六条八幡宮と鷲尾三郎義久

まず最初にお断りをさせて頂きます。当ブログは平日更新を原則としてましたが、少々本業が忙しく無理が生じてきております。とくにここのところは大無理があり、今週は今日にて残りは休載、今後も平日更新は「できたら」の方針に変更させて頂きます。お楽しみにされている方もおられるかもしれませんが、御了承頂きたく思います。


日曜日は秋から中断していた山歩きをしていました。目指したのは稚児墓山で、丹生帝釈山系の東側に位置し、この山系の最高峰になります。名前の稚児墓とは、三木合戦の時に羽柴方が三木城への補給ルート遮断の一環として丹生山を攻略し、その時に逃亡中の稚児がこの山で殺され、これを悼んでの墓があるからとされています。

実際に登ると墓と言うより小さな塚があります。地形からしてもう少し東に抜けると淡河に抜けられるので、当時三木方の淡路弾正のところへの脱出を図ったのかもしれません。ただし淡河城も羽柴方の包囲網の中にありましたから、稚児墓山辺りで身体極まったのかもしれません。そんな事を思いながら、山を下り山田の里に向かいました。


今回の目的は山歩きもありましたが、山田の里の無動寺、六条八幡宮を見学するというのもありました。無動寺はともかく六条八幡宮はなかなか興味深いものがありました。六条八幡宮の由緒はwikipediaには、

社伝によれば、六条八幡神社の所在する山田の地は神功皇后の行宮が所在した霊地であり、そこに平安時代中期の長徳元年(995年)、周防国の僧、基灯が八幡三神を祀る宝殿を建てたのが当社の起源であるといい、元禄5年(1692年)成立の「寺社御改書上帳」(田中家文書)という史料によれば、長徳元年、基灯が円融寺という草庵を建てるとともに、里人の協力を得て八幡神を祀る宝殿を建てたとされている。基灯は『今昔物語集』巻第13に登場する半ば伝説的な人物で、その伝記は定かでない。

その後、保安4年(1123年)、当時山田庄の領主であった源為義が、京都の六条西洞院の自邸に祀られていた石清水八幡宮の分霊である左女牛八幡宮を勧請し合祀したという。六条八幡という呼称はこのことに由来する。以後神仏習合の霊山として足利家代々の篤い尊崇を受けた。

歴史的に見れば、山田庄は平家没官領であったものを文治3年(1187年)、源頼朝が左女牛八幡宮に寄進したものであり(『吾妻鏡』、若宮八幡神社文書)、六条八幡神社の実質的な創建はこの頃ではないかと推定されている。

神功皇后伝説はこの辺りに様々に残されており、これはこれで後日また調べてみたいのですが、注目したのは

    当時山田庄の領主であった源為義
源為義の本拠地は摂津の多田であり、地理的にも勢力圏内ですから関係があってもおかしくありません。これは惣山町・鈴蘭台周辺 北神戸 丹生山田の郷にある記載ですが、

 いずれにしても、鎌倉時代から室町時代には大いに栄え、鎌倉時代には社領を管理する政所(領地の政務全体を司る)・公文(年貢などを司る)・下司(領地の事務を司る)・荘官(領地の管理を司る)の四識を置き、政所に下村の鷲尾家、公文に同じく下村の畠田家(こちらも現在でも畠田・畑田の姓の多い東下?)、下司に原野村の栗花落(つゆ)家、荘官に福地村の村上家を当て、当時の山田の中心全体の組織としている。

 更に室町時代には、鷲尾家と栗花落家を頭家として、鷲尾の下に衝原村の箱木家・下村の畠田家・坂本村の田中家・福地村の村上家、栗花落家の下に原野村の山田家・上谷上村の阪田家・下谷上村の砂川家・小部村の向井家というほぼ山田全域をカバーする神事勤務の役割も組織されたらしい。この神事の組織は現在までも引き継がれ、昭和54年編纂の「山田郷土史(第2篇)」の各字(部落)の部落役員として歴代(大正〜昭和)の自治会長と並んで六條八幡神社氏子総代が記されている。

鷲尾氏が山田の郷の有力家として長く栄えた事が記されています。そいでもって源為義との関係として、

二つ目の説は平家滅亡の文治元年(1185年)に源頼朝保元の乱で処刑された祖父源為義のために京都六条の旧為義邸に左女牛八幡宮を建立し、その2年後に丹生山田の地を左女牛八幡宮社領地にした(鎌倉幕府の記録である吾妻鏡の記述)以降とするもの。

神功皇后伝説の由緒のなんらかの社殿はもともとあったのかもしれませんが、六条八幡宮が栄えたのは源平合戦以降、頼朝が神社建設に関与してからのものと見て良さそうです。また頼朝が山田の地に神社を作ったのは祖父為義との関連と考えても良さそうな気がします。


実際に訪れて神社の由緒書きを読んでみるとさらに興味深いものがありました。そこには山田の地は源為義の荘園であったが、清盛の要請によりどこか(忘れた)と交換されたです。為義と清盛の活躍時代を考えるとこの記述は微妙で、保元・平治の乱で源氏勢力が退潮した時に清盛が手に入れたと考える方が妥当なようにも考えますが、源平合戦以前は為義の荘園であったぐらいは言えそうな気がします。

清盛が福原に大きな根拠地を築いたのは周知のことで、いつから清盛が福原建設に本腰を入れ始めたのかは確認していませんが、福原を根拠地にするのであれば奥座敷に位置付けられる山田は確保しておきたいところです。山田だけではなく東播磨一帯に平家の荘園が多くあったらしいとなっており、裏口にあたる山田は絶対に欲しい地域であったはずです。

清盛は晩年に福原から明要寺(丹生山)に至る参詣ルートを整備したともなっており、山田の地は福原防衛のためにも重要な地域であったと考えて良さそうです。


問題は為義と言うか、摂津源氏がどのぐらい前から山田の地を勢力圏に置いていたかです。これはさすがにわかりません。なんとなく為義以前から結構長かったのではないかと考えます。長いと山田の郷の有力氏族ももともとは源氏の家人であった可能性もあっても不思議ななさそうな気がします。保元・平治の時の源氏方の主力はやはり近畿の源氏勢力であり、山田の鷲尾家も参戦していても不思議はないと言うところです。

鷲尾三郎伝説はwikipediaより、

平家物語』の「老馬」の段に登場する(覚一本)。元は播磨山中にて猟師をしていたという。寿永3年(1184年)、三草山の戦いで平資盛軍を破った義経軍は、山中を更に進軍していくにあたって、土地勘のある者としてこの義久を召し出し、道案内役として使ったという。義経一行が鵯越にたどりつき、一ノ谷の戦いにおいて大勝を収めることができたのは、彼のこの働きによるところが大きく、「義久」という名はその褒賞として義経が自らの一字を与えてつけたものだと言われている。

以降、忠実な義経の郎党として付き従い、最後は衣川館にて主君と命運をともにしたという。

平家物語の一の谷伝説ぐらいにしか登場しない人物ですが、ここでのポイントは義経の家来である事です。衣川まで同行したかどうかは不明としても、かなり長期間義経の家来として活躍したぐらいは解釈できそうです。しかし義経は壇ノ浦の後に頼朝と対立関係になります。義経の家来は頼朝及び鎌倉幕府の敵としてトコトン利用されるのが後の歴史です。

山田の郷で鎌倉時代に鷲尾家が大きな勢力を保ったのは事実のようです。ただこれが一の谷の鷲尾義久の功績とは言い難いのが歴史です。むしろ鎌倉幕府からは敵視される関係にあったとも言えない事もありません。鷲尾家と源氏の関係が一の谷の義久だけであれば後の歴史と話が矛盾する気がすると言う事です。


そこまで考えると鷲尾家と源氏の関係はもっと深かったと考えても良さそうです。為義ないしそれ以前から深い関係があり、清盛全盛の時にはむしろ鷲尾家は源氏との関係により平家から冷遇・敵視されていた関係にあったのかもしれません。だからこそ義経に味方し、一の谷の勝利に貢献したと。ここでも微妙なんですが鷲尾義久は鷲尾「三郎」義久です。

三郎は三男を意味します。当時のことで太郎や次郎が必ずしも生き残っていたとは限りませんが、もし兄がおり、兄ないし父が鷲尾家の惣領であったは考えられるところです。義経進軍に辺り鷲尾家は源氏に味方し、三男の義久を義経の味方(人質)に指しだしたです。もちろん三郎の鷲尾家は分家であった可能性も十分にあります。一の谷後は三郎は義経の郎党として、本家は源氏の味方として存在したです。

壇ノ浦後に「義経 vs 頼朝」状態が出現した時にも鷲尾本家は頼朝方への忠誠を誓い、これを頼朝が受け入れたのは、それこそ為義ないしそれ以前からの長くて深い主従関係があったからではないかと考えます。


鷲尾家はかなり栄えたようで、六条八幡宮には立派な三重の塔があります。wikipediaからですが、

室町時代中期の文正元年建立の和様の三重塔。建立当時の地元の有力者であった鷲尾綱貞の世話を得て建てられた。大工藤原周次・小工藤原光重という2人の作であることが棟札の墨書によって確認されている。総高13〜19.1mで檜皮葺の屋根を持ち、初層内部には仏壇を置いて阿弥陀三尊像を安置している。大正3年(1914年)4月17日に国宝指定(所謂旧国宝)、戦後重要文化財の指定を受ける。平成14年(2002年)には屋根の大規模な修復が行われた。

実際に見ましたが、かなり立派な塔です。wikipediaにも、

    地元の有力者であった鷲尾綱貞の世話を得て建てられた
これも実際に行って由緒書きを見ると鷲尾家の寄贈となっています。文正元年と言えば1466年ですから、壇ノ浦(1185年)から300年近く経ってからのものになります。もちろん時代も鎌倉から室町に移っていますから、延々と山田の地に鷲尾家は栄え、さらに現代に至るとしても良さそうです。


鷲尾家は山田だけではなく東播磨にも勢力を伸ばしていたんじゃないかとも見ています。つうのは東播磨には今でも鷲尾と言う姓は少なからずあり、結構地方的には有力者の家である事が少なくないのです。さすがにすべての鷲尾が山田の鷲尾と関係しているかどうかになると家系伝説の類になりますが、天正三木合戦でもキッチリ生き残っているのだけは間違いないでしょう。

もう一つ武門の家である傍証として、力技ですが六条八幡宮には神事として流鏑馬が現在でも奉納されています。神戸の奥座敷みたいな鄙びた地ではありますが、源平以前からの歴史ロマンが秘められている気が今でも強く感じてしまいした。