日曜閑話79-6

銅鐸と銅鏡についての宗教的意味についての考察です。


銅鐸教と鏡教

銅鐸は2世紀からとくに近畿を中心に突如巨大化します。巨大化するだけでなく盛んに作られています。用途は叩いて鳴らす事もあったようですが、それよりも銅鐸を展示する事に重点が置かれたと考えられています。いわゆる祭祀に使われていただろうと言う事です。これは私も他の用途が思いつきませんので同意します。これを銅鐸教とします。この銅鐸教は2世紀が全盛だったようで現在確認されている最大のものは144cmもあります。この銅鐸教は古墳時代が幕開けするまでには綺麗サッパリ消滅します。奈良大学文学部 酒井龍一教授の平成9年度吹田市歴史講演会と銅鐸の謎からもう一度引用しますが、

畿内の銅鐸は、2,3世紀の弥生文化の隆盛時にもっとも盛大となり、そして古墳時代の幕開けと同時に、突然その習慣を絶っているのである。 また、我が国の最古の史書である記紀には、銅鐸についての記事は全く登場しない。弥生時代近畿地方であれほど隆盛を極めるのであるから、もし銅鐸を信奉していた人々がそのまま古墳時代を通じても近畿に居続け、やがて大和朝廷へ繋がるのだとすれば、記紀に全く記載がないのは奇異である。古伝承もない。これは一体何を意味しているのであろうか?

銅鐸の出土場所も特異で

  • 現在では銅鐸の用途については、ムラを挙げての農業祭祀に用いられたものという考えがほぼ一般的であるが、それにしてもなぜ集落内で発見されないのかという疑問は残る。祭祀なら通常集落内で行われるのが常識であろうし、拝んでおく置物なら当然集落内のどこかに配置しておくのが自然だろう。これまで出土した銅鐸のほとんどは、集落の外、それもムラの祭祀や守り神的な場所とは関係ない場所から、偶然発見されている。これがその用途についての考察を一層困難にしているようである。
  • 出土地は、ムラや墓地とは離れた丘陵の斜面などが多い。ほとんどの場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される。

これはある時期から銅鐸が廃棄されたと解釈したいところです。この銅鐸と入れ替わるように台頭したのが銅鏡です。銅鏡は近畿に多い銅鐸だけではなく、北九州に多い銅剣や銅矛も駆逐しています。銅鏡も実用品と言うより祭祀に用いられていたと考えるのが妥当です。これを鏡教と呼びます。鏡教の流行も凄かったようで、かの有名な三角縁神獣鏡だけでも500面以上出土しています。今日考えたいのは銅鐸教から鏡教の移行は改宗なのか教義の発展なのかです。改宗は全然違う宗派に宗旨替えする事であり、教義の発展は信仰する宗派自体は同じものになります。


古代人の信仰と銅鐸

そんなもの古代人に聞かないと判らないのですが、やはり自然現象への畏れが原初的なものと考えています。自然現象は大きな恵みを与えてくれる一方で災厄ももたらします。さらにそれを人智でコントロール出来ないものです。そういう物への畏怖が信仰の始まりの一つとしても間違いではないでしょう。その中でも太陽への信仰はポピュラーなものです。ですから日本の古代人も太陽信仰が熱心であったと推測します。この信仰に当たって出てくるのが偶像です。人は具体的に見えるものを神の分身として崇拝したがる傾向があります。

現在出土している銅鐸は歳月のために緑青に覆われていますが、出来た頃は違います。銅鐸の復元は各所で行われていますが、まずは和銅寛様のものを見て頂きます。

見てお分かりの通り金ピカです。日が当たるとさぞキラキラ輝いていただろうと思います。私は古代人が銅鐸を信仰したのは銅鐸の形状よりも銅鐸の輝きの方だったんじゃないかと考えています。キラキラ輝く銅鐸は太陽の分身の様に感じたんじゃないかと言う事です。銅鐸の大型化も、大きい方がよりキラキラ輝くので、大きいほど崇拝されたぐらいの考え方です。つまり銅鐸教の本質はキラキラ教ではなかったかと考えています。このキラキラの銅鐸ですが欠点があります。FindTravel様の画像を引用します。

これは神戸市立博物館にある復元銅鐸ですが、銅鐸の下部に注目してください。緑青が出始めています。青銅器の宿命として古代の銅鐸もまたそうなっていったと見て良いかと思います。これはキラキラ教の信仰対象としては好ましくないものと考えます。肝心のキラキラが緑青が増えるほど減じてしまうからです。それだけでなく不吉の前兆として信仰者を不安にさせた可能性さえあると考えます。そうやってキラキラが減じた銅鐸は信仰の対象から外された可能性はあります。新しいものへの更新が求められたぐらいでしょうか。その時に忌まわしいものとして葬られたので、特異な場所で出土した可能性はあると考えています。


鏡教

銅鏡は裏の模様が注目されますが、信仰の対象としては表の鏡面だったはずです。鏡面は現在と違い金属面を磨き上げる事によって作られます。山梨県HPの考古博物館 平成25年度 原始古代の技に学ぶ12「青銅器作り体験〜海獣葡萄鏡・連弧文銘帯鏡・ミニ銅鐸〜 」に復元された鏡面の画像があるので引用します。

古代人の信仰の本質がキラキラ教ならば銅鏡の方が銅鐸よりもキラキラしています。それとこれは調べきれていませんが、磨く事により緑青の影響を防げたんじゃないかと考えています。つまりはいつまでもキラキラを維持できるです。よりキラキラと輝き、そのキラキラが維持できるのなら信仰の対象としてより好ましいの判断が出てきてもおかしくないと思います。


キラキラ教仮説

銅鐸だけではなく銅剣や銅矛が一斉に銅鏡に取って代わられたのは、信仰の本質がキラキラ教だったからの可能性を考えています。よりキラキラするものが出現した時に従来のキラキラが捨て去られたぐらいの考え方です。畿内で言うと銅鐸から銅鏡への変化は宗教の本質が変わったのではなく、宗教として信仰する偶像が置き換わっただけじゃなかろうかです。もし銅鐸の形状を信仰の対象としていたのなら、それほどアッサリ同じ時期に銅鏡に置き換わるのは不自然だからです。鏡教が新興宗教として広がって来ても、根強く銅鐸教徒は残るはずだからです。

ある時期からバッタリ銅鐸が持て囃されなくなった仮説としてキラキラ教仮説を考えています。