和宮像を巡るムック

増上寺と日本女子会館

和宮親子内親王は幕末期の公武合体政策の犠牲になった悲劇の姫とされています。今日は和宮についてはこの程度に留め置かせて頂きますが、和宮像として有名なのは芝の増上寺にあるものです。有名と言っても増上寺自体に行ったことがありませんので気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録様から画像を引用します。

気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録様には、

安国殿に入り、正面左手に安置されています。銅像があることはだれでも気がつくとは思いますが、あまりPRされていないので、和宮の像だと気がつかない人も多いかもしれません。この和宮像は、鋳造師の慶寺丹長師により昭和3年に製作されたものです。

実は増上寺和宮像の由来を知りたかったのですが、これまた殆ど不明で、ここに辛うじて「昭和3年」の記録と作者が「慶寺丹長」であることが確認できます。気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録様は続けて、

増上寺の説明では、和宮像は、日本に三体あるそうです。その一体が増上寺にあるわけです。

他の像は、一つは日本女子会館にあります。日本女子会館にあるものが下の写真です。日本女子会館は増上寺の近くにありますが、そこに和宮像があることはほとんど知られていません。これは、財団法人に本女性学習財団のT課長さんのご配慮で拝観させていただいた際に撮った写真です。さら、もう一つの和宮像は兵庫の高等学校にあるそうです。

日本女子会館の和宮像の写真も引用させて頂きます。

増上寺和宮像の由来も曖昧ですが日本女子会館の和宮像となると、そこにあるのは判っているぐらいしか情報がありません。ではこの2つがまったく同じ像かといえば六人の和宮の謎を追って様が判りやすい比較画像を作られていますので引用します。

増上寺 日本女子会館
印象として同じモデル(つうか年代的に写真か絵から)作られた感じはあるのですが、出来上がりは微妙に違います。少なくとも同じ鋳型から製作されたものではない気がします。


須磨

増上寺和宮像は普段は公開されておらず、日本女子会館に至っては公開さえしていないようなので実物を確認しようがないのですが、気ままに江戸♪  散歩・味・読書の記録様の

    もう一つの和宮像は兵庫の高等学校にあるそうです
これは正確に言うと、かつては高校(というより高等女学校)にあったになります。現在は安徳宮の傍らに平成13年に安置されたとなっており、ハイキングの途中にたまたま撮影しましたので見てもらいます。

20160522124218

須磨の和宮像の由来も波乱に富んでおり新選組&幕末 ばんざい!!が引用された「ひょうご幕末維新列伝」を引用させて頂くと、

一ノ谷中腹の土地を戦後購入した塩田富造氏が、一体の身元不明の銅像が放置されているのを見つけました。
銅像は高さ1.2m程で、十二単を着た女性でした。
その後、塩田氏は一ノ谷合戦を記念する碑を二基建立し、その横に銅像を並べて安置しました。
銅像はハイキングコースから少し脇道にそれた場所に、ひっそりと立っていました。

和宮銅像(慶寺丹長 作)でした。

戦後に山中に放置されていたものを塩田富造氏が見つけたとなっています。この須磨の和宮像ですが「ひょうご幕末維新列伝」には

昭和9年、神戸米穀取引所理事長などを務めた中村直吉氏は、娘が通う神戸市立第二高等女学校(現:市立須磨高校)に寄贈しました。
中村は同時に県一(現:県立神戸高校)・県二(現:県立夢野台高校)の二女学校に、同11年には、東京の増上寺と日本女子会館に和宮像を寄贈しています。

中村直吉氏が神戸の3つの女学校に和宮像を寄贈した話は灘区制80周年記念事業協賛講座「灘区の学校の歴史」講演要旨にも、

昭和8年11月地鎮祭、9年4月除幕式。神戸市内の3高女に中村直吉が寄贈した。

こうなっていますし夢野台高校(旧県立第二高等女学校)のwikipediaにも、

1934年(昭和9年)4月21日、県二内に静寛院和宮像(皇女和宮像)が建立され、教職員と生徒は登下校時にその前で必ず最敬礼を行っていた。当像は青銅製で三代目慶寺丹長の作であり、その前年の1933年(昭和8年)11月20日増上寺和宮奉賛会理事・桑原瑞龍による講演も開催された。同じ和宮像が当校のほかに、県一と神戸市立第二高等女学校(現・須磨高校、略称:市二)にも寄贈されており、当校と市二の像は東京・増上寺にある皇室下賜銅像と同一塑型を使用して特別に作られたものであった(但し、菊の紋章だけは葵のに変更)。そのため、当校と市二では非常に和宮像への崇拝が強かったと言われている。

太平洋戦争末期の物資窮迫が強まった時代、金属の提出で小学校の二宮金次郎銅像がすべて陶製になる中、当校と市二の静寛院和宮像はこの時代による提供を免れられた数少ない像であった。しかし終戦後、GHQによる占領政策でこの像が没収されるのを恐れた有志が当校の静寛院和宮像を隠し、占領政策が終了するサンフランシスコ講和条約締結後の1952年(昭和27年)4月までその状態は続いた。

占領時代が終わり、源平合戦湊川の戦いに関わりのある須磨区「一ノ谷」の土地所有者が楠公精神に共感し、1954年(昭和29年)4月11日、「一ノ谷」に「寄手墳・味方墳」をハイキングコース脇道に建立。この時に静寛院和宮像は占領時代に隠匿していた有志の手によって、その寄手墳・味方墳の間に設置された(そこに置かれた経緯については不明)。その後、2000年12月に一ノ谷2丁目自治会によって須磨区一ノ谷町2丁目の一の谷公園内に場所を移して公開安置されている。

ちょっとずつ話がつながっていきますが、須磨の和宮像は中村直吉氏が寄贈した三体のうちの一つで、戦時中の金属供出は免れたものの、GHQ政策に抵触することを怖れて有志により隠されたようです。ほいでもってサンフランシスコ講和条約後の昭和29年に塩田富造氏が寄手墳・味方墳を作った時に傍らに設置された経緯のようです。


中村直吉氏

神戸の女学校に和宮像を寄贈した中村直吉氏ですが、NHKテレビ夕どきネットワーク「二宮金次郎像が全国に置かれるようになった背景」

中村直吉氏は、明治13年(1880)8月15日神戸市兵庫区に生れた。社会事業に非常な関心をもち、社会事業と名のつくところには必ず顔を出して、これを援助した。非常に深く二宮尊徳先生を尊崇し、その小銅像をつくって、神戸、明石の全小学校に寄贈した。また思想教化団体として、労働階級者をメンバーとする「養生会」を組織して指導に当り、また、兵庫実践少年団を組織し、毎日曜日には自らリーダーとなって山野を跋渉(ばっしょう)したり、社会見学を実践した。

こうした重なる徳行と、多年社会事業に尽した功労を表彰され、畏きあたりから御紋章入りの「硯箱」を下賜されている。

昭和14年(1939)1月14日逝去。

中村直吉氏が寄贈した二宮金次郎像の数は、

小田原の報徳二宮神社にある少年像は昭和3年昭和天皇即位御大礼記念として神戸の実業家・中村直吉氏より寄進されたブロンズ像。製作者は三代目慶寺丹長。これと同じ像は、全国の小学校に向けて約一千体制作・寄贈されましたが、戦時中全て供出に遇い、現在残っているのは、この一体だけです。

作者は和宮像と同じ慶寺丹長となっています。銅像関連の中村直吉氏の記録として、

  1. 昭和3年に約1000体の二宮金次郎像を全国の小学校に寄贈した
  2. 昭和9年に3体の二宮金次郎像を神戸の3つの女学校に寄贈した
これはほぼ間違いないと見て良いようです。


5体の和宮

和宮像は全部で5体あったと見て良さそうです。

  1. 増上寺
  2. 日本女子会館
  3. 神戸市立第二高等女学校(現須磨翔風高校)
  4. 兵庫県立第一高等女学校(現神戸高校)
  5. 兵庫県立第二高等女学校(現夢野台高校)
このうち神戸の3体は中村直吉氏が昭和9年に寄贈したものであり、須磨に残っているのは神戸の3体のうちのいずれかです。問題は増上寺と日本女子会館です。上記しましたように増上寺と日本女子会館の和宮像は同じとは言えません。さらに気になるのはwikipediaにある
    当校と市二の像は東京・増上寺にある皇室下賜銅像と同一塑型を使用して特別に作られたものであった(但し、菊の紋章だけは葵のに変更)。そのため、当校と市二では非常に和宮像への崇拝が強かったと言われている。
当校とは県立第二高等女学校(県二)なのですが、この記述を信じれば神戸の3体の和宮像は、
  1. 市二と県二は増上寺と同じもの
  2. 県一は別系統
こうなります。ここで確証はないのですが、5体とも作者は三代目慶寺丹長の可能性があります。でもってなんですが、須磨の和宮像は私の感想として日本女子会館に近いように見えます。写真の見え方によるのですが、
  1. 顔は増上寺がやや童顔なのに対し、日本女子会館はキリッとしている
  2. 手に持つ檜扇(だと思う)の角度が増上寺の方が深い
  3. 左袖の表現が増上寺と日本女子会館では違う
須磨の和宮像はいずれも日本女子会館に近い気がするからです。そうなると須磨の和宮像は県一のものになるのですが、根本的な疑問はなぜにわざわざ二系統の和宮像を中村直吉氏は作ったのだろうかになります。日本女子会館の和宮像はおそらく昭和11年に中村直吉氏から寄贈されたと考えて良さそうなので、私はこう考えます。
  1. 昭和3年増上寺和宮像がまず作られる
  2. 昭和9年に中村直吉氏が和宮像を神戸の3つの女学校に寄贈
  3. 昭和11年に中村直吉氏が日本女子会館に和宮像を寄贈
もう少し補足すると
  1. 「ひょうご幕末維新列伝」にある中村直吉氏による昭和3年増上寺への和宮像寄贈は、二宮金次郎像寄贈の話と混同されたものである
  2. 中村氏は和宮像の寄贈を思いついた時に、既に皇室下賜銅像として増上寺和宮像があるため公室の特別の許可をもらった(これが同一塑型を使ったと誤伝した)
  3. 中村氏は新たな和宮像を神戸の女学校と日本女子会館に寄贈した
結論として
  1. 5体の和宮像の作者はいずれも三代目慶寺丹長
  2. 増上寺タイプが1体と日本女子会館タイプが4体つくられた
  3. 須磨に現存するものは和宮崇拝が強かったとされる県二(現夢野台高校)か市二(現須磨翔風高校)のいずれかの可能性が強い
大切に保管されている増上寺や日本女子会館の和宮像に較べると、数奇な運命をたどった須磨の和宮像ですが、これからは安置となってほしいところです。