日曜閑話80

今日は古代銅鏡です。


漢鏡と三角縁神獣鏡

古代でも間違いなく漢鏡の方が珍重されていたと考えます。例としては黒塚古墳をあげて良いかと思います。黒塚古墳は3世紀前半から4世紀前半の築造と見られていますが、非常に珍しい事に盗掘を免れています。ここでは34枚の銅鏡が出土しているのですが構成は

銅鏡の配置ですが三角縁神獣鏡はすべて棺外に並べられ、棺内の頭のところに画文帯神獣鏡が置かれています。これは黒塚古墳だけが特異例ではなく、他の古墳でも似たような例はあります。これについても様々な解釈がなされています。wikipediaには、

三角縁神獣鏡のこの扱いにより、この鏡が葬式用に作成されたもので価値のあるものでは無い(つまり小林行雄による大和政権の配布説を否定)との見解を補強したとの解釈もある。

たしかに三角縁神獣鏡は確認されているものだけでも500面以上あり、未確認のものを含めると1000面は軽く越えていても不思議有りません。ただ「価値のあるものでは無い」はチト言い過ぎの気がします。三角縁神獣鏡を枕元に置いた発掘例もあるからです。それと三角縁神獣鏡を価値の無いものとすると、棺の外に置かれていたものはすべて価値の無いものになってしまいます。それも解釈として強引な気がします。三角縁神獣鏡は青銅器である一点だけでも貴重品として良いかと思います。ただ価値の序列的には、

これはあるとして良さそうです。これについては鏡自体の仕上がりが良く論議されますが、キラキラ教説を取れば違う面がある気がしています。


鏡面

古代だって裏の文様は珍重されたでしょうが、鏡の主たる役割は表の鏡面です。キラキラ教説に従えばよりキラキラする鏡ほど価値が高まったと考えます。ここからは調べたんですが、どうもはっきりしない領域になります。もう少し後世の銅鏡には鏡面に錫メッキが施されるようになります。しかし三角縁神獣鏡には錫メッキが施されたものは「どうも」ないようです。つまりは銅を磨いただけと言う事になります。一方の漢鏡には「どうも」錫メッキが施されていたようです。なんとか見つけたものですがTakacello’s Blog様の上海博物館・20121125の画像を引用します。

鏡面の白い部分が錫メッキの名残のようです。錫メッキ技術自体は紀元前1500年に遡る説があるぐらいですから、漢鏡に施されていても不思議とは言えません。錫メッキがあるか無いかで鏡面の反射は格段の差が出ます。この差が漢鏡と三角縁神獣鏡の扱いの差の一つになっているんじゃなかろうかです。


日本では青銅器と鉄器がほぼ同時に伝わったとされます。これは日本に純粋の青銅器時代がなかった事を意味します。純粋の青銅器時代があった地域では銅を固くする技術の開発に取り組みます。銅単体では道具にするには軟らかいのが理由です。その中で編み出された技術が銅に錫を混ぜ込むであったとされています。しかし日本では青銅器は実用品として利用されるより装飾品として利用された印象を持っています。つまり強度はさほど重視されなかった気配があります。

傍証として弥生時代古墳時代にくらべて青銅器の錫の含有量がかなり少ない調査結果があります。これは銅剣にしろ、銅矛にしろ、銅鐸にしろ見る物であって使う物ではなかったので、強度はさほど重視されなかったとして良さそうな気がします。そういう実情は古墳時代でもあんまり変わらない気がしますが、どうも古墳時代になって錫を混入して強度を上げる技術だけが広まった気がしています。それも精錬した錫を使用すると言うより、錫石を入れる技術だけです。

錫は河川の上流に鉱石が含まれていたら、比重淘汰で錫石ないしは砂状で採取が可能とされます。日本は錫の産出が多くないのですが、古墳時代なら河川の下流に長年蓄積された錫石を見つける事が可能だったと考えています。またそういうところに錫石があるとの情報も入手したと考えます。しかし概念として錫石を青銅に入れる事は知っても、そこから錫を取り出す技術が伴わなかった可能性はあると考えています。

青銅器に錫を混入するだけなら錫石でもOKですが、銅鏡の鏡面に錫メッキを施そうと思えば、錫石から錫を取り出す必要があるはずです。これが三角縁神獣鏡が量産された時期にはまだなかった、もしくは十分とは言えなかった可能性を考えています。もう少し言えばメッキ技術自体が不十分だった可能性もあると考えています。

古墳時代もそうでしょうし、弥生時代はなおさらですが、金属加工技術はいきなり出来上がった技術が日本に伝わります。しかし、そのすべてを理解する能力がまだなく、また活用できるだけの技術基盤も乏しかったと考えるのが妥当な気がします。当時の日本で利用できる技術だけが活用されても不思議ではありません。その中で錫を取り出し、錫メッキを施す技術が欠け落ちていた可能性は、これまたあっても不思議ないと私は考えます。


卑弥呼の鏡

魏志倭人伝より

又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也

これが景初2年(238年)の記録です。この「銅鏡百枚」が三角縁神獣鏡論議の元です。ちなみに魏志倭人伝にはもう1ヵ所銅鏡を下賜された個所があり、

正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔

正治元年とは240年になります。

魏から卑弥呼が貰った銅鏡は錫メッキが施されていたと考えます。もう少し言えばすべて同じ文様の銅鏡だったとは思いにくいところがあります。日本向けに手抜きの祖製品を渡したの説もあるようですが、私の知る限り朝貢に対する下賜品は王朝の威信をかけての物が渡されていたと聞いています。だから周辺国は熱心に朝貢する訳です。そのために王朝の全盛期には何回朝貢に来てもポンポン下賜品を渡しますが、王朝が傾いてくると粗悪品を渡すのではなく朝貢回数を制限する方針になったと記憶しています。ま、王朝の見栄が反映されているって事です。

景初2年の魏は三代目(曹操から数えて)の曹叡の時代ですから全盛期と言って良く、正治元年は4代目の曹芳の即位年になります。曹芳は254年に司馬師によって廃位とされ、魏から晋になりますが、別に国力自体が傾いていた訳ではありません。ですから卑弥呼は鏡面に錫メッキを施された立派な漢鏡を魏からもらったと考えています。


弥生時代の銅鐸教から古墳時代に鏡教にトレンドが変わったのは前に検証しましたが、鏡教が隆盛になればなるほど鏡需要が増します。三角縁神獣鏡は鏡需要に対応したものと素直に考えます。三角縁神獣鏡の製作に中国南方の工人が関与した説も出ていますが、十分あり得る事と思っています。これが招聘されたのか、渡来者なのか、引っさらって来たのかは不明ですが、とにかく技術導入をしてまで倭鏡の大量生産が必要になっていたとして良さそうです。三角縁神獣鏡の謎の中に、

  1. 同范鏡が非常に多い
  2. いくつかバリエーションがあっても基本形は同じである
  3. 生産地は謎である
1.と2.は技術導入でも多種多様の鏡の生産が難しかったのと、大量生産に迫られてぐらいで説明できそうに思います。生産地については、それこそ1ヵ所ではなかったかと推測しています。1ヵ所だから同范鏡が多くなり、基本様式も皆同じと言う訳です。未だに生産地が見つからないのは1ヵ所だからで、1ヵ所なら歴史の彼方で完全に消滅してもおかしいとは言えません。他に理由をあえて付け加えるなら古墳時代の鏡教の次にトレンドになったのは仏教です。鏡制作技術者はトップクラスの青銅技術者でもありますから、そのまま工房ごと仏像や仏具作りに転用されたんじゃなかろうかです。