日曜閑話80-5

古代銅鏡の錫メッキです。


鏡面の情報の乏しさ

古代銅鏡は裏面の文様についてはよく調べられています。材質も最近では科学的なアプローチが行われています。しかし表に当たる鏡面についてはあんまり良い資料がありませんでした。はっきり言えば殆ど言及されていません。それでも形状ぐらいは調べられていますが、そこに錫メッキが施されていたかどうかは「どうにも」不明です。私がググった範囲では

  1. 漢鏡は錫メッキが施されていたらしい
  2. 三角縁神獣鏡には錫メッキはなかったらしい
  3. 日本の発掘例で錫メッキが施された物は無いらしい
「らしい」ばかりで申し訳ありませんが、情報としてこれぐらいしかありません。とりあえずの興味は卑弥呼が魏の明帝(曹叡)から238年に下賜された銅鏡百枚は錫メッキが施されていたと考えています。卑弥呼が行ったのは朝貢ですから、これに対する下賜品に手抜きの粗悪品を使うとは思いにくいからです。朝貢に対する下賜品は王朝の威信がかかっており、同時に国際外交になります。234年に蜀の諸葛亮五丈原で病没していますが未だに三国時代は続いています。蜀も呉(孫権も健在です)もライバルとして存在している時代に小国とは言え卑弥呼の機嫌を損ねるのは得策と思えません。

では卑弥呼の錫メッキが施された銅鏡が見つからないのは・・・JSJ様が以前コメントされたように、誰にも配らず墓場に持っていったのかもしれません。


錫とアマルガム

錫メッキを行った技法はアマルガム法と考えられています。これは奈良の大仏の鍍金にも用いられている技法です。アマルガム法を行うのに必要な材料は単純化すれば、


  1. 水銀
この2つになります。このうち水銀は日本でも採取できます。魏志倭人伝にも

其四年 倭王復遺使大夫伊聲耆 掖邪狗等八人 上獻生口 倭錦 絳青縑 緜衣 帛布丹木 𤝔 短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
(その四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青ケン・緜衣・帛布・丹・木? ・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す)

ここにある「丹」が水銀かどうかは議論が出るかもしれませんがもう1ヵ所

以朱丹塗其身體 如中國用粉也
(朱丹を以てその身体に塗る、中國の粉を用うるごとし)

水銀の可能性は高そうに思います。とにかく水銀は国内で入手できたで良いと見ます。


問題は錫になります。日本では錫があんまり採れないのです。民俗学伝承ひろいあげ辞典様の日本のスズ鉱山と古代スズ製品出土地分布図・一覧と日本海交易の肯定には古代の錫製品の出土一覧があります。

弥生時代にも錫製品の出土はありますが、製品は日本で作ったと言うより大陸の製品を交易で手に入れたと考える方が無難な気がします。でもって

兵庫県の場合は六甲山系の花崗岩鉱床に鉱物が含まれ、東九州では祖母などの270万年ほども前の古い火山地帯に分布する。これらから奈良の大仏用のスズが献上されたことは疑いが無い。

私は少々疑問です。錫は安定した金属で、上流に錫鉱脈があれば、そこから流れ出した錫成分が比重淘汰で錫石になったり錫砂となって採取可能とはなっています。まあ砂金みたいなものでしょうか。砂金はキラキラしているので見つけやすいですが、錫石や錫砂が容易に見つかるだろうかです。それに関連して鈴江とか鈴浦の地名は錫を採取した事に因んだ地名と言う説もありましたが、これも否定的な気がします。これは古代の製鉄法で葦に付着した褐鉄鉱を採取した事に因んだでいると考えた方が正しそうです。

古代史の専門家でも錫の入手先は不明としている事が多いのが現状です。私も暗礁に乗り上げていたのですが90年5月12日の毎日記事に注目します。

見つかった錫のインゴッドは400年ぐらいと推測されていますが、私の興味をかき立てたのは錫を輸入する事が可能だった点です。ついに弥生時代でも錫がインゴットとして使用可能と思った次第です。これで錫メッキの必要条件がそろいました。十分条件は錫メッキ技術です。これは大陸から技術者を招聘するなり、渡来人が持っているなり、留学生を送るなり、さらってくれば調達可能です。卑弥呼の時代でも余裕で錫メッキ技術は大陸では確立していますから、錫メッキは不可能でなかったぐらいに漕ぎ着けられます。つうかアマルガム法自体は既に伝わっていた可能性があります。wikipediaより、

古墳発掘の副葬品は既に錆に覆われた銅や青銅が多いが、表面に金アマルガム粒子の残留やヘラ磨きの痕跡があり、鍍金加工がされていたと考えられている。

これは古墳時代の話なので弥生時代より少し後ですが、既に大陸では既成技術化してますから、材料さえあれば不可能ではありません。


独占技術

錫メッキが弥生期にも不可能でなかった事はなんとか立証しましたが、なぜに錫メッキを施した古代銅鏡が見つからないのかの問題があります。それは邪馬台国の機密技術にされていた可能性を考えます。銅剣・銅矛・銅鐸文化が銅鏡に取って代わられた理由としてキラキラ教仮説を考えています。古代人はキラキラするものを太陽の化身として信仰しており、銅の輝きより銅鏡の輝きを珍重したぐらいの仮説です。邪馬台国が北九州を制したのは銅鏡の輝き、錫メッキによる鏡面の効果じゃなかったろうかです。でもってこの技術は宗教上の秘術として門外不出のものにしたぐらいの想像です。

とはいえ錫メッキされた銅鏡を卑弥呼だけが持っていたとするのは無理があります。強権的に取り上げて削り落としてしまった可能性も無いとは言えませんが、そこまでの強権を卑弥呼が持っていたかと言うと正直なところ疑問です。ヒントを探していたのですが、錫メッキによる鏡面は曇りやすかったそうです。それこそ毎日手入れしておかないとすぐ曇り、一度曇ってしまうと元に戻すのは大変だったとされます。後世では鏡面を磨くためにカタバミを使ったり、ザクロの汁を使ったりしていたそうです。古代では丹砂を使っていたとの考察もあります。

何が言いたいかですが、弥生人は鏡面の錫メッキの手入れ法を知らなかった可能性はあると思っています。曇ってしまうと価値は低下しますから闇雲に磨いた可能性を考えています。闇雲に磨いている内にメッキが剥げちゃったんじゃないかと想像しています。一方の卑弥呼には鏡面再生技術があります。また鏡面の手入れ法も秘術として保持していた可能性も考えています。そうなると銅鏡を臣下なりに下賜したら、最初はキラキラと輝くものの時と共に曇っていきます。輝きを取り戻そうと磨いてもメッキが剥げてしまう結果にしかならなかったぐらいです。一方の卑弥呼は常に輝く鏡を持っている関係になります。これを手入れの悪さと思うよりも、卑弥呼が持つ力と信じたぐらいを想像しています。

ま、それ以前に錫のインゴットを入手するのが大変だった可能性もあるとは思っています。大陸でも古代の錫の供給は需要に較べて慢性的に不足していたとされ、大陸でも貴重であった錫をホイホイと日本に輸出はしないだろうぐらいの推測です。ただ、この辺の説明はどうしても限界があります。とにかく謎の世紀で技術的な事を推測するのは手に余るところがあります。