一の谷の位置の補足情報の発見

発見というほど大層なものでは無く、単に私の確認不足だけのお話です。丸山一の谷説のネックの一つに延慶本平家物語より、

山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。去んぬる正月より、ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり。誠に由々しき城なり。

一の谷陣地の描写ですが一の谷があるのは、

摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける

難波は「浪速」の事で流れの速い水路みたいなものを指しますが、ここはもっとシンプルに海に近い、もしくは海に面するぐらいとして良いかと考えています。この点については当時の大輪田の泊の入江の深さの推測でほぼ説明可能になっています。問題は、

地元の住人でありながら、摂津と播磨の境界として現在の神戸市を摂津と無邪気に考えていました。そう考えてしまうと丸山一の谷は摂津の中に余裕で存在し、播磨と国境を接していない事になります。そのために色々とこじつけを考えていたのですが答えはWikipediaにありました。播磨国の領域として、

一部のみ

兵庫県神戸市須磨区(神の谷・北落合三丁目・北落合四丁目・菅の台・西落合・竜が台二丁目・竜が台三丁目・竜が台四丁目・竜が台五丁目・緑台・弥栄台)・北区(淡河町淡河・淡河町勝雄・淡河町北僧尾・淡河町北畑・淡河町木津・淡河町行原・淡河町神田・淡河町中山・淡河町野瀬・淡河町萩原・淡河町東畑・淡河町神影・淡河町南僧尾)

竜が台と言われても私ですらピンとこない(つうかニュータウンが出来て、あの辺は一体になってるもので・・・)のですが、地図で確認すると妙法寺の西隣あたりになります。つうか当時は山林だったとしてよく、長柄越を考えれば播磨と摂津の国境としてもさほど問題ないと思った次第です。播磨と東播磨を結ぶ鵯越道を考えても、この道の途中で摂津と播磨の国境になるわけで表現として

こうしても不自然ではないと思います。多井畑神社は摂津と播磨の国境を定めたとなっていますが、これは東西だけではなく南北も境界を定めたのかもしれません。国境が定められた頃には、古代山陽道が通る地域は摂津に含まれ、その北側の山林地域を播磨にしたぐらいの見方です。現在の地図ではニュータウン建設のために国境線を把握しにくいですが、当時的には「その辺」ぐらいにしていた気がしています。