古代エジプトの神々とアーメン

エジプト学はホントに高校の教科書レベルぐらいしかしらないので、いつもながらの泥縄式でゆるゆるとムックしていきます。


エジプト神話での創世時の神々

エジプト神話で辛うじて知っているのはオシリスとイシスのお話です。これも白状しておきますが、子どもの時に絵本で読んだ知識なのでここからのアップデートが必要になります。エジプト最古の神話はウナス王のピラミッドから見つかったものとされています。ウナス王はギザの三大ピラミッドの時代から120年ぐらい後の人物のようですが、そのピラミッドの玄室にビッシリとヒエログラフが刻み込まれ、ピラミッド・テキストと呼ばれているそうです。このピラミッド・テキストの内容は世界の始まりについて書かれていたもので、日本であえて喩えると古事記イザナギイザナミ神話の原本が見つかったぐらいのインパクトがあるそうです。ナショナル・ジオグラフィック日本版「第13回 語呂合わせで生まれたエジプトの神々」より、

20170122111147

ピラミッド・テキストから解読された原初のエジプトの神々の系譜は、

ゲフとヌトの子どもの長幼順はオシリス、イシス、セト、ネフティスで、ネフティスがオシリスを酔い潰して結び産まれた子どもがミイラの神アヌビスとなります。この辺の原初の神々の夫婦や親子順には異なった伝承も多いようですが、ピラミッド・テキストではこうなっているようです。それと正確にはナショナル・ジオグラフィックではホルスやアヌビスについては触れていないのですが、私の理解のために付け加えています。とりあえずオシリスやイシスのエジプト神話での位置づけはこのあたりとわかればここは私にとって十分です。


アメン神

エジプトの神で有名なのはラーですが、どうも「ラー = アトゥム」になっているようです。ここはやっぱり「どうも」なんですが元々はラーとアトゥムは別だったようなんですが、ラーが格上げされていってアトゥムと習合されていった経緯があるようです。古代エジプト多神教なのですが、王座を巡る戦国時代みたいな状況が幾度も起こり(そりゃ起こるでしょう)、王座を獲得した豪族の守護神が格上げされたのを反映しているぐらいを想像します。というのもアメンてな神もいるのですがお手軽にwikipediaより、

元々はナイル川東岸のテーベ(現・ルクソール)地方の大気の守護神、豊饒神である。中王国時代第11王朝のメンチュヘテプ2世がテーベを首都としてエジプトを再統一して以来、末期王朝時代の第30王朝までの1,700年余りにわたり、ラー神と一体化、「ラー=アメン」としてエジプトの歴史・文明の中心に位置し、エジプトの神々の主神とされた。

読めばそのままなのですが、アメンはテーペの地方神だったようです。それがアメンを守護神とするテーベの豪族が上下エジプト再統一を果たした時に格上げされ、ラーと一体化されたとなっています。非常に単純に解釈するとエジプトの最高神はもともとは太陽神であるアトゥムのようなのですが、これがラーとまず一体化し、さらにアメンと一体化したぐらいでしょうか。強調するほどではありませんが、

    アトゥム = ラー = アメン
エジプト学では基礎もエエとこだと思いますが、個人的にはバラバラだった太陽神の関係がスッキリした感じです。でもって、このアメン神が太陽神の地位についてからは、さらなる神の格上げは起こらなかったようです。いや一度だけ起こっています。


アメンホテプ4世の宗教改革

メンチュヘテプ2世時代は紀元前2000年ぐらいだったようですが、太陽神になったアメン神には強大なアメン教団が形成されたようです。その教団の力はファラオさえ凌ぐものにアメンホテプ4世の時代にはなっていたようです。アメンホテプ4世の時代とは紀元前1353年〜紀元前1336年頃となっていますから、メンチュヘテプ2世の時代から650年ぐらい後のお話になるようです。そういう状況に対しアメンホテプ4世は高校の教科書にも載る宗教改革を行います。

具体的にどんな内容であったかですが、通説ではアメン神に代ってアテン神信仰を行い、同時にアテン神以外の祭祀を停止させたとなっており、これを世界最初の一神教形態だと評されています。アメン教団に対しても弾圧が加えられたぐらいは想像できますが、おそらくアメン教団を筆頭ととする他の教団の抵抗も強かったとするのが当然で、そのために首都をテーベからアケトアテンに遷したとなっています。スケールが違いますが、平城京から平安京に遷都した桓武天皇の状況に少しだけ類似しているかもしれません。

アテン神とはなんじゃらほいになるのですが、夕日を神格化した神とされ、テーベの地方神だったとなっています。アテン神自体の神話も神像も貧弱なものしかなく、マイナーな神様であったようですが、アメンホテプ4世はアテン神に傾倒したようです。なぜにアテン神だったのかについては妻がアテン神信者であったとする説もあるようですが、ごく素直に現世の政治に影響力を持たない弱小神であった点が気に入られたぐらいに想像します。

ここでミルチャ・エリアーデの説を面白く感じました。ミルチャ・エリアーデも聞いたこともない人物だったのですが、宗教学の大家のようです。エリアーデによるとアメンホテプ4世の宗教改革一神教でなく二神教であったとしています。私の解釈も入るのですが、エリアーデによるとまずファラオは神です。民衆はファラオをまず信仰しなければならないはずです。まあ崇拝と信仰の距離があるはずですが、日本人ならわかりやすいところで、家では仏教徒であっても神道天皇を疑問の余地もなく崇拝するぐらいの関係でしょうか。まあ天皇にも仏教徒がごく普通にいるのが日本の多神教ですから。。。

問題はアメン教団で、ファラオの権力を凌ぐとはアメン神とファラオの関係が「アメン > ファラオ」であるとしたぐらいに考えます。ここも元々というか精神世界的にはそうかもしれないのですが、現世政治においても「ファラオ < アメン」になると宜しくないぐらいです。そこでアメンホテプ4世は神への信仰を2つに分けたとエリアーデはしています。具体的には、

  1. ファラオは新たに太陽神としたアテン神を信仰する
  2. ファラオ以外の民衆はファラオのみを神として信仰し、アメン神を始めとする他の神々の信仰を停止させた
政治目的としてアメン教団の力を抑え込むのがあったはずですが、アメン神の代わりに取り立てたアテン神が第二のアメン教団になってしまっては意味がなくなります。そこで弱小のアテン神を太陽神にしただけでなく、ファラオのみが崇拝する神としたぐらいでしょうか。こうすればアテン信仰はファラオのみに留まり、アテン教団みたいなものが形成されてファラオの権力を脅かす心配がなくなるぐらいです。

エリアーデは宗教学の大家であり、その影響力は大きかったようですが、一方でその見方に偏りが強く批判もあるとされています。それでもアメンホテプ4世の宗教改革の内容については当たっている可能性はありそうです。宗教改革は急進的であったが故に反対勢力も多く、アメンホテプ4世の死と共に再びアメン教が復活しますが、一方でアテン教信仰は消滅したとなっています。アテン教信仰が消滅したのはアメン教による逆襲もあったでしょうが、それよりも信者がファラオだけというスタイルであったが故に、肝心のファラオがアメン教に戻ると雲霧消散してしまった気がします。


フロイトの主張

wikipediaより、

ジークムント・フロイトは、アクエンアテンの治世年と出エジプトの年と推定される年代がほぼ同じである事を根拠に、アテン神が同じ唯一神教であるユダヤ教の神ヤーウェの原形とする説を唱えた。

フロイトはあの精神医学の大家であるフロイトです。さて出エジプト記の年代については、聖書の中に周辺諸国と関連させて年代を特定する具体的な記述が乏しいそうです。数少ない手がかりは、旧約聖書列王記上の6章1節ので、

ソロモン王が主の神殿の建築に着手したのは、イスラエル人がエジプトの地を出てから480年目、ソロモンがイスラエルの王になってから4年目のジウの月、すなわち第2の月であった。

ソロモン王の統治期間は紀元前9世紀半ばとされ、そこから480年前なら15世紀半ばぐらいとするもので、これを早期説と呼ぶそうです。これに対しエジプト王朝の状況から紀元前13世紀頃とするのが後期説と呼ぶそうですが、こちらの方の根拠は出エジプト記1章11節で、

イスラエルの人々はファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセスを築いた

ああ、なるほどです。だから映画の十戒ではラムセス3世がファラオの訳です。いや違うか、ラムセス3世の統治期間は紀元前12世紀半ばぐらいになるのでラムセス2世になります。ラムセス2世も大王と称えられるファラオで、あのアブシンベル神殿やカルナック神殿を建設していますから確かに十分に該当します。ほいじゃピトムとラメセスがどこになるかですがピ・ラメセスと考えられており、これはテーペからラメセス2世が遷都するために新しく作られた都市のようです。

ラメセス2世説の根拠としてもう一つあるのがイスラエル石碑と呼ばれるものだそうです。

20170122165032

これはカイロ博物館にあるのだそうですが、そこには

アシュケロンは征服され、ゲゼルは占領された。イェアノムは制圧された。イスラエルは滅ぼされ、子孫は絶えた。

この石碑はラムセス2世のメルエンプタハ王によるものでカナンへの遠征記録(戦勝碑)とされているようです。石碑ではエジプトが圧勝したように書かれていますが、たぶんそうじゃないだろうとするのが現在の定説で、引き分けても、負けても神であるファラオが指揮する軍隊ですから必ず勝ったと記録するのがテンプレであったからです。ほいでもって聖書の記述合わせてラムセス2世時代はユダヤ人はエジプトにおり、そこから出エジプトしてイスラエルという国家を樹立したが、これを攻撃するためにメルエンプタハ王が遠征し、イスラエルがこれを撃退したのが例の紅海の割れるシーンに関連してるんじゃないかと言われている訳です。

この辺の解釈は広いらしく、イスラエルはもともとエジプトの従属国家で労働力を年貢として納めていたが、その負担が重すぎて独立国家となったとするのもあるようです。ただそれならば、聖書の記述として伏せている点が不可解ですが、早期説と後期説を較べるとやはり後期説が有力そうな気はします。早期説はソロモン王というキーワードこそありますが、480年の数え方に無理があるとの見方が多いようだからです。おそらく出エジプトから出来事の積み重ねというか、王の統治年数の積算ではないかと推測されていますが、そこまで古いと絶対に誤差が生じるからです。

早期説が15世紀半ば、後期説が13世紀前半。アメンホテプ4世の時代が14世紀半ばですから、フロイトは早期説の修正版ぐらいを根拠にしていたのかもしれません。ですのでアメンホテプ4世の時代と出エジプト記の時代は微妙にずれそうな気がします。


出エジプト記の時代のユダヤ人の宗教

出エジプト記はエジプトに住んでいたユダヤ人が指導者モーゼに率いられ、約束の地であるカナンに向かう様子を描写したものですが、これは作り話ではなくそれなりに史実としてあったと見て良いと考えています。であれば、出エジプト前は相当長期間ユダヤ人はエジプトに住んでいたと見て良いことになります。だってバビロン幽囚はあっても入エジプト記は聖書にないですからね。聖書的にはエジプトの中にユダヤ民族が存在していた事になっていますし、ユダヤ民族がいなければユダヤ人への迫害とか、ユダヤ民族の出エジプト記も成立しなくなります。

でも本当にそんな民族が果たして成立していたかはチト疑問です。古代ローマの時代ぐらいから、ユダヤ民族は自らの宗教・文化を依怙地なまでに守る民族であったのは確かで、統治に手を焼いた古代ローマからの軍事的侵攻をたびたび受けていますし、各地に移り住んでもコミュニティを固く守っています。そんな状態が出エジプトの前のユダヤ民族に果たして同様にあったのだろうかです。一神教であるユダヤキリスト教多神教の相性が悪いのは、キリスト教古代ローマに広がった時の事を思い出せばわかり、そんな異様な集団が多神教世界の古代エジプトで長期間存在しえたかの疑問がどうしても残ります。

ただなんですがユダヤ民族がコチコチの一神教になったのは「いつか」の問題が残ります。現在の考古学は怖いもので、古代イスラエルの黄金時代といえるダビデ王の時代から多神教の実在を示す祭壇や女神像が次々と発掘されているそうです。そういえば聖書でもユダヤの民衆がしばしば偶像崇拝を行い、神の怒りを買ったシーンの描写があったはずです。そういう多神教の痕跡はバビロン捕囚の後には途絶えたとなっていますから、出エジプト記の時代には多神教であった可能性は十分にあると考えて良さそうです。

まあ、多神教世界に長年住んでいれば、そっちに馴染む方が自然と言えば自然です。自然なんですが、それでも一神教に近くなっていた可能性はあると思っています。多神教世界でも一神教に近いものは成立し定着します。たとえば現在でもコチコチの多神教世界である日本でも浄土宗や浄土真宗があり、日蓮宗も加えても良いかと思います。浄土宗・浄土真宗は相当枯れていますが、今なら日蓮正宗がそうだと思います。これらの一神教多神教世界で共存するためには、

    他人の信心に干渉しない
一神教多神教が摩擦を起こすのは、一神教サイドが多神教の存在を許さなくなった時です。多神教側を攻撃して排除するのが正義になってしまうと、猛烈な摩擦呼び、どっちが生き残るかの殺伐モードになるぐらいでしょうか。なにが言いたいかですが、出エジプト時代のユダヤ人の中に他の宗教の存在を許さない強硬派が指導階級に存在したんじゃなかろうかです。勃興期の一神教のパワーは凄いですから、もともとは多神教気質の人間でも一時的に引きつけられる事があります。むりやり例えれば一向一揆みたいなものです。

戦国期の一向一揆のパワーがいかに凄かったは説明するまでもありませんが、現在は平穏なものです。私も一応西本願寺ですが、合格祈願に天神さん、家業繁栄にえべっさん、厄除けには厄神さん、地元の秋祭りには氏子になっている神社と完全な多神教世界で暮らしています。出エジプトという非常事態に一神教が異様な求心力を持った可能性はあり、これがダビデ王の時代の平和と繁栄が訪れると元の多神教気質に戻っていたとしても日本人ならさして不思議に感じないところです。


アーメン

さて出エジプト記ダビデ王時代の宗教観を合わせて考えると、ユダヤ教のルーツは古代エジプトの宗教であったとするのがやはり自然そうです。どこかの教団の中で一神教的に尖鋭化した集団が暴走し、それがあちこちで摩擦を起こしてエジプトから出ざるを得なくなったぐらいの状況を想像します。ではでは母体となる宗教はなんであったかです。フロイトがアテン教に注目したのは、やはり一神教に近い形態であったからで、たぶんアメンホテプ4世死後のアメン教団による反動の中で追い出されたぐらいの仮説じゃないかと思います。

私はフロイトと少し考え方を変えてアメン教団説を取りたいと思います。教団の中で一神教的に尖鋭化した集団が発生したとしても、あくまでも教団の中では少数派のはずです。その少数派が全体の中で社会問題になるほどの人数になるには元の教団母体が巨大である必要があるからです。大きさという意味でアメン教団説をまずとります。

これだけじゃ傍証として物足りないのと、面白味が少ないのでもう一つかなり異端の説をあげておきます。ユダヤ教キリスト教も祈祷の時に「アーメン」と唱えます。私は長い間、アーメンは神を称える言葉ぐらいに思ってましたが、実はそうではないようです。古代ユダヤ教では祭祀などの時に神官が聖書をまず読み、その後に信者に一字一句すべてを復唱させていたそうです。ただそうなるとやたらと祈祷が長くなりますし、聖書のセンテンスも長いものがあると復唱するのも大変になります。

そこで神官が読み上げた後に信者が「同じく」と答えるようになったのがアーメンの起源とされます。つまり「アーメン = 以下同文」になり古代ヘブライ語では以下同文みたいなニュアンスがアーメンであったってお話です。これは通説というよりユダヤ教キリスト教の公式見解と受け取って良さそうで、昔の人も合理的な事をすると思ったのと、古代のユダヤの神官がアーメンによる省略をよく認めたものだと感心しました。このアーメンの公式説は信憑性もあるのですが、異端の説ととして

    アーメンとはアメン神を崇める言葉だ!
「えっ」と思ったのは白状しておきます。いくらなんでもってところですが、実はここから今日のムックは出発しています。ほいで拙いながらムックを重ねるとユダヤ教のルーツにアメン教の可能性があるのは上記した通りです。お祈りで神の名を織り込むのはポピュラーな手法で、真宗でも聞法の節目節目に南無阿弥陀仏が入りますし、仏説阿弥陀経の中でも繰り返し南無阿弥陀仏が入ります。イスラム教なら「アッラーフ・アクバル」みたいなものでしょうか。アメン教のお祈りもまたそうであったとするのが自然な気がします。

フロイトのアテン教ルーツ説には賛同しませんでしたが、アメンホテプ4世はやはりなんらかの影響をしている可能性はやはりありそうな気がします。まず古代エジプト最高神は太陽神になります。これは間違いないようですが、この太陽神は「どうも」しばしば置き換わったようです。置き換わったは宜しくない表現ですが、入れ替えたはあると考えて良さそうです。うまく言えないのですが、同じ芝居であっても主役のキャストが変わるぐらいです。具体的には、

    アトゥム → ラー → アメン
多神教世界の大らかさで、完全に入れ替えるというより、なんとなく同化させてしまう結果になっており、アトゥムも、ラーも、アメンもなんだかんだと併存しているようですが、それでもメインになると強大になります。アメンホテプ4世の宗教改革の一つは太陽神をアメンからアテンに変更した点もあるはずです。でもってそれをユダヤ人たちは目の前で見ている事になります。つまりは神は入れ替え可能であることです。

この考え方を出エジプト後に指導者階級は実践したんじゃなかろうかです。元がアメン教ですからアメン神を信仰するのですが、アメン神はエジプトの神であり、エジプトは自分たちを追い出した国です。追い出した国の神ではなく自分たちを守る神に「取りかえよう」ってところで、そこで出てきたのがヤーウェでしょうか。ここでモーゼの十戒より、

神の名をみだりに唱えてはならないこと

ユダヤ教だけでなくキリスト教も現在でもこれを引き継いでいるのは間違いありませんが、よくよく考えれば不思議です。どうも十戒のこの項目の真意は違っていた気がします。どう違っていたかというと

    神の名を無理に唱えなくても良い
指導者階級がヤーウェへの変更を決めても、民衆が賛同してくれなかったなんじゃなかろうかです。なんちゅうか「ポッと出のヤーウェって何者やねん!」てなところです。多神教は現世利益を求める点が多い宗教ですから、無名の神への取り換えを提案しても受け入れてくれなかったぐらいの状況を想像します。ヤーウェが神の名であるのは今がそうですから、変更の決定は変わっていないのはわかりますが、当時的には指導者階級も妥協をせざるを得なくなったぐらいを考えます。具体的には、
    アーメンと唱えるのはアメン神を唱えているのではなく、唱えてはならない神の御名の代用である
民衆はアメン神を唱えているのですが、指導者階級はそう聞かないと定義し、その裏付けに十戒に「神の名を唱えるな」と刻んだぐらいで、そうでもしないと流浪の集団の結束が保てなかったぐらいを想像します。指導者階級の神の変更は長期戦で行われ、いつしかアメン神は忘れ去られましたがアーメンだけは慣習として生き残ってしまったぐらいでしょうか。そういえば偶像崇拝の禁止もあったはずですが、偶像を作るとなればアメン神の像になってしまいますからヤーウェ像を作りたくとも作れなかったのかもしれません。

もちろんあくまでも異端の説ですから、信憑性もそれぐらいってところで宜しくお願いします。


ユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教も一神教ですが、系譜的にはユダヤ教が元祖ぐらいに理解しています。ただユダヤ教は世界的な広がりを持てず、ユダヤ教から派生したキリスト教イスラム教が大教団となっています。イスラム教の知識は乏しすぎるので置いといて、キリスト教があれだけ広がった理由を少しだけ考えてみます。キリスト教が世界規模の宗教になったキッカケは古代ローマ帝国を席巻したからだと考えています。ここも良くわからない点が多々あるのですが、古代ローマ人も気質的に多神教の人々であったはずです。

そんな古代ローマ人キリスト教を信仰した理由なんて素人では難しすぎるのですが、なんとなく多神教の性格を取り入れたからの気がします。まずまずモーゼの十戒の「神の名を唱えるな」ですが、神の子であるキリストの名を唱えるのはさほど問題なさそうです。この辺は三位一体説とかなんとかあるのですが、偶像崇拝の禁止もキリスト像ならOKなのはわかります。

それとキリスト教もヤーウェ以外の神を認めていませんが、その代わりに守護聖人の存在は認めています。聖人なので神でないのですが、多神教世界の人間からすれば神以外のなにものでもありません。これも公式の解釈は存じませんが、キリスト本人も聖人も、神に近い位置にいてもあくまでも人であるの解釈が行われた結果の気がしています。人だから名を唱えても、像を作っても「神でない」からOKぐらいでしょうか。ユダヤ教多神教要素を加えたのがキリスト教の成功の原因の一つの気がなんとなくします。

この辺は宗教史の問題で詳細に検討・研究されているかと思いますが、外野の多神教徒からすればそう見えるぐらいにさせて頂きます。それにしても英語の

    Oh my God !
あれも抽象的な意味での神を唱えているだけで、神の名を唱えているだけでセーフなんでしょうね。もっとも時に「クソッタレ」って意味になるのは・・・ま、えっか。