日曜閑話81

力業でも古墳問題を押し切ったので「神武は誰だ?」に進みます。


畿内説の弱点

卑弥呼が君臨した邪馬台国がどこにあったかの論争は畿内説、九州説に二分されるぐらいの理解で良いでしょう。最近では唐古・鍵での発掘成果、さらには纏向遺跡の発掘成果により畿内説の旗色が良いぐらいに受け取っています。誤解しないで欲しいのですが畿内説で説明できる事はたくさんあります。それでもの弱点と言うか気になる点は記紀卑弥呼も壱与も出て来ない事です。畿内説も様々でしょうが、箸墓古墳卑弥呼の墓と仮定するなら、そこから古墳時代の平和の幕開けになる事になり、畿内王権はそこから始まる事になります。

記紀が編纂されたのは720年ですから卑弥呼の時代から470年ぐらい経過しており伝承が失われてしまったとするのもありますが、そう考えてしまうと話が広がらないので他の可能性をあえて考えます。

  1. 万世一系論の邪魔になって伏せた
  2. 伝承が失われたのではなく元からなかった
1.については卑弥呼は子孫を残していない可能性(魏志倭人伝で「夫婿なく」の記載)があります。また後継者の壱与も誰の娘かは魏志倭人伝からは不明です。また壱与の後継が誰であったかも不明です。壱与は13歳となっていますから未婚であった可能性は高く、卑弥呼の後継者になってから夫を娶って子孫を設けていたら天皇家に父系でなく、母系が生じる事になります。だから伏せたぐらいは考えられない事もありません。ただなんですが、記紀編纂時でも大昔の伝承ですから「どうとでも書ける」はありそうな気はします。たとえ記紀編纂時に魏志倭人伝を入手していたとしても、卑弥呼の前の事は書かれていない訳ですし、卑弥呼の前に男王がいたのは明記されていますから、父系に脚色するのはそんなに難しい作業とは思いにくいところがあります。

個人的には2.に傾いています。卑弥呼伝承自体が存在していなかった可能性です。存在していなければ書きようがないからです。一方で神武伝承は確実にあったと見ています。神武伝説は荒唐無稽とするには妙に具体的な点があります。感触としてなんらかの事実を下書きに紡がれたものの気がしています。ほいでは神武と卑弥呼が無関係かと言われればそうではない気がしています。むしろ密接な関係があったと考えたいところです。


卑弥呼の後継者争い

神武の候補としてぼんやりと頭に浮かんでいるのは卑弥呼の兄弟ぐらいです。確実に卑弥呼に兄弟はいます。魏志倭人伝には

有男弟佐治國

これは「男弟有り、国を治めるを佐く」ぐらいに読み下すのでしょうか。この男弟がどうなったかは実は不明です。卑弥呼は殆ど人前に出なかったとなっていますから、政治の実務は男弟が取っていたと考えて良さそうです。邪馬台国の実態は北九州都市国家連合の盟主国ぐらい、そうですねぇ、古代ギリシャアテネぐらいをそうていしています。王じゃなくて盟主ですから、都市国家間の紛争や利害の調整を円滑に行う政治手腕も人望もあったんじゃないかと推測しています。卑弥呼の後継については、

更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人

こうなっていますが、この男王が男弟かどうかです。どうも違うような気がします。男弟が後継者なら「國中不服」になるのは考えにくいところです。ま、卑弥呼の神秘性がなかった点で揉めた可能性は否定しませんが、後継者を巡る紛争は男王が立ってすぐに始まったと見ます。つうのも魏の使節である張政は後継者紛争も見、その後に壱与の即位も現場で見ていたと解釈できるからです。男弟が王になり、しばらくして後継者紛争が起こったのなら張政は男王の即位の時点で帰国するはずだからです。しかし張政が帰国したのは壱与の即位後であり、男王が立った後にすぐに紛争が起こったために帰れなくなったと見ます。

男王が王位に就いてすぐに紛争が起こると言う事は、その即位の経緯に不自然なものがあったと考えたいところです。一番あり得そうなのは王位の簒奪です。いかにもありそうなストーリーを書いてみますが、男弟の下にさらに弟がいたぐらいの配役です。この男弟の弟が王位を欲して最有力候補の男弟を殺して王位に就いたぐらいです。つまり男王とは男弟の弟であり、王位に就くために兄を殺して王を称したぐらいです。これぐらいの経緯であれば「國中不服」状態にすぐになっても不思議ないでしょう。そういう経緯なら壱与は男弟の娘かもしれません。卑弥呼には子供がいないようですから、人望のあった男弟の娘である壱与を立てる事によって後継者争いが漸く収まったぐらいです。

別に男王は男弟の弟でなくとも良いのですが、基本の経緯として有力後継者候補の男弟暗殺事件があり、これの首謀者が男王であるとの見方が瞬時に広がって後継者戦争が起こったと見ます。


男王の行方

これも魏志倭人伝に記載がありません。書いてあるのは

復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喻壹與

普通に考えれば「殺された」ないしは追いつめられて自殺したになります。そう考えても何の支障もないですが、違う可能性を考えています。

  1. 落ち延びた
  2. 自分の勢力圏に引っ込んだ
1.のプロットも魅力的で、日向に落ち延びて勢力を盛り返した上で畿内に進む想定を考えれば神話にも合うのですが、いかんせん時間が足りません。早く神武が畿内に進んでくれないと古墳時代に間に合わないのです。大勢力で日向に移住も考えましたが、チイと力業過ぎるのでこっちの可能性は保留です。

2.は案外可能性としてあります。まず男王はどこで王を称したかです。なんとなく卑弥呼の宮廷内でのクーデターの様に感じますし、男王は卑弥呼の宮殿で王位を名乗ったように思ってしまいますが、違うんじゃなかろうかです。男弟は卑弥呼の宮殿なりで暗殺された可能性はありますが、男王は女王国と別の国で王を称した可能性も十分にあると考えています。邪馬台国の実態は連合国の盟主ですから、女王国以外の有力都市国家が新たな盟主になると宣言した可能性です。誇張もあるとは思っていますが後継者戦争の規模は、

更相誅殺 當時殺千餘人

男王が卑弥呼の宮殿で即位したのなら男王の根拠地は女王国です。そしてこれに不服を唱える勢力が攻め寄せて来たのなら最終決戦場は女王国になります。それこそ卑弥呼の宮殿が修羅場になります。そういう修羅場になれば魏使の張政もタダでは済まないと考えます。張政は後継者戦争を見ていますが、見れたのは比較的安全圏にいたからだと考えます。つまりは張政は女王国に居て、女王国は直接の戦場にならなかった可能性です。継承者戦争は男王の都市国家及び男王を支持する都市国家と不満勢力の間で行われたとの見方です。さらに言えば、男王派と不服派の戦いは男王派側が壊滅して終わった訳でもないと見ています。戦況は男王派に不利となってはいましたが、その時点で和睦を結んだ可能性です。講和条件は、

  1. 男王は王の呼称をやめる
  2. 男王派は壱与が女王になる事を認めこれに従う
領土の割譲とかの他の条件はあるにしろ、勢力として生き残った状態を考えます。ヒョットしたら両派の和睦工作に張政が乗り出したかもしれませんが、そこまでは不明です。


壱与政権

壱与政権がその後の男王をどうしたのかになると全く不明ですが、壱与は13歳となっていますから、卑弥呼の男弟のような実力者がやはり政治の実務を仕切ったと考えます。一度血を見る紛争をやるとシコリは残る物です。和睦はしたものの女王国側に取って元男王は危険分子なので、この際滅ぼしてしまおうの機運が醸成されたぐらいを想像します。世の中、ありがちな事です。ただ大義名分と言うか名目が必要ぐらいは配慮したぐらいに考えます。こういう時の常套手段は「無理難題を吹っ掛ける」です。その無理難題が畿内遠征じゃなかったろうかです。そんなものは無理と断れば征伐理由にするぐらいです。

元男王にしてもそういう女王国の空気を察知していたと想像します。ただ留まって抵抗しても勝算が薄いところです。また畿内遠征を承諾しても留守中に次の無理難題で滅ぼされる危険性も高いぐらいでしょうか。そこでサバイバルのための博打に出た可能性です。女王国の命に従う一方で、国を捨てての畿内への移住計画にしてしまったぐらいです。これが神武東征じゃなかろうかです。この神武が男王なのか、男王の息子なのかはわかる由もありませんが、畿内の大古墳出現を4世紀までずらす事が出来ますから、時間的には息子でも間に合うかと思います。


最後はどうしても力業

今日の仮説のキモは

  1. 卑弥呼の死から古墳時代(4世紀初頭)に間に合わせるように神武が出現し東征を行う
  2. 神武に饒速日命勢力に対抗できる兵力を持たせる
  3. 関係があるはずの卑弥呼も壱与も伝承から抹殺される
この条件を満たす仮説の創作です。このために考えたのが神武と壱与は喧嘩別れする必要があります。喧嘩別れ(国ごと亡命)して出て来たので、畿内遠征の長たる神武が英雄であり、始祖になるわけで、北九州時代の事は黒歴史として伝承を封じ込めてしまったぐらいの考え方です。