花見ハイキング

天気も良かったので日曜日は軽いハイキングと花見としゃれ込みました。花見の方は見事ではあったのですが、とにかく物凄い人、人、人で、花に酔うと言うより人に酔ってしまいとくに書き記す事はありません。

軽いハイキングは本当に軽くて西宮の甲山です。山頂は広い芝生広場になっており、気持ちのよいところです。そこに歴史好きなら気になるものがありました。昭和45年に見つかったものだそうですが、西宮市郷土資料館によると、

 甲山銅戈は、甲山山頂で偶然発見されたもので、そのまわりからはなにもみつかっていません。近畿地方には大阪湾型といわれる型式の銅戈が分布していますが、甲山銅戈とは型式が異なり、大阪府瓜生堂遺跡からこれに似た鋳型が出土してる以外、類例はありません。全長28.6cm。

 甲山銅戈は、昭和45年11月、甲山山頂において、先端部が露出していた状態で発見された。全長28.6cmを計る。出土後、国庫に帰属していたが、西宮市は、発見者・土地所有者・文化庁との協議を重ね、昭和56年9月16日付により本市の所有となった。昭和58年3月25日に西宮市指定文化財(考古資料)となった。

 銅戈は、全面にスがたち内部まで錆化しているため、長期間にわたる保存が困難であると判断されたので、平成元年5月30日〜7月29日複製を作成し、平成元年11月1日〜平成2年3月31日合成樹脂含浸による保存処理を行った。その後、郷土資料館において複製を常設展示している。

どうも銅戈だけが単独で見つかったようです。発見場所周辺は現在は上述した様に広い芝生広場になっており、昭和45年当時も大差ないと想像しています。つまり周辺調査は比較的容易であったと考えられ、素直な理解として銅戈1本のみが埋められたいたと理解します。

そういう状態の解説としてなんらかの祭祀にまつわるものとの定番の解説が行われるのですが、1本と言うのが少々引っかかります。甲山は名前の通り、ポコッとお椀を伏せたような独立峰で、信仰対象になっても不思議はない形です。そこに銅戈が祭祀のために埋められても不自然さはないのですが、何故に1本だったのだろうかです。

祭祀であれば継続があった方が自然で、継続があれば発展すれば寺社が建設されてもおかしくありません。衰微したとしても、もう少し祭祀後を窺わす様な出土物があっても良さそうなものです。長い年月の間に消滅してしまったもありえますが、どうなんだろうです。

寺社建設といえば甲山の中腹ぐらいに神呪寺があります。これも由緒が古い寺で、wikipediaには、

鎌倉時代末期の禅僧、虎関師錬の『元亨釈書』「如意尼伝」に神呪寺の開基について、記載がある。 それによると、神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。

もう一つこれもwikipediaから、

また、甲山山麓にある神呪寺にある碑には、禅僧虎関師錬が編纂した元亨釈書の記述に基づき、十四代仲哀天皇の皇后神功皇后が国家平安守護のため山頂に如意宝珠及び兜を埋め、五十三代淳和天皇の勅願により天長8年(831年)10月18日、神呪寺を開創大殿落慶したと伝えている。そのためか甲山のどこかに宝が隠されているという俗説が地元ではあった。

神功皇后伝説はそれなりに有名なんですが、ロマン派としては銅戈と神功皇后が埋めたと伝えられる「如意宝珠及び兜」との関連性を考えてしまいます。強引に解釈すれば、神功皇后は「如意宝珠及び兜」を埋めたとなっていますが、如意宝珠はともかく兜を埋めたのなら一緒に銅戈も埋めていてもおかしくないだろうです。

それと神呪寺の全盛時の状態を調べようがないのですが、神呪寺の位置からして甲山の山頂はいわゆる奥の院があってもおかしかくないところです。かつてあったのか、現在に至るまでなかったのかは確認できなかったのですが、もしなかったとすれば神呪寺創建以前からの神聖地であったのかもしれません。

その神聖地である理由に埋められていた銅戈が何か関連するんじゃなかろうかです。

甲山の山頂は広々とはしているのですが、眺望はもう一つなので、神呪寺から海を眺めて思ったことです。古代はどこまで海だったのだろうかです。甲山からもっともっと北側に大船山と言うのがあります。三田よりもっと北側にあるのですが、ここにもかつて寺があったとされます。

あったと言うより、山にあった寺が現在は麓に移転して残っているとなっているですが、大船山、さらには寺の名前の大舟寺でもわかるように、伝承ではかつては船着場であったとなっていました。こんな山の奥が船着場とは現在では想像もつきませんが、伝承ではそうなっています。

大船山が船着場に関連していたのであれば、甲山も古代はもっともっと海が近くても構わないわけです。


神戸は六甲山の南に広がる街ですが、古代の街道は神戸を通っていません。西国街道丹波方面から播磨に抜けるルートを取っています。神戸は東西に長い街ですが、西の端は六甲山が海に連なっており、現在ですら交通の難所です。だから山よりルートを古代の街道は取っていたが自然な解釈ですが、それ以前に六甲山と海の間はもっともっと狭かったんじゃないかとも思っています。

もちろん神戸もかなり古い遺跡は点在しており、全部が海の底だったとは思えませんが、現在の様にフラットに東西が通じているわけではなく、随所に海が深く進出していたんじゃないかです。どこかで調べれば古代の海岸線の推測図はあるんでしょうが、海の方を眺めながらそんな事を考えていました。


やはり花見の話題をつけとかないとタイトルと反するのですが、見たのは夙川のサクラです。人ごみは凄かったのですが、えらい上品な花見で、定番中の定番であるバーベキューもなく露店もりませんでした。その点では至極上品だったのですが、上品過ぎて露店でビールでも買って、花見をする目論見がオジャンにんったのは白状しておきます。

花見だって上品なほうが良いのはもちろんなんですが、花見について回る下品な雰囲気も嫌いではないので、良いような悪いようなちょっと複雑な気分になったのはたしかです。

ビールがあたらなったので、どこかの店の接待らしいオシャレな食事とワインで花見をしている光景が無闇に羨ましかったのが一番の感想です。来年は誰か誘ってくれないかなぁ。。。