兵庫の県民性

 何度か使ってるネタですが埋め草に。生粋の兵庫県民ですが、兵庫の県民性と問われれば、

    そんなものが無いのが兵庫県
 そう考えています。そもそも、どうして兵庫県になったのかも知ってる人は少なくて、兵庫湊から来てるのですよね。兵庫湊の始まりは大輪田の泊で、大輪田の泊が中世から江戸期まで兵庫湊とか兵庫津と呼ばれたからです。幕末に高田屋嘉兵衛が活躍して有名です。

 この兵庫県の設立目的は旧幕領の管理で、摂津国八部郡と莵原郡の住吉川以西の旧幕領・旗本領となっており管轄石高はわずかに6万石です。これを第一次兵庫県になるのですが、第一次兵庫県自体が領域がコロコロ変わり、

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 摂津から播磨、さらに稲田騒動で淡路とまさに飛び地だらけの県域になっています。これが慶応4年から明治四年11月までですが、次に第二次兵庫県に再編されます。
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 大雑把にいうと、大阪府以外の旧摂津が兵庫県になり、残りは、

  • 旧播磨は飾磨県
  • 旧但馬と京都府以外の丹波は豊岡県
  • 旧淡路は旧阿波に含まれ名東県

 豊岡県には旧丹後もかなり含んでいるのも確認できます。これが明治9年7月に、

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 これが第三次兵庫県で、現在の兵庫県になります。47都道府県の成立までにはどこもある程度は紆余曲折がありますが、兵庫県もかなりのものであったのがわかります。第二次から第三次の再編にはこんなエピソードがあるとされています。兵庫県HP県域の変遷より、

 但馬の出身で、内務卿大久保利通のもとで地租改正に従事し、その後、県知事や内務省の局長などを歴任した櫻井勉という人がいました。
 櫻井は、府県統合に際し、大久保から豊岡県と鳥取県の統合に関して意見を求められたそうです。櫻井は、「豊岡・鳥取両県は歴史的に関係が深いが、両県を往来する山間部の交通が不便です。かといって兵庫県と統合すると、面積が大きすぎます。豊岡県は、飾磨県と併合するのが良いと思います。」と述べますが、大久保から、「開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ。」と言われ、第3次兵庫県の原案を考え出しました。
 大久保はこの案を「一府県の増減に過ぎぬが、人々が幸福になって、県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である。」と賞賛したということです。

 播磨や但馬が開港場である神戸のためのヒンターランドにされた話は知っていましたが、その前と言うか、前段階で鳥取県と豊岡県の合併案があったのは初めて知りました。

 この桜井って人ですが出石藩の出身で、明治9年時点で内務省地理局員、翌明治10年に内務省地理局長に昇進しています。出身から近畿の府県統合案の担当であったと見れそうです。出石出身の桜井の地理感覚から但馬と因幡は交流が深いが、交通の便的には但馬と播磨の方が良いぐらいに見たと思われます。

 それ以前の問題ですが、無暗に豊岡県が大きい気もしています。これに桜井が関与した可能性も考えましたが、桜井の官歴は明治5年の横浜税関出仕からなので関係ないとみて良さそうです。それでも但馬出身の官僚が関与したと見えて仕方ありません。豊岡県は但馬、丹後、西丹波にまたがりますからね。

 豊岡県についてはこれぐらいにして、この時に鳥取県と豊岡県を合併させ、飾磨県と兵庫県を合併させる基本案があった気がします。これに桜井が反対して豊岡県と飾磨県の合併案を出し、それだったらと豊岡・飾磨・兵庫の合併案になり、さすがに広すぎるので丹後を京都府に合併させたぐらいです。

 こうやって見ると兵庫県の成立には、

  1. 神戸は大阪とは別に成立させる
  2. 開港場である神戸の発展に広いヒンターランドが必要
 これがあったようです。ヒンターランドとして第2次兵庫県では小さすぎる判断で、豊岡県ないし飾磨県を併合させるのが基本計画だったぐらいでしょうか。神戸を中心に経済的観点から成立したのが兵庫県で良いかと思います。

 成立と言うより寄せ集められただけですが、この状態は今も続いていると思っています。これは住んでいるとわかりにくいのですが、他府県の出身者と話をすると落差が良く分かります。〇〇県出身であるのにこだわりが非常に強いからです。ですから出身県の自虐ギャグ的な話にもう一つピンと来ないところがあります。

 極端な話をすれば兵庫県民にとって兵庫県とは、住所を書く時に兵庫県であるぐらいの意味しかない気がしています。ですから県民性と言われても、播磨、但馬、摂津、丹波、淡路で全部違いますから、なんの話をされてるのだって困るのが兵庫県民でしょうか。