贈したのは確実ですが、前回のムックでは行方不明とさせて頂きました。ところがギッチョン現存しています。気まま旅_木曽路(馬籠妻籠) 第27話 和宮像 第9話:須磨翔風高校に神戸市博物館への問い合わせメイルからの返答として、

博物館では神戸市教育委員会から1体預かって倉庫に保管しています。博物館で預かっている像は、神戸市立第二女学校(のち神戸市立須磨高校)から神戸市婦人会館を経て、教育委員会で預かったと聞いています

k23kawano様はさらに市教委より画像を入手されています。

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これで安徳宮にある和宮像は旧神戸市立第二高等女学校では無い事になります。


神戸高校

神戸高校は神戸一中の流れを汲むと一般に思われていますが、同時に県立第一高等女学校の流れも汲んでいます。要は合併したのですが、ここの和宮像はk23kawano様がメイルで問い合わせた結果、神戸高校からは、

残念ながら現在神戸高校には和宮像はありません。(神戸高校に在った和宮像は)現在、神戸市中央区の民家にあるということですが確認できていません。公立学校の像がなぜ民家にいってしまったのか、学校側の資料にも何も残っていません。不思議なことです。

県教委からも返信があり、

神戸高等学校に寄贈された像について現在は春日野道の商店街の民家で保管されています。

県教委の返信は重要で、神戸高校の和宮像は現存しているとしています。この像については民間所有となっており画像の入手はk23kawano様でも無理だったようです。現存するなら安徳宮の和宮像は神戸高校のものでもありません。そうそう神戸高校に和宮像が設置された時期も

昭和8年11月地鎮祭、9年4月除幕式

こうだったそうです。


夢野台高校

ここは旧県立第二高等女学校の系譜を引きます。ここにはまず台座にあった銅板が保存されています。気まま旅_木曽路(馬籠妻籠) 第31話 和宮像 第13話:夢野台高校より、

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どう見たってホンモノなんですが、夢野台高校には立像はなく座像が存在します。気まま旅_木曽路(馬籠妻籠) 第33話 和宮像 第15話:夢野台高校より、

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これも歴史を感じる銅像ですが、夢野台高校には座像しかなかったかといえば、気まま旅_木曽路(馬籠妻籠) 第34話 和宮像 第16話:夢野台高校に夢野台高校側の説明として、

外にあったのは当時を知った人に聞くとやはり立像だったらしいです、あれ(座像)ではなかったらしいです

当時の資料は残っておらず、推測を重ねるしかないのですが、

  1. 夢野台高校には立像と座像の2体の和宮像があった
  2. 座像と立像の由緒書きの銅板は残されたが立像は行方がわからなくなった
戦中から戦後の混乱期を挟みますから資料の散逸もやむを得ないでしょうし、当時の関係者も戦後71年の時間の前には生存者の存在さえ危ぶまれます。神戸高校の民間所有になっていたとされる和宮像が県教委のいうとおり存在していれば安徳宮にある和宮像は消去法で夢野台高校(県立第二高等女学校)のものになります。


感想

5体の立像はいずれも慶寺丹長作で、なおかつ完成年代も昭和8年前後で良さそうです。5体はよく似ています。細かな相違はあるとはいえ、基本フォルムは同じですから同一塑型から作られたものと私は感じます。ここまで似ているものを同時期に2つ以上の塑型から作ったとは思えないからです。ただ、作るたびに塑型に微調整を加えていた可能性はあると思っています。既に没後50年は過ぎていたわけであり、そもそも生きている和宮を実際に見た人間の数なんてしれているわけで、出来上がるたびに数少ない証言者の意見を取り入れていたぐらいです。

一番先に出来上がったのはやはり増上寺の可能性が高いと思っています。増上寺和宮像は民間団体の寄贈らしいとなっていますが、純民間というより官も一部噛んでいたと想像します。だから菊花紋が許されたんじゃなかろうかです。残りの4体は中村直吉氏の寄贈なんですが、日本女子会館で使われた紋が興味深いところです。これは江戸城展の出品物なんですが、

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これは和宮所有のものとなっています。どうも日本女子会館で使われたのは、これを参照にした可能性がありそうです。この日本女子会館の沿革には、

なお、本財団が管理運営する日本女子会館は、1937(昭和12)年当時、大日本聨合女子青年団と大日本聨合婦人会の会員による拠出金、皇室・各宮家からの御下賜金等により建設されたもので、各種講習会場、宿泊施設・結婚式場として活用してきました。

この団体も皇族との関連性がありそうなので、和宮の菊花紋の使用を許されたぐらいでしょうか。これが神戸の女学校となると、当時の事で菊花紋の使用に問題が出で三つ葉葵に差し替えられたぐらいは想像できます。


いずれにしても驚いたのは5体の和宮像が結果的にどれも健在な事です。神戸の3つの女学校がたぶん屋外にあった和宮像を終戦後に気にしたのは間違いなく、隠し場所に苦慮したぐらいは想像できるところです。神戸翔風高校の和宮像は神戸市婦人会館経由で市博物館に収納されましたが、神戸高校の分は県一高等女学校の校舎の移転がからむうちに、隠していた民間人がそのまま所有、もしくは戦後のドサクサですから転売された経緯ぐらいはありそうです。やはり一番数奇なのは夢野台の分だと感じます。

須磨の和宮像の断片的な情報は前回の時に書きましたが、それらを総合して考えると、まず一の谷の奥の山林に和宮像は隠されたと思います。でもってその隠し場所を知らずに買ったのが塩田富造氏であり、和宮像を見つけて驚いたぐらいです。この辺の経緯は微妙なんですが、塩田氏がその土地を買った情報を隠匿関係者は知り、たまたま塩田氏が楠公精神に感銘して寄手墳・味方墳を作ると聞き、和宮像の設置を「お願いした」のかもしれません。まあ、それでも残ったのですから良かった、良かったってところです。最後に5体の和宮立像の行方をまとめておきます。

最初の所在地 設置日 寄贈者 作者 戦後の所在地
増上寺 昭和7〜8年鋳造 不明 慶寺丹長 現在に至る
日本女子会館 昭和8年仮奉安式 中村直吉 現在に至る
市立第二高等女学校
(現須磨翔風高)
不明 神戸市婦人会館を経て神戸市教委、現在は市立博物館保管
県立第一高等女学校
(現神戸高)
昭和9年4月除幕式 行方不明となり、現在は春日野道の民間人が所有
県立第二高等女学校
(現夢野台高)
昭和9年4月21日建立 須磨の山中に隠され、塩田富造氏の寄手墳・味方墳の間に昭和29年に設置、さらに平成13年に安徳宮傍にに移転