須磨浦公園駅。バーで約束はしたものの本当に彼女は来るのか不安テンコモリでしたが、時刻通りに
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「はぁ〜い」
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「やっぱり登るの?」
「今日は歴史ハイキングやから、登る事に意味があるんや」
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「けっこうキツイねぇ」
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「ホンマに景清はこの山登ったの」
「ボクは登ってないと思てるねん」
「どういう事」
「騎馬武者じゃ登れへんと思う」
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「どっちも同じようなものとちゃうん」
「似てそうやけどだいぶ違う」
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「源平武者の大鎧と戦国武者の鎧は違うの」
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「かなりの重量級ね」
「そうなんだ、重すぎて徒歩戦には向かなかったんだ」
「だよね。そんな重い鎧じゃ走り回るなんて出来ないもんね」
「だから騎馬である必要があったんだ」
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「じゃ、なんで戦国武者の鎧は軽くなったん」
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「なるほど。源平武者は人馬一体と言うか、馬がなければ動けないって事やったんやね」
「その点は覚えとったらエエよ」
「そっか、だから景清は登ってないって言ったのね。源平武者に取って馬は欠かせない足やから、馬を置いて山に登らないってことね」
「そういうこと」
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「見て見て、これレコードのジュークボックスやん」
「ホンマや、かけれる曲は・・・」
「あは、演歌ばっかりやね」
「いやムード歌謡もあるけど、真昼間にかけるのはあわへんな」
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「なんか、なつかしい。エアホッケーあるやん。やろやろ」
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「ポートタワーにもこんなんあったね」
「今でもあるのかなぁ」
「今度見に行こ」
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「うわぁ、綺麗。明石大橋があんなに近くに見える」
「今日は大阪まで良く見えるわ」
「でも見晴らしは良いけど、こんな山の上じゃ、下を攻撃するには遠すぎるよね」
「途中も陣取って戦えそうな平地はなかったやろ」
「なかった」
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「え〜、行かへんの、リフト楽しみにしとったのに」
「そこかよ」
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「こういう道好きやねん」
「ここは良く整備されから」
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「ここを義経は登ってきたん?」
「鉄拐山の麓が一の谷ならそうなるねん」
「ここは登れへんなぁ」
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「次は義経道を下るね」
「さっきのとこやね」
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「これぐらいやったら、頑張って鉄拐山登ったら行けるんちゃうん」
「この辺はね」
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「ここ馬に乗って下ったん」
「そうなるねん」
「絶対死ぬで」
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「こっちの女の人の銅像は」
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「実はここは一の谷ではないんや」
「違うの?」
「だって周りを見てみ、ここが谷に見える」
「見えへん」
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「ここ?」
「そういう事」
「ここを下ったの?」
「ここに一の谷があれば下らないと逆落としにならへん」
「絶対死ぬわ」
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「えらい狭苦しい谷やねぇ」
「そうやろ」
「もし鉄拐山を越えて行こうと思えば、あの急坂の鉄拐山をなんとかよじ登り、そこからあんな崖を二回も命がけで下らんとあかんことになるんやね」
「そうやねん」
「それとあの谷やけど、袋小路やん。あんなとこにおったら逃げ場があらへんやん」
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「奥須磨遊園のリフト乗りたかった」
「そんなに」
「また連れってね、今度はロープーウェイからカーレーター乗っていこ」
「今度ね」
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「実際に行って良くわかったけど、あんなところを騎馬武者が駆け下るのは絶対無理やね」
「ボクも現地を見て絶対に違うと思てん。そんでホンマの一の谷はどこかを考えてるんや」
「鉄拐山の麓じゃなかったら他になるもんね」
「その前に鉄拐山の麓が一の谷やない他の証拠も押さえておきたいんや」
「証拠って、犯罪捜査みたい」
「とりあえず今日歩いた地形図を見てくれる
起伏を陰影でつけた地図やねん」
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「鉄拐山やけど尾根伝いに来た可能性は」
「それも考えないとアカンけど、尾根伝いで義経が来たのならあんなところを攻めないと思うんや」
「どういう意味」
「これも口で説明するには難しいんやけど。とりあえず国道2号線あるやん。あれって江戸時代の西国街道の跡って知ってるよね」
「うん。西国街道が山陽道の跡ってのも知ってる」
「その山陽道やねんけど、出来た頃は須磨浦公園と塩屋の間の海岸が狭くて通れなかったんだ」
「そうやったの」
「そのために須磨から多井畑に一度登って塩屋に下ってたんだ。これも地図作ってあるから見てくれる
源平合戦の頃には海岸の幅が広がって山陽道も海岸沿いにルート変更されたんやけど、旧の山陽道も姫街道として使われていて、江戸時代にも古道越と呼ばれて使われていたんだ」
「へぇ、知らんかった。須磨から多井畑に抜ける道って今の離宮公園の横を通る道ね。でも古道越えがあるんやったら、そこから尾根道伝いに鉄拐山に行った可能性もあるんじゃない」
「そうなんやけど、明治期の地図があるから見てくれる」
「なんでも持ってるんやねぇ」
「黄色の線が古道越やけど、ほぼ現在の道路と一致するんや。ただ多井畑峠はポートアイランド作る時に削り倒したからかなり低くなってる」
「多井畑峠から高倉山って一〇〇メートルほど登るんやね」
「そうやねんけど、地図上の点線は明治期の山道だったと見てエエと思うねん」
「鉄拐山のあたりは今もそんな感じやねぇ」
「しかし多井畑峠からの尾根道はないんや」
「でも六甲山縦走コースってあるやん」
「それは当時はなかったと思うんや。六甲山縦走ルートは当時の生活道路やないからね」
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「それと山陽道が海岸寄りに変更になった後に古道越はかなり荒れていたとの話もあるんや」
「そうやろなぁ。一八〇メートルもある峠を越えて塩屋に行くより平地の海岸線沿いの道を行くよねぇ」
「そうなんや。それよりなにより多井畑峠まで義経軍が登れるんやったら、鉄拐山を目指すより、そのまま須磨に下ったらエエやろ」
「そっか、一の谷を東西から挟み撃ちに出来るんや」
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「証拠やったらもう一つある」
「なに?」
「一の谷が落ちた時に平家はどこに逃げた」
「えっと、大輪田の泊」
「そうなんや。鉄拐山の麓では大輪田の泊には遠すぎるんや」
「言われて見ればそうね。じゃ、なんでここが一の谷になったの?」
「江戸時代にも観光ブームが起こって、ガイドブックみたいなものが作られたんや」
「摂津名所図会みたいなやつ」
「そう。その時に『一の谷はどこ』って探したみたいなんや。その時に兵庫津の船乗りがここを一の谷と答えたからじゃないかと言われてる」
「じゃ、やっぱりここが一の谷?」
「違うよ、兵庫津の船乗りのいった一の谷とは、兵庫津に入港する時の目印だったんだ」
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「私も延慶本読んでみる」
「ネットに転がってるけど・・・読むのは大変やで」
「もしかして崩し字とか」
「それやったらボクも読めへん。テキスト・ベースやから字は読めるけど。ま、読んでみ」
「じゃ、頑張る」
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「今日は楽しかった。また来ようね。それとこの続きを絶対にしようね。どこに一の谷が本当にあったかなんて調べるのは本物の歴史ロマンって感じやもん」
「本当の一の谷がどこやったかは、ボクも研究中やから一緒に考えよ」
「今度は絶対最後まで付き合って結論一緒に出そうね。約束やで」