中村祐造氏を悼む

かつてのの大人気はなくなりましたが、私の少年時代のメジャースポーツの一つは間違い無くバレーボールでした。バレーが爆発的な人気を呼んだのは東京五輪の東洋魔女になります。さすがに東洋の魔女をリアルタイムで見れる年齢ではありませんでしたが、広い意味での実写版である「サインはV」とかアニメの「アタック No.1」は同じ世代の人間なら誰でも知っていると思っています。

女子バレーが東洋の魔女なら、男子バレーはミュンヘンの栄光になります。東京五輪の女子バレーは、大袈裟でなく文字通り日本中の注目を集めて金メダルを獲得しましたが、男子バレーも参加していただけでなく銅メダルを獲得しています。時代が違うとは言え、現在の男子バレーが五輪出場に悪戦苦闘している事を思えば、いかに立派な成績か判るものですが、当時はもちろん今でさえ評価は低いものです。

この男子バレーの地位向上と、金メダル獲得に執念を燃やしたのが松平康隆です。松平は東京五輪時にはコーチとして、メキシコ、ミュンヘンでは監督として男子バレー躍進に大きな力を発揮する事になります。松平は男子バレーの人気向上のために、長身でイケメンの選手であれば少女雑誌に積極的に紹介したり、ミュンヘンの時にはプロモーション・アニメみたいなものまで監修しています。

このアニメは私も実は見ていましたが、たしか「ミュンヘンへの道」と言うタイトルでした。内容は1回毎に代表選手のエピソードをドキュメント風にアレンジして取り上げ、五輪での注目度を高めようとするものだったと記憶しています。当時はそんな企画は珍しく、純真な私は見るたびに「日本は絶対に勝つ、五輪では絶対に金メダルだ!」の決意を強くしたものです。この手の番組は、その後にテンコモリ作られましたし、現在ですら作られていますが、おそらく元祖的なものじゃないかと思っています。


ちっとも中村祐造氏が出て来ないのですが、中村氏は東京五輪に代表として参加しています。中村氏は1942年生まれですから22歳の時です。この時は控えなんですが、次のメキシコ五輪には代表に選ばれていません。メキシコ五輪当時は26歳になるはずですから、選手としてもピークの時代になるはずですが、メキシコの銀には何故か参加していないのです。

これは私も意外で、どういう経緯があったのだろうと調べてみましたが、わずかに新日鉄の中村祐造物語に、

 昭和38年に念願の全日本メンバー入りを果たし、控え選手ながら東京オリンピックにも出場しました。昭和40年には全日本チームのレギュラーの座を掴み、昭和41年9月のプラハの世界選手権にも出場しました。(5位)

 その後しばらく全日本メンバーからはずれます

これだけじゃサッパリわかりません。ヒントは中村氏の経歴を見ると推測できそうな気がします。、

年齢 事柄
1963 21 全日本代表入り
1964 22 東京五輪に控えで銅
1965 23 全日本レギュラー
1966 24 世界選手権5位。この後に全日本から外れる
1968 26 新日鉄監督就任
1970 28 全日本復帰
1971 29 新日鉄日本リーグ陥落
1972 30 ミュンヘン五輪
1973 31 新日鉄日本リーグに復帰


松平が全日本監督に就任したが1965年です。松平は中村氏をレギュラーに選出し、世界選手権に臨んでいますが5位に終っています。東京の銅から明らかに後退です。中村氏のバレーは後年の新日鉄黄金時代を見ればわかるように、鉄壁のブロックに強力なオープン攻撃を基本にしたオーソドックスなものです。

あくまでも推測ですが、1966年も基本戦術はオーソドックスなものであったと考えます。それで挑んだ世界選手権の結果が5位であり、松平監督はこの路線の延長線上では世界で勝てないと考えたのではないかと思います。世界で勝つために取った松平監督の路線は「大型化」と「コンビバレー」です。中村氏の身長は184cmで、一般的には雲をつくような大男です。しかし男子バレーの世界では小柄になります。中村氏程度の身長でオーソドックスなバレーをしていたのでは勝てないとの判断でしょうか。

この辺はどこにも書かれていないので不明ですが、大型化はともかくコンビバレー路線で松平監督と中村氏の間で確執でも生じたのかもしれません。中村氏も相当信念の人と言うか、頑固そうな感じを受けますから、衝突があってもおかしくありません。ただ皮肉な事に松平監督が世界を相手に体格差で苦労しているのを、中村氏は新日鉄監督になって味あう事になります。これも中村祐造物語ですが、

184cmの中村祐造がチーム一の長身選手という小型チームを引っ張って、ひたすら再建に情熱を傾ける姿は、感動を呼ぶものでありました。

この苦労が中村氏と松平監督の確執を埋めたんじゃないかと勝手に考えています。また松平監督としても、金メダル獲得のためには強力なリーダーシップを持つ主将と言うか、チームの精神的支柱が必要と判断したと考えています。バレー観の差が埋まればこれほどの人材はいないと考えてもおかしくありません。

ただ30歳になった中村氏はミュンヘンではレギュラーでも主力でもありません。主力は大古、横田、森田、木村憲、猫田などの伝説のメンバーです。今となっては予選も含めてどれぐらい出場していなたかなんて記憶の端にも残っていませんが、たぶんさしたる活躍はなかったと思います。このままでは東京五輪と同様に単なる控え選手でのメダリストになってしまいそうですが、ドラマは準決勝に訪れます。

破竹の勢いで勝ち進んできた全日本でしたが、準決勝のブルガリア戦では大苦戦を強いられる事になります。ブルガリアも今なら「???」てなバレー強国ですが、この当時は強くて、当時の全日本がヨーロッパ遠征でボロチョンに叩きのめされた事さえあります。なぜにあれだけ大苦戦したのか記憶の彼方ですが、コンビバレーを研究されたのか、チームの歯車と言うかコンディションが最低に陥ったのかと言うところです。

あれよ、あれよでブルガリアに2セットを連取され、追い込まれた松平監督は起死回生と言うか、開き直った戦術を取る事になります。レギュラーメンバーの戦術が相手のツボに入ってしまっている状態ですから、この状況を打開するメンバーチェンジです。いわゆるリズムを変える戦術なんですが、土壇場の土壇場での戦術転換ですから藁にもすがる思いであったと考えています。

投入されたのは主将であった中村氏と、同じくベテランの南選手であったと伝えられています。身体能力的には盛りを過ぎていた両ベテランですが、ここはパワーではなく、苦境に陥った時のベテランの経験にすべてを託したと言うべきかもしれません。後は御存知の通り、両ベテランは見事に期待に応え、ブルガリアから流れを取り戻し、大逆転勝ちに導いています。

中村氏の最大の晴れ舞台でもあり、この活躍で中村氏は日本男子バレーボール史に永遠に名を残したと言ってもよいと思います。その後の男子バレーが延々と長期低落を続けていますから、なおさらの感も無いでもありません。その後も新日鉄監督として黄金時代を築いたり、全日本の監督なども勤められていますが、やはり中村氏といえばミュンヘンブルガリア戦になってしまいます。

享年68。闘将の名が相応しい名選手であったと思いますし、私の中の英雄の一人です。謹んで御冥福をお祈りします。